眉間の皺がトレードマークと言って良いほどのアッシュであるが、この時も表情を繕うことなく大いに眉間に皺寄せて苛ついていた。彼の上司であり敬愛する師匠でもあるヴァン・グランツがバチカルへと赴いているからだ。
計画の実行はいよいよ一年後にまで迫っている。アッシュを元に作り出された出来損ないの屑レプリカを手懐ける為にも、度々顔を出す必要があることは理解しているが……、感情はまた別なのである。
また、そんな時に限ってアッシュの特務師団は何の命も背負っていない。他の六神将と違って教団の表舞台に出ることの滅多にないアッシュは、任務がなければひたすら暇を持て余すしかない。
悪態をつきながら教団の広い廊下をずかずかと歩いていたアッシュは、自分に負けず劣らず暇そうな人間を認めてつい足を止めた。普段は地下の研究室に籠もって、滅多にこの界隈では見かけない顔である。
常のようにゴテゴテとした空飛ぶ椅子で移動することなく、というよりその椅子の背を押しながら必死で前に進もうとしている。六神将の同僚のディストだった。
身長こそあまり変わらないが、腕の太さは一回り以上違って見える。何らかの音機関が内蔵されている椅子は見た目より重いのだろうし、ひいひいと呼吸を忙しなくさせるか弱い姿には、思わず同情心が湧いてしまった。
「……おや、アッシュじゃありませんか!」
しかし顔を上げたディストが、いかにも手助けして欲しそうに喜色を浮かべれば、反射で顔を顰めてしまうのがアッシュの気質である。何せ、こちらは苛々している最中なのだ。
「ふん、譜業の権威だとか豪語してるくせに、自作の音機関故障させてやがるのか」
「キイィっ!これはアリエッタの連れてる魔物の所為で、私の責任じゃありませんっ!!」
「知るかよ、うぜえ」
嫌味を吐けば、百倍の勢いで反論してくる。シンク辺りなら面白がって弄り倒すのかもしれないが、自分にとっては甲高い声が耳に障るだけだ。
「ふ……ふんっ!どうせヴァンに置いていかれて拗ねてるんでしょう?あなたも子供ですねっ!」
「なっ……何だと!?」
馬鹿っぽい容姿にも関わらず、こうして人の弱みを的確に突いてくるのもディストの腹の立つ部分だ。
「どうしてあなたがそんなにもヴァンに懐いているのか、私は理解に困りますがねぇ」
末期の病人に対するような同情心に満ちた視線を寄越し、手遅れとでも言うかのように首を横に振る。自他共に認める短気な性分であるアッシュは、額の血管を浮き立たせた。
「懐くとか言うんじゃねぇ!てめえ、仮にもヴァンの部下だろう!?忠誠心はねーのか!!」
そうだ、アッシュは馬鹿なレプリカとは違う。懐くとかいう子供っぽい感情ではなく、その理想に共感したから従っているのだ。決して、お前の力が必要だとか言われて手を差し伸べられたからではない!
「必要…ねぇ……」
アッシュの必死の主張を、ディストは鼻で嗤い飛ばした。今さっきまで、椅子を運ぶのにすら必死になって苦労していたくせに。
「そうだ!だから俺をアクゼリュスで死なせない為にレプリカを……」
「しっ!」
途中で遮られ、初めて自分が何を口走ろうとしていたのか悟ったアッシュは怒りも忘れて狼狽した。一番手近にあった扉を開けて中の無人を確認したディストが手招くまま、使われていない応接室に身を隠す。つい置き去りの椅子を運んでやりさえしてしまったが、本来ならそのまま話を切り上げて廊下を立ち去っても構わなかった筈だ。勢いに呑まれたとしか思えない。
「一回訊いておきたかったんですけどね……」
アッシュの後悔には知らぬふりで、ディストは我が物顔で応接ソファに腰掛ける。仕方なく、アッシュも対面に腰を下ろした。
「何をだ」
「あなた、考えたことがないんですか?預言に逆らうというのなら、レプリカを用意してまで、真っ先にアクゼリュスを崩落させる必要はないでしょう」
普段の躁鬱じみた振る舞いを忘れたようにアッシュを見つめる、ディストの表情は初めて見る真剣さだった。嫌味でも冗談でもないらしいと悟って、何より話の内容にアッシュは頬を強張らせる。
「な……何を……」
「確かにあなたの超振動は武器として魅力ですが、導士イオンとユリアの血を引くヴァンの二人がいれば、パッセージリングの停止は可能です。その気になればどこからでも外郭大地を落として瘴気の海に沈められるんですよ」
何を言っているのだこの男。今まで一度たりとも疑ったことのない、ヴァンの計画に対する大それた疑義に、アッシュは怒りを抱く余裕すらなく茫然とした。
「それは、預言に縛られてる奴らを油断させる為に……」
意味がないというなら、何故自分は家族や愛する者達から引き離され、拐われる必要があったというのか。
「判断力を奪うのが目的なら、いっそバチカルやグランコクマから落としてしまえばいい。あなたの大事なお姫様と一緒にね」
「てめぇっ…!何てことを!!」
「遅かれ早かれそうなります。あなたが協力しようとしているのはそういうことですよ、アッシュ」
目を瞑るアッシュの眼窩に、ナタリアの無邪気な笑顔が浮かんで消えた。何よりも守りたい者。
「違う、ヴァンは、人類を滅びの運命から救う為に……」
「方法がおかしいでしょう。五十年後の滅びを避ける為に来年滅ぼすと言っているように、私の耳には聞こえますよ」
彼女を、いや彼女と共に守ろうとした国を国民を滅びから救う為に、だからアッシュはヴァンの計画に協力を……分からない。
「……気付きませんか。ヴァンはホド出身です」
首を振って話を全身で拒絶しようとするアッシュには構わず、ディストは更に言葉を継いだ。普段とは別人のようにゆっくりとした口調は、自分自身に語り掛けているようでもある。
「彼を実験台にし超振動で島を崩落させた、ジェイド・バルフォア博士の考案したフォミクリーと、その幼馴染みで片腕だった私。彼の故郷に進攻し、島が見捨てられる原因となったファブレ公爵家、その跡取りのあなた。彼や島を滅びから救ってくれなかった、この世界。こんなファクターを計画に組み込んで、明らかにみえみえじゃないですか」
眼鏡のフレームを押し上げるディストの仕草は、見る人が見ればその幼馴染みの死霊使いにそっくりだと評したかもしれない。しかしマルクトの軍人と面識のないアッシュはただ絶句し、ディストの言葉に耳を傾けるしかなかった。
「レプリカで真っ先にホドを復活させ、そこを唯一浮上している場所として他を見下ろす。自分の愛する妹やかつての主君のような同郷人だけを住まわせ、他の全人類や大地を偽物…レプリカと入れ替える。露骨な復讐ですよ。あの男が世界の救済なんか考えてる筈がないじゃないですか。アリエッタの悲願がフェレス島復活であるのと同じです」
「……嘘だ!嘘だ嘘だ嘘だっ!!」
「信じないなら、別にそれで構いませんけど」
淡々とディストは呟く。眼鏡のレンズ越しに寄越された梅紫の瞳は、口にした台詞と寸分違わずアッシュの反応など心底どうでもいいと言わんばかりの色を湛えている。その嘲りにも似た無関心に、誇り高いアッシュの腸は口惜しさで煮えたぎった。
「だったらお前は何だ!ヴァンの目的が復讐だというなら、何故それに協力する!?」
「研究する環境さえあれば私は何でもいいんですよ。どうせこんな大掛かりな計画、誰にもばれずに完遂出来る訳がありません。必ず途中で邪魔が入ります」
アッシュの指摘にも怯むことなく、自分の言いたいことだけ言い終えて満足したような顔をしてディストは立ち上がる。尊敬する師匠が復讐に狂っただけの小人であるなど、自分が単なる復讐の道具で、本心ではヴァンに憎まれていることなど、到底認められない……しかし、ディストの指摘にも無視出来ないだけの理が含まれていることを悟らざるを得ない。苦悩するアッシュを尻目に、ついでのようにディストは付け足した。
「それに、預言通りに世界が動くなら、再来年マルクトが滅亡してしまいますからね。天変地異の一つや二つも起これば、両国とも戦争どころじゃなくなるでしょうよ」
……その台詞だけは何の痛みも抱かせることなく、すとんとアッシュの心に入り込んだ。そうか、こいつはマルクト出身だったのか。キムラスカにとっての仇敵の名にも、不思議と嫌悪感は湧かない。
壊れた椅子を部屋から運び出そうとして、数歩分も動かせないうちにディストは諦めたらしかった。確かにそれなりに重かったが、そこまで困難なものだろうか。毒気を抜かれたアッシュがつい向けた胡乱な視線に、ふんと子供っぽく顔を背ける様子からは、今し方までの落ち着いた冷静さは微塵も窺えない。と。
「……信用するもしないも結構。今後あなたがどうしたいかは、自分でお考えなさい」
椅子は後で部下に運ばせますから、それまでには出て行ってくださいよ。言い捨てて、ディストは一切の未練を見せず応接室から立ち去った。
アッシュは……どうすれば良いのだろう。信じたくはない。が、半ば以上納得してしまっている自身を認めない訳にはいかない。例えヴァンの動機が復讐ではなかったとしても、そもそもおかしいではないか、全人類をレプリカと入れ替えるなど正気の沙汰ではない!
ヴァンはホドを忘れられない、ディストはマルクトを滅ぼしたくない、なら俺は……?
アッシュの脳裏には、再び幼馴染みの婚約者が浮かんでいた。二人が誓いを交わした、美しい朝日も。
答えはほとんど決まっていた。