昼であるにも関わらず、小さな明かり取りしかない牢は黎明のように薄暗い。掃除は行き届いているらしく、監獄と聞いてすぐに想起するような不潔さはない。湿気を帯びた黴臭さは、土地柄ゆえに仕方ないのだろう。
何故ここに足を運ぶ気になったのか、自分でも理由はよく解らない。旅の疲れも拭いきれてはいないのだし、第一デスクの上は未処理の書類で溢れかえっている。
粗末なベッドに腰掛け俯いていた囚人は、ジェイドの姿を見ればさぞ大騒ぎするだろうと予想していたが、実際は極々小さいリアクションを示すに留まった。アッシュが死んだ後、一度だけここを訪れたが、その時から会話していても叫んでいても、どこか心あらずな風にしていて精気がない。神経に障るあの煩さが僅かにでも軽減されているのであれば、こちらに文句などある筈もないが。
呆れたことに、ゆっくりと顔を上げジェイドの姿をみとめたディストは、この期に及んでも嬉しそうに顔を綻ばせた。
「ジェイド」
「――――――」
言葉に詰まったことを隠す為、ジェイドは眼鏡の蔓を指で押し上げた。この哀れな囚人を、何と呼ぶべきか迷ったのだ。
ディスト。サフィール。
死神ディストの神託の盾における身分は既に剥奪されている。しかしこの男は雪降る故郷で鼻水を垂らしていた姿からは想像も出来ないほど、途方もなく歪みきってしまった。
「――終わりましたよ、全て」
詰まった呼びかけの代わりに、ジェイドが選んだのは端的な報告だった。
「そうですか……」
ヴァンの企みを完全に挫いたということは、即ちディストの曾ての仲間であった六神将を倒したということである。ディストは流石に喜色を消して項垂れたが、ジェイドに向かって恨み言を口にすることはなかった。そもそも深く心を通い合わせる仲間ではなかったのだろう。ヴァンとは利用し合うだけの関係であったとは、こうして捕縛される以前も度々匂わせていた。
ディストの醜悪さは、あのままフォミクリーを続けていれば自分もこうなったに違いないという寒気をジェイドに与える。いや、曾ての自分も確実にこのような醜悪な生き物だったのだろう。
「あのレプリカはやはり?」
「……ええ」
案の定、ディストが気にしたのは仲間の死に様ではなく、ジェイドと共に旅をしていたルーク・フォン・ファブレのレプリカのことだった。
「レプリカではなく、ルークと言ってください」
訂正を強要しながら、その欺瞞に我ながら吐き気を覚える。
ジェイド達旅の仲間は、崩壊するエルドラントに彼を一人置き去りにしてきた。ローレライを解放する為には仕方ない。それでなくとも彼は音素乖離が進んでいて余命幾許もなかっただろうし、完全同位体のレプリカである以上、いずれオリジナルに吸収される運命だった。
言い訳はいくらでも思い付くが、それこそがジェイドを憂鬱にさせる。仲間の死に心を動かしていないのは、ジェイドも同じではないのか。やはり、自分の精神はディストと同じ、今でも醜悪な出来損ないのままなのかもしれない。
「……なんですか、そんなに落ち込んで」
黙り込んだままのジェイドをどう思ったのかは解らない。が、俄かに声を尖らせ、ディストは格子越しに幼馴染みを睨み付けた。
「一人で不幸を背負ったような顔をしないでください図々しい。私だって悲しいのは同じです!あれは私の作ったレプリカの中でも最高傑作だったんですからね!」
「―――は」
この男の目には、ジェイドが、悲しんでいるように……見えるのか。
そして、自分も同じように悲しいと言うのだ。気の違った死神の分際で。
「お前に同情されるとは、私もやきが回ったものですね……」
四ヶ月近く前に、もう一人の幼馴染みがやはりジェイドのことを、死を理解していない訳ではないのだと口にした。幼馴染み達の目に、自分は人間らしいものとして映っているのだろうか。この男も同じように?
「ほんっと失礼ですねあなた!」
ぷりぷりと怒る姿は悄然としているよりも余程らしく、ジェイドはついくすりと笑声を洩らした。
「お前にも、人並みに悲しみを抱く心があるのに驚きましたよ」
そういえば、そもそも恩師の死を誰よりも悲しんだのがこの幼馴染みだった。その所為でこの男は、ジェイドに唆されるまま人生の岐路を誤った方向に進んだのだ。
「……ああ。私が悲しんでないように見えるなら、ジェイドが無事に帰ってきたからですよ」
緩みかけていた表情筋が一気に凍り付く。
「……サフィール……」
「例え冷たいと言われても……、あなたの安否以上に気になるものはありませんでした」
きっぱりと告げる言葉が信じられない。しかし仄かに微笑を湛えた白い貌からは、嘘や冗談の気配など一切感じられない。この自分が……サフィールの表情を読み間違える筈がない。
ジェイドは瞑目し、逃げるように踵を返した。立ち去る直前、「また来ます」と無意識のように口から滑り出たのが我ながら意外で、口元を押さえながら薄暗い回廊を引き返す。慌ただしく帰ったジェイドに、サフィールが何を思ったのかは解らない。
しかし、自分が何を思ったのかはよく理解していた。……ジェイドは安堵したのだ。
疲れを押してでもあの顔を見ようとしたのは、あなたが生きていて良かったとあれが言うことを予想していて、それを聞きたかったからに他ならない。自分があの少年を見殺しにしたことを責められて然るべきだと自覚していたからこそ、そうでないと他者の口から言って貰いたかった。
「我ながら浅ましいですねえ……」
ジェイドの帰還に気付いて、慌てて木椅子から立ち上がり敬礼をしてくる牢番は、佐官クラスの人間に滅多にお目にかかったことはないのだろう。緊張に顔を強張らせる相手に愛想笑いを返しながら、ジェイドは口中だけで苦々しく呟いた。
あんな廃人予備軍に縋っている自身など、死んでも認めたくなかったが。