起床時から寝る直前まで飽きもせず付き纏ってくる鬱陶しい寮の同室が、珍しく今日は用事があると言い残して外出している。狭い部屋を独占出来るジェイドは備え付けの勉強机に向かい、論文の最終稿チェックを行っていた。
この部屋を他に訪ねてくる者もいない。一介の士官候補生でありながら、同時に学者としての地位を既に確立していた二人は同期達の輪から外れ気味で、周囲は彼らを遠巻きにしつつどう扱うべきかと困惑しているように見えた。ジェイドにとってそれは望むところで、軍隊という組織に入る以上集団生活は今後も避けて通れないにしろ、なるべくなら煩わしい人間関係とは無縁でいたい。馬鹿な人間に付き合ってレベルの低い会話を交わす毎日には、いい加減うんざりしているのだ。
そんな訳で一人の時間を得られたジェイドはいつになく上機嫌であったのだが、折角の良い気分は同室が帰ってきた途端に儚くも霧散した。
ドアを開く音と帰宅を告げる挨拶に集中を乱されたジェイドは、黙っていろと言い付けようと背後を顧みて。
「――それ、何」
「え、眼鏡」
「見れば判る」
無性に苛々として、ジェイドは舌打ちでその気分を表した。サフィールはぽかんと口を開いている。その間抜け面には、出かける時までにはなかった眼鏡が引っ掛かっていた。
ジェイド自身も眼鏡を掛けているが、あくまでも譜眼の制御の為であって、視力が悪い訳ではない。
「ええと……、ちょっと前から遠くの物がぼやけて見えるようになってたんだ。だから眼鏡を作りに行ったんだけど」
「似合わない」
「ええー!」
吐き捨てれば、サフィールは大袈裟に悲鳴を上げた。縁の太いデザインはジェイドの好みには合わないし、サフィールは顔が小さいから大きめのレンズの眼鏡を掛けていると顔の半分近くが隠れて新種の昆虫のような有様になる。本人も見る目がないが、勧めた店員もどうかしている。
「眼が悪くなってるなんて言ってなかっただろう、お前」
「だって、近くはちゃんと見えるからなかなか気付かなくて、本を読むのにも支障ないし」
「だってとか言うな鬱陶しい」
「うう〜…」
確かに机上の小さな譜石灯だけでは、寮の消灯時刻以降はかなり手元が暗くなる。しかしジェイドは一向に平気であったので、サフィールが同じように夜中に自分の研究を進めていても気に留めたことがなかった。決まった時間に生徒の寝室を一斉消灯する寮の規則に今更ながら腹が立つ。これだから集団生活は嫌なのだ。
ジェイドの不機嫌の理由を察せられずに、サフィールはおろおろとしている。いくら左右を見回しても、ここにはネフリーもピオニーもいないのだから、助けに入る人間などいやしないというのに。
ジェイドが立ち上がると、サフィールは更に震え上がった。
「ごっ、ごめんなさい!?」
理由を理解していないと丸分かりの謝罪など逆効果でしかない。ジェイドは実際サフィールを殴るつもりでつかつかと歩み寄ったが、閉めたばかりの扉にへばりつき涙を浮かべるサフィールと目が合えば、こんなことで腹を立てるのが段々と馬鹿らしくなってきた。
「うわっ!」
殴る代わりに乱暴な手付きで眼鏡を取り上げると、突然変わった視界に困惑したサフィールは頻りに瞬きを繰り返した。
「この状態で僕の顔が判別出来るか?」
「う……うん、この距離なら大丈夫」
その証拠とでも言うかのように、鬱陶しい幼馴染はジェイドをじっとみつめて頬を染めた。つい反射的に殴りたくなったが、この場ではなんとか衝動を抑える。泣かれて話が続けられなくなっては意味がない。
愚図で洟垂れで鬱陶しく譜業以外に何の取り柄もないサフィールだが、ジェイドはその髪と瞳の色だけは気に入っていた。創世暦時代の譜術戦争で滅んだとされるケテル人が、このような白銀の髪と宝石のような紫紅色の瞳を持っていたと伝え聞く。曾てケテル国のあったシルバーナ大陸では現在も時折ケテル人の特徴を持った人間が生まれてくることがあるが、それでもネビリム先生やサフィールのように両方の色彩が現れた人間は極端に珍しかった。
譜眼の副作用で変色したジェイドの瞳は同じ紅でも不自然に鮮やかな色で、自分では人工的に染めたものにありがちな安っぽさが際立っているように感じていた。光の加減によってアメジストにもルベライト、ピンクサファイアの色にまで変化するサフィールの光彩とは比ぶべくもない。第七音素と同じくジェイドには手に入らないものだった。その美しい色彩が不恰好なレンズなどに隠されるなど、到底許容出来る筈がないではないか。
「ジェイド、僕の眼鏡……」
「どうしても必要な時以外は、僕の前でそれを掛けるんじゃない」
「ふぇ?」
蔓を畳まれジェイドの手に握り込まれている眼鏡と、自分をきつく睨み付けるジェイドの顔との間を忙しなく行き来させ、サフィールの視線は落ち着かないこと甚だしい。素直に頷かないサフィールへの苛立ちを溜息で逃がし、ジェイドは仕方なく譲歩を示してやることにした。
空いている方の手でサフィールの制服の襟首を鷲掴み、引き寄せる。
「ジェ、……んんっ……」
ジェイドは有無を言わさず唇を重ね、互いの柔らかな表皮を触れ合わせた。眼を開いたままの二対の瞳が、焦点も合わない至近の距離で絡む。それが目的の行為ではなかったが、ふにっとした弾力のある唇の意外なまでの気持ち良さに、サフィールだけでなく仕掛けた側のジェイドすら内心では動揺した。
名残惜しさに気付かぬふりで顔を離せば、改めてサフィールは今の行為を自覚したのだろう。顔だけでなく首筋まで真っ赤に染め上げ、魚のようにパクパクと口を開閉させた。
「ぅ、あ、じぇ、ジェイド……?」
無意識といった風に両手を頬に当て、サフィールは頭半分高い場所にあるジェイドの顔を見上げる。涙に潤んだ瞳は複雑なカットの施された宝石のようにきらきらと光り、それを近くで眺めることの出来たジェイドは至極満足した。
「……眼鏡を掛けないなら、またしてやる。交換条件だ」
耳元に唇を寄せれば、びくりと肩を跳ね上げたサフィールは、僅かに戸惑ったような間を置いた後にゆっくりと頷いた。どこまで本気かは知らないが、こいつはジェイドに強い好意を持っているのだ。実際破格の申し出だろう。
差し迫った問題を解決したジェイドは、当分静かにしているようサフィールに言い渡して中断していた論文チェックに戻ることにした。邪魔をした時のジェイドの反応を長い付き合いで承知している幼馴染は、命令通り暫くは話し掛けず大人しくしているだろう。今回のように無自覚の行動でジェイドを怒らせることは多々あれど、サフィールが故意にジェイドに逆らうことはあり得ない。
それにしてもあの眼鏡は頂けない、ジェイドは論文に向けた思考の端でちらりと考える。眼鏡そのものが気に食わないとはいえ、持つにしてももう少し趣味の良い物にさせるべきだ。次の休日に買いに行かせよう。あの悪趣味さを思うと一人で行かせるのは不安だが、サフィールの買い物ごときに自分がついていくのも面倒だし業腹でもある。
だが、好きでもない同性にキスしてやっても良いと思えるくらいには、あの瞳には価値がある。
「折角ジェイドとおそろいだと思ったのに……」という呟きが聞こえた気がしたが、興味がなかったのでジェイドは黙殺した。
――何故今更こんな二十年以上前のことを思い出したのかといえば、相も変わらず鬱陶しい幼馴染が「ジェイド……」などと囁きながら、おずおずこちらを見上げてきたからだ。
悪しき慣例は後々まで残り、サフィールは自分が眼鏡を外せばジェイドが接吻してくれることを学習した。その間は眼を開けている条件だったが、恥ずかしがったサフィールはつい反射で瞼を閉じてしまうらしく、そちらの方はいつの間にか有耶無耶である。
「仕方ありませんね……」
遠い昔の我が身を恨みながら、ジェイドは自分の眼鏡も外し、テーブルの上に置いた。仕事を家にまで持ち帰る羽目になったのは自分の所為ではなく、脱走癖のある馬鹿皇帝が各機関の書類を長時間ストップさせたのが原因なのだが、放っておかれたサフィールは我慢出来なくなったらしい。或いはこの男なりにジェイドの体調を気遣ってでもいるのか。
元はと言えば眼鏡をしない代わりという約束だったにも関わらず、その後もどんどんと視力を悪くしていったサフィールは眼鏡無しには日常生活も困難になっていき、気付けば就寝時以外では褒美の接吻をしてもらいたい時だけしか外そうとしない。これはいつもそうだ、ひたすらジェイドに従順なように見えて、実際は何事も自分の思い通りにしてしまう。
自分からソファの足元に膝を着いて強請ってきた癖に、積極的に身を乗り出すことなく睫毛を緊張で震わせている姿も、いつの間にか気に入らされてしまっている。
心中だけで溜息を吐くと、ジェイドは紫がかった銀糸の髪に手を滑らせ、素直に上体を屈めたのだった。