「あー…、ここんとこ俺がすげー浮かれてたのはお前も知ってるだろ。でも仕方ねえよな、あれって世紀の感動スペシャルってかんじだったよな。壁の向こうで俺がどんだけ苦労したと……ああいや暗い話をしたいんじゃねえんだよ、だからそんな顔すんな。とにかく、この俺様は喜びのあまりちょっとおかしくなってた。トラバント燃やしたのはやりすぎだったかもな。俺も工場で働いてた時期あるし。ヴェストはまだしも、ザクセンの野郎とまで熱い抱擁を交わしちまったなんざ、今思い返せば鳥肌が立つぜ。あの時は本心から感謝してたんだけどな、全くもって正気の沙汰じゃねえよ。まあ変になってたのは俺だけじゃなくて、どさくさ紛れにハンガリーの乳揉んだのにあの女珍しく殴ってこなかっ……ちょ、待て!悪かった!いや手が、そう手が偶然当たっただけだって!揉んでねえって!だからその花瓶下ろせって、な?ほらそーっとそーっと。それ高価なやつなんだろ?壊したら勿体な……ああ?ザクセンの野郎が昔寄越したやつ?あーそんなんとっとと壊しちまえよ俺が許す。なんなら今すぐ窓から投げ捨ててやろうか?ったく油断も隙もねーなあの野郎……いやこっちの話だ気にすんな。話戻すぜ、って何の話してたっけ。うっせえよちょっと度忘れしただけだろ、別にボケてねえよ。ああそうだ、俺がここんとこテンション異常だったって話だ。俺がそんなだから、いやお互い様か、ヴェストとも暫らくはなーんかギクシャクしちまってよ。だって四十年ぶりに一緒に住むんだぜ?毎朝食堂で顔合わせて挨拶するだけで妙に照れるし、何話せばいいのかわかんねーし、どこの新婚カップルだっつー雰囲気だったんだよな、マジ。違げぇよノロケじゃねえよ、最後まで聞けって。でもさ、テンションがちっとは落ち着いてくると、何で俺は弟相手にここまで意識してんだ?ってなるだろ。なるんだよ。ほら、美人も三日見りゃ飽きるってやつ。ヴェストの奴も最初はすっげー優しくてさ、飯は俺の好物ばっか作ってくれるし、これで好きな物を買ってきたらどうだっつってお小遣いくれたり、至れり尽くせりだったんだけどさ、あいつも段々我に返ったんだろな。最近は扱い雑になりやがって。家の掃除を手伝えとかせめて自分の部屋だけでも掃除機かけろとか、無駄遣いはやめろとかゴミの分別をきちっとしろとか、政府関係でも民間企業でもスーパーのレジ打ちでも何でもいいから定職に就けとか、せめて午前中には起きてこいとか、もう超口うるせーの。大体同居してた時代はお前が一番遅くまで寝てただろ。あん時はヴェスト、注意もしてなかったぜ、どういうことだよ。あいつをあそこまで立派に育てたのは俺様なのに、俺達が喧嘩してたらお前の肩ばっかり持つしよぉ、あいつの細かいこと気にしてガミガミ怒鳴る性格ってお前からの悪い影響じゃね?何だよ責任転嫁じゃねーよ。お前んちもゴミの分別きちっとしてるじゃん。台所にいくつゴミ箱置いてんだよ覚えらんねーよ。ふざけんなよテメエら。……あー、それでだ。昨日もちょっと兄弟喧嘩みたくなっちまってよ。居間のソファでエロ本読んで何が悪いんだっつの。どこで読もうと俺の勝手だろ?自分がベッドの下に隠してこっそり夜中に読んでるからって、俺にまで強要する筋合いは……あーハイハイ、お前が肩持ってくれるとは最初から期待してねえよ。お下品で悪かったな。そういやお前もそういうの読んでんの?いてっ、いきなり蹴るなよ!ああ?そんな下らない話が原因で家出してきたのかって?俺もそこまでガキじゃねえよ、んな程度の騒ぎで家飛び出すわけねえだろ。旅行だ、旅行。ロシアの野郎には色々恨みがあるし、こないだまでの上司には……まあなんだ、俺としても複雑なんだけどよ、一番ヤだったのが海外旅行を禁止されてたことでさ。あのウォッカ野郎の家に呼び出されて、びくぶるした連中の前でチクチク嫌味言われる以外、どこに行くのも許されないんだぜ。シベリアへの片道切符なら貰えたかもしんねーけど。……逃げようとは思わなかったな、だって俺の家で俺自身だ。自分を見捨てるなんてみっともない真似、この俺様が出来るかよ。ちょっと物が足りないだけで、今だって別に悪くない生活かもしれないって思ってた時期もあるけど、でも……やっぱり辛かったな。だから俺はずっと旅行がしたかったんだ。三日分の着替えをスポーツバッグに詰めて、ふらっと電車に乗って。お互い冷静になる時間が欲しかったのもあるし、この際いいチャンスだと思って積年の望みを実行に移してみた訳だ。新生活万歳!わかったか?」
長い長い、何が要点かすら解らない長い弁解を終えたプロイセンは卓上のコーヒーを一息に飲み干し、昔と変わらぬ態度でその味を酷評した。甘過ぎるだの何だのと一頻り文句をつけた後は、機能的なデザインの白磁のカップを手にしたまま、物珍しげに角度を変えつつ観察している。窓から投げ捨てられてはかなわないので我が国の国産メーカーによるものだと教えてやれば、趣味変わったんだなお前、と不機嫌そうに返してきた。別にオーストリアが注文して作らせたものではない。もうそんな時代ではないからだが、自国の民が作り、それを購入して食器棚に並べているのだから、趣味といえば趣味なのだろう。以前と変わったのかどうかまでは判断出来ないが。
変わったと言うなら目の前のプロイセンだ。確かに憎たらしい物言いは以前と変わらないし、昔から子供のようにそわそわと落ち着きなく、機嫌が良い時も悪い時も始終大声で騒ぎ立てているような男だったが、ここまで多弁であるという印象はなかった。周囲に向けて発するのは単純な快、不快の表明が殆んどで、それが粗暴な振舞いと相まってプロイセンの気質を実際以上に幼稚に見せてはいたが、生来は理性的で思慮深い部類の男である。思考や感情の深い部分を他人に吐露する必要を感じないから口にしないだけのことだと、この狡猾で秘密主義の男に何度も煮え湯を飲まされたオーストリアは常に猜疑の目を向けてきた。孤独を恐れているようであっても、他者と一線を置いているのは常にプロイセンの側だった。
こうして約束もなく家に押し掛けてきた今だとて、単に来たいから来たのだ、何か文句あるかとでも吐き捨てれば済む話なのだ。挙動不審な態度で起承転結すら整理されていない冗長な言い訳をべらべらと捲し立てる必然性がない。それも、兄弟喧嘩だとか碌に顔を合わせられなかった時代についての愚痴といった己の弱味になりかねない事柄を、よりによってオーストリアに告白するなどと。本人も異常だと認める精神状態から、今も回復していないのではないだろうか。
「旅行に行きたいのであればこんな近場ではなく、イタリアでもギリシャでも好きに行けばいいじゃないですか。私の家なんて海もない上に、街並だってドイツと大して変わらないでしょう?そういえばあなた、フランスとはまた最近友人付き合いを始めたらしいじゃないですか。ニースでも案内して頂いたらどうです?」
プロイセンの態度に感じる些細な違和感は、別離を余儀なくされていた四十五年という歳月が作り出した傷痕のようにも思われた。おそらくプロイセンの側も似たような感慨を抱いているのだろうが、オーストリアは西欧の面々に言わせれば、変化に乏しい時代遅れの国で通っているのだ。厚いカーテンの向こうに取り残されていた彼が今の生活に馴染む為には、確かにあちこちを旅して見聞を広げる必要があるかもしれない、出来ればオーストリア以外の国を。本音を言えば、傲岸不遜だった筈の古馴染みが弱った姿などこれ以上見たくなかったので、一刻も早く家から追い出したかった。オーストリアの知るプロイセンは、こんな風に他人の目を気にして自信なさげに振る舞う男では決してない。
「何ならイタリアに電話して迎えに来てもらいましょうか。あなた、あの子のことが大好きでしたものね。近年は交通網も発達して便利になりましたから一人旅でも支障ないと思いますけど、慣れない異国で迷ってはいけませんし」
鬱陶しい男を追い出す算段を具体的に始めつつソファを立ったオーストリアは、待てよ、と手首を掴んできた鬱陶しい男当人に動きを封じられた。
「他の国じゃ駄目だ」
先程までの熱弁は何だったのか、早口にそれだけを呟いてプロイセンは口を噤み、オーストリアを引き留める為に浮かせた腰を再びソファに預け直した。しかし睨むという表現が相応しい真剣な眼差しは一向に逸らされぬまま、緊張に満ちた様子で浅い呼吸を繰り返す様は、草薮で息を潜めて獲物の様子を窺う狼の姿にも似ている。オーストリアは嘗ての養い子に鬱陶しい男の世話を押し付けることを渋々諦めて、同じようにソファの対面へ腰掛ける。面倒なことになりそうだという予感が、今更ながら湧き上がってきた。大体がお前は危機を察知する能力に欠けているのだ、何事にも鈍い所為で気付いた時にはいつも手遅れになるのだと、幼い自分に苦言を呈してきたのはスイスだったか、目の前のこの男だったか。
うんざりと見守るオーストリアの眼前で、プロイセンは突然声の出し方を忘れてしまったのか、忙しなく何度も口を開いたり閉じたりした。そんなに言いたくないなら言わなければ良いのだ。ますます苛立ち眉宇を顰めたオーストリアを見て逆に背を押されたとでもいうように、一度大きく息を吸った後、吐き出す息に紛れさせて男はとうとう核心に触れた。
「――この国に行きたかったんだ。いやそうじゃねえ、俺は、お前に逢いたかったんだ、ずっと」
眼の縁を紅に染め、羞恥と戦いながら己の唇を噛み締めるプロイセンを凝視しながら、オーストリアも相手を声高に詰りたくなる衝動と戦っていた。やはりこの人は変わってしまった。今更何だというのか、あなたが私のことを好ましく感じているだなんてこと、ずっと昔から知っている!
オーストリアは最早癇癪を起こす寸前だった。膝の上で両の拳を堅く握り、肩を震わせて感情を堪えていることには当然気付いているだろうに、プロイセンは自らの羞恥心と一緒に相手からの訴えすら黙殺することに決めたらしかった。
「最初は大したことじゃねえと思ってたんだよ。坊っちゃんと敵対すんのは初めてじゃねーし。でも会えない日が続くうちに堪んなくなった。生活に慣れても不幸だった。毎日写真見てた。辛かった。月に行くよりもお前までの距離が遠いだなんて感じたこともなかったんだ。いや、お前はいつだって遠かったけど、姿すら見られなくなる日が来るなんて想像もしてなかった」
堪らないのはオーストリアだ。言わないで下さい!悲鳴を上げて、これ以上益体もない告白を聞かずに済むよう両の掌で耳を塞いで身を守った。何故今更こんなことを言い出すのだろうか。裏切られた、という思いにじんわりと涙が滲む。
プロイセンが自分を好いているらしいと悟ったのは、オーストリアがまだスペインと結婚していた頃だった。当時のオーストリアにとっては不特定多数から熱の籠もった視線を注がれることは日常だったので、気付いたからといってプロイセン個人を強く意識することはなかったが。自分達のような異形の存在にとって、情欲は支配欲と別ち難く結び付いている。他者からの好意はそれだけ自分が価値ある国となれた証拠でしかなく、事実当時の欧州では誰もが多かれ少なかれオーストリアとスペインを好悪両面で意識していた。オーストリアが考えていたのは、自分に向かって伸ばされる手を取り、最小限の対価で最大限の利益を引き出す方策だけであった。
そんな利用すべき相手の一人でしかないプロイセンは、事あるごとに古いミンネザングの一節を気障ったらしく囁いてくる他の者達のように、直接愛を告げてくることをしなかった。伸ばされぬ手にわざわざ応えてやる義務はない。にも関わらず、じいっと見つめてくる餓えたような血色の眼差しは気の所為で片付けられるものではなかったので、オーストリアは常にプロイセンの真意を図りあぐねていた。王国に取り立ててやった後も、裏切り者が牙を剥き国土を踏み躙られた時も、……オーストリアが彼に恋するようになった後ですら、プロイセンは何も言おうとしなかったので、いつしかオーストリア自身そういうものだと信じ込んでいたのだ。かつて愛を告げた国々は、オーストリアの衰退と共に目の前から去っていった。真実の愛は壊れやすいからこそ、決して言葉にしてはならないのだ。
オーストリアも何一つ口にしなかったが、気持ちの変化を当然プロイセンも見抜いていたに違いない。それまでに降り積もった経緯もあり顔を合わせれば啀み合いばかりしていたが、あの頃から触れてくる指先に焦りのような強引さがなくなった。余人がいない瞬間を見計らって、秘密の儀式のようにそっと唇を重ねたりしたこともある。三度目の同居の時も状況は同じで、二人は互いに文句を言い合い気に入らないと全力で主張しては気苦労の多い可哀想なドイツを悩ませ、その影に隠れてこっそりと共犯者の眼差しを交わし合っていた。……それだけで充分幸せだったのに、プロイセンは本当の想いを軽々しく口にして、二人の絆を薄っぺらいものに変えてしまった。台無しだ。全部終わりだ。
卑劣な裏切り者は絶望するオーストリアの手首を掴み、これ以上何を言うつもりか無理矢理耳から手を離そうとしてきた。テーブルを乗り越えて膝の間に上体を滑り込ませ、甘えるような仕草で肩に額を擦り寄せて、抵抗する気力を削ごうとしてくる。
「聞いてくれよ坊っちゃん、なあ、オーストリア。俺、お前が好きなんだ。ずっと前から好きだった。お前は知らなかったろ、こんなにもお前のことを好きで仕方なかったんだって、俺も離れて初めて思い知ったんだ」
一方的な言い分は到底看過出来るものではなかったので、オーストリアはお馬鹿さん、と得意の罵り言葉を口にした。
「まるで自分だけが片想いをしているみたいな言い草ですけど、私が会えない日々を辛く思っていなかったとでも……?」
やっとの思いで口にした詰問は我ながら弱々しく縋るような声色で、オーストリア本人の耳にすら怒っているように聞こえなかった。
オーストリアは言葉なく過ごした今までの歳月が自分達の強さと信頼によるものだと信じていたかった。プロイセンが臆病で、オーストリアが卑怯で、二人の心が弱かったから必要な言葉を惜しみ同じ場所で百年近く足踏みしていただけだとは思いたくなかった。プロイセンの心を信じられたからオーストリアは会えない四十五年間を耐えられたのに、肝心の相手は自分への不信で一人苦しみ続けていたなどと、そんな酷い話は決して認めたいものではない。
本当に失礼です、あなた。私のことを鈍いと言う資格がありませんよ。ぽこぽこ怒ってみても、プロイセンはへこたれずにしがみ付いてくる。身長は大して変わらないし、昔に比べるとプロイセンは大分痩せぎすになってしまったが、非力なオーストリアにとっては、のしかかってくる男の体重は今でも充分に重い。
「いい加減、馬鹿な話は切り上げてどいてくれませんか」
「やだ。今すぐ坊っちゃんが恋人になってくんないと、ここから梃子でも動かねえ」
聞き分けのない子供みたいなことを言ってくる年下……いや生まれた年はともかく外見年齢はこれでも自分より上なのだ、全く呆れてしまう。この自信をなくし弱り切った男が昔日の傍若無人さを完全に取り戻せば、どうせお前だって俺様のことが好きで仕方ないんだろケセセくらいのことは言ってくるに違いないが、その時は今の醜態を持ち出して散々虚仮にしてやればのたうち回って嫌がることだろう。弱味を握ったと思えば段々と寛大な気分になってきたので、オーストリアは一途な割に薄情な恋人の頭を優しく撫でてやった。