「いい加減にしろよこの尻軽!!」
「藪から棒に何ですかお馬鹿!往来の真ん中でお下品です!!」
意味もなく突っ掛かってこられることには慣れているが、開口一番寄越されたのが上記の台詞では憤慨するなと言う方が無理である。
幸いと言うべきか街道沿いに彼ら三人以外の人影は見当たらなかったが、怒声の応酬に驚いたらしい山鳥が数羽飛び立ち、青みがかった谷間の向こうへと消えていった。
咄嗟にその横っ面を平手打ちしてやろうかと考えたが、生憎とその時のオーストリアはバイオリンを収めた楽器ケースを両手で提げていた。すぐさま我に返り持ち手から離しかけていた右手を再び強く握り直したが、その細やかな動きを目聡く察知したプロイセンはケースをぶつけてくるのではないかと懸念したらしく、オーストリアの胸ぐらへと伸ばしかけていた腕を慌てて引っ込める。音楽家のプライドを傷付けられたオーストリアは、下品な罵倒を耳にする以上の不快をその反応に感じてしまう。
プロイセンなどハンガリーが鉄製のフライパンで何回殴打しようとも10分後にはぴんしゃんしている殴り甲斐のない男だが、オーストリアの所有する楽器の数々はそんなものとは比較にならないくらい傷付き易く、極めて繊細な扱いが必要な道具達なのである。今は亡き名工が持ち得る限りの腕をふるい、いくつもの工程を経て丹念に作り上げた愛器を、オーストリアは長年大事にしてきた。それを一時の怒りに任せて投げ付けるはずがないではないか。
スイスも不愉快そうにプロイセンを睨んでいるように見えたが、常々オーストリアを視界に入れただけで眉間の皺を倍ほどに増やす彼は、先程からずっと不機嫌そうに苛々とした空気を撒き散らしている。大声のする方向へ反射的に目を向けただけのことかもしれない。
「な、何だよ、何か文句あんのかよ!?」
「……付き合ってられんのである。もう道案内は必要なかろう、我が輩は帰らせてもらう」
「ええそうですね、ご苦労様でした」
こちらとしても、用のない者をこれ以上引き留めてまで身内の恥を晒したいと思わない。尤もな主張であったから同意したというのに、オーストリアを横目で睨み付けたスイスは不思議なことに面持ちを一層険しくした。
「貴様のそういうところが気に食わんのだ」
「おい、聞いてんのか!?」
「……それは失礼しましたね」
正直に言うと、スイスが何に腹を立てたのか理解していないのだが、今までの確執を考えると一挙一動の悉くが気に入らないと言われても仕方のない関係だ。追及してもこちらの気分の悪くなるような言い分しか聞けないだろうと判断して、オーストリアは多少の悪態は聞き流すことに決めた。正直なところ「気に入らないのはお互い様です」とでも返したくなったが、わざと怒りを掻き立てたい訳でもなければ、これ以上嫌われようとも決して望んでいないのだ。手遅れであったとしても。
「おい!おいってば、なあ!!」
「しかし趣味が悪いにも程が……あまり安売りするものでは……」
「はい?」
「いや、何でもないのである」
「てめえら無視すんじゃねーよ!!」
「何の話か知りませんけど、安売りされていたら何だって買うでしょう、あなたなら」
「ばッッ…!馬鹿にするな!!そんな破廉恥な真似、我が輩は絶対にせん!!」
「ははは……一人楽しすぎるぜぇー……」
吝嗇を指摘されたのがそんなに悔しいのだろうか、スイスは顔を真っ赤にして激しく首を振る。オーストリアとて必要な日常の節制を短絡的に吝嗇呼ばわりされれば腹立たしく思うので、激怒する気持ちも解らなくはないが。
「破廉恥?」
理解に苦しむ単語を聞いたオーストリアが首を傾げるのと、
「だあああああ!!やってられるか畜生!!!」
落ち着きない犬のように二人の周囲をぐるぐる歩き回っていたプロイセンが唐突に雄叫びを上げたのは、ほぼ同時のことだった。
「トロトロしてんじゃねーよ!!ほら行くぞ!!」
「あっ!こら!」
何が気に入らないのか骨を折らんばかりの力で腕を掴み、プロイセンは半ば以上引きずるようにしてオーストリアを急き立てる。
話の途中だったのにと後ろを振り返れば、スイスは既に背を向けていた。舗装されていない山道を踏みしめ谷へと続く坂を下る、すっくと伸びたその背中は峻拒の威圧に満ちていて、オーストリアは別れの挨拶も礼の言葉も喉の奥に呑み込むしかなかった。
「お前、何してたんだよ」
ぱっと腕を離されたオーストリアが左右を見回せばそこは見覚えのある広場で、近くでは団体の観光客がガイドの説明に耳を傾けながら見覚えのあるバルコニーを見上げている。似たような風景が続くばかりで全く気付いていなかったが、促されるまま歩くうちに、いつの間にかプロイセンはオーストリアを国内まで連れ帰ってくれていたらしい。
「あなたこそ何ですか。そもそも何故あそこに?」
「お…っ、お前ん家に行ったら留守だったから探してやってたんだよ!」
出掛ける時は連絡しろっつっただろ馬鹿!!理不尽なことを要求して、プロイセンはまるで正当な権利であるかのようにオーストリアを糾弾する。
「いつ来るかも判らない人に何故一々連絡を入れないといけないのです。パルマでパガニーニ曲の演奏会があったので、客演に呼ばれていたのですよ。私にとっても縁のない街ではありませんし……」
オーストリアに言わせればアポイントメントもなしに押し掛けた側の自業自得である。出発前に連絡の一つもくれたなら無駄足を踏ませることもなかったし、チケットの手配だって出来たというのに。
「……いたのってスイスじゃねえか」
「お察しなさい」
往路はイタリアが家まで迎えにきてくれたので、問題なく現地へ赴くことが出来たのだった。元々客演の話はイタリアが直接頼んできたもので、二人の仲がぎくしゃくとし始めた時代を思い出させる話を今まで避けてきたオーストリアは随分驚いたが、尚更その誘いが嬉しかった。
イタリアは帰り道も送ると申し出てくれたが、来た道を戻るだけだからとそれを断ったのはオーストリアだ。口から生まれたようなイタリアと共にいる限り沈黙を保つことは不可能で、過去の話が出た時の心構えがオーストリアには未だ出来ていない。フランスは今でも時折ルイーゼの悪口を言ってくるが、イタリアが彼女のことや当時の……あの子の行方を曖昧にしか告げられなかったオーストリアのことをどう考えているのか、どうしても推測出来ないのだ。案の定道を間違ってスイス領内に迷い込んでしまった事実を鑑みれば、大人しく申し出を受けておくべきだったと後悔を覚えなくもないが。
「あ?何を察しろって言うんだよ」
オーストリアの方向音痴など昔からよく知っているだろうに、プロイセンは執拗に突っ掛かってくる。マクシミリアンの業績を聞くのに飽きたらしい観光客の幾人かがちらちらと自分達に注意を向けていて、そのうちの一人とうっかり目が合いそうになったオーストリアは慌てて視線を反らし、同行者の目立つ風貌を心中大いに恨んだ。
「とにかく、ここでは何ですから……」
「そうだよな、幼馴染みで永世中立仲間だもんな。察せなくて悪かったな、積もる話もあったんだろ?」
「は?」
ひとまず近場のカフェにでも押し込んでこの歩く迷惑を観光客の視界から隠してしまおうという計画は、あまりにも意味不明な皮肉によって遮られた。石畳へと落としていた視線を相手の顔へと戻すが、プロイセンの表情は冗談を言っている時のそれではないし、ドイツではないのだから真顔で冗談を言ったりもしないに違いない。つまり、プロイセンは極めて真剣に今の寝言を口にしたらしい。
「あなた、どこか頭でも打ったんですか?私とスイスは……」
「言い訳すんな、淫売!!」
「なっ」
我が家は観光が主要産業なんですよ!?変な評判でも立って客足に影響が出たらどうしてくれるんです!!内心では憤慨の台詞がいくらでも出てくるが、実際のオーストリアがしたことは短く息を吸い込むことだけだった。何故自分が怒鳴られなければならないのか(それも人前で!)、先程から状況がさっぱり理解出来ない。
「あの侵入者は即強制排除の引き籠もり野郎が、毎度毎度お前が迷い込む度に親切に国境まで送り届けやがって、だよな、昔のお前らすっげー仲良かったもんな?協定批准した後はもっとべたべた行き来するつもりなんだろ?……見せ付けられるこっちの身にもなれよ。浮気すんなら隠す努力くらいしてみろっつの!俺はカーテンのこっち側にいるんだよ!!」
「あっ、あなた……」
こんな大声で痴話喧嘩。そう、自分達はさっきから痴話喧嘩をしていたらしい。ここまで赤裸々に詰られて、ようやくオーストリアにも呑み込めた。この鳥頭は、よりにもよって自分とスイスの関係を疑っているのだ!
「お馬鹿さんにも程があります!スイスはそんな人ではありません!」
「ちっ、庇い立てするくらいあいつのことが大事かよ」
「そんなっ……そんな」
プロイセンは幼い頃のオーストリアとスイスを見知っているはずなのだ。二人の仲がどんなに良かったか、表現は不器用でもスイスがとても優しくて、負け戦を重ねても決してオーストリアを見下さなくて、なのに何故そんな勘違いをするのだろう。
「そんな訳ないでしょう!?あの潔癖な人が尻軽の淫売なんかを相手にするはずないじゃないですか!!」
汚らしいものを見るような目で見られたことなど、あの頃には一度もなかった。スイスは頑ななまでに変わらない。今も憎まれているとは流石に思わないが、軽蔑し、嫌っているのだ。恋人にすら信用されないオーストリアの生き方を。
「……もう良いです。勝手にどうとでも思っておきなさい」
一度堰を切ってしまえば、急に全てがどうでも良くなった。観光地で男同士が痴情の縺れで罵り合っていたという噂が広まったとしても、大したことではない気さえしてくる。
今は早く家に帰って、ピアノを弾く気力はないからお気に入りのCDを掛けて、……。
踵を返したオーストリアが三歩進んだところでその手首を、しかもバイオリンケースを提げた方の手を掴んできた相手が誰か確かめるまでもない。拘束を解こうにも乱暴に振り払ったり出来ない側を咄嗟に選ぶ、そんな無駄な部分にだけ頭の回る男である。
「まだ何か?」
この期に及んでまだ責め足りないのだろうか。呆れ半分に自棄が半分、微量の不安は見ぬふりをして立ち止まれば、早足でオーストリアの正面に回り込んできたプロイセンは未だ興奮冷めやらぬ風に肩で息をしていて、……何故か白昼に幽霊を見た人間のように目を見開いている。
「……?」
「うー、あー、…………うん」
やがて再び目を細めると、怒りと狼狽の間を何度も行き来するように表情を変え、最後にプロイセンが選んだのは「こういう時は泣くもんだろ、ふつー」という更なる言い掛かりと皮肉めいたいつもの薄ら笑いだった。
「坊っちゃんが激しく鈍い奴だって忘れてたわ、俺」
「……何ですか、それ」
訳が分かりません。
「うん、だろうな。気にすんな」
一人で勝手に納得して頷いて、もしかして浮気容疑は晴れたのだろうか。プロイセンの顔色は何だか晴れ晴れとしていたので、経緯は全く理解出来なかったがオーストリアは説明を求めなかった。元々根も葉もない誤解なのだし、この男の気紛れに一々付き合っていられない。
「そっちウィーンとは逆方向だぜ。俺様が責任持って最後まで連れ帰ってやるよ」
ふと気付けば先程の団体客は姿を消していて、二三人の少人数のグループが数組、バルコニーを見上げたり写真を撮ったりしている。観光の時間は限られているのだから、多少後ろ髪を引かれていたとしても、野次馬をする余裕もなく次の目的地へ向かったのだろう。意識し過ぎていた自分の馬鹿らしさにオーストリアが小さく笑えば、誤解したらしいプロイセンは聞き分けの悪い幼児のように唇を尖らせた。
「帰ったらコーヒーの一杯でも淹れて差し上げますね」
素直に礼を告げるのも癪で遠回しに同意すれば、すぐに察して機嫌を直してくるというのに、どうして致命的なまでに思考が噛み合わなくなることがあるのか不思議で仕方ない。この相性の悪さは、たかだか数年の交際くらいで解消されるものではないのだろう。
オーストリアの隣に並んだプロイセンは驚くべきことに、バイオリンケースを代わりに持つと多少ぶっきらぼうな口調ながらも申し出てきた。恐る恐る手渡せばしっかり持ち手を握り、あまり振動を与えないよう意外な慎重さでもって体の側面に提げている。やはり自分達は互いについて知らないことばかりらしい。
「二度とあーゆー自虐的なこと言うなよ。お前、後悔なんてしたことなかっただろ。そのまま堂々としてろよ」
前を向いたまま告げられた言葉の本意など、鈍感らしいオーストリアにでも流石に理解出来る。
「なら、あなたもお下品な罵詈雑言は当然やめて頂けるのでしょうね」
「俺はいいんだ」
勝手極まりない断言をした直後、横目でオーストリアの顔を観察したプロイセンは、少しだけ不安そうに眉尻を下げた。
「……恋人なら嫉妬する権利くらいあんだろ」
こんな他愛もない一言で先程からの理不尽な言い掛かりの諸々すら水に流せる気がしてしまう、オーストリアの甘さに気付かないプロイセンこそ間違いなく察しの悪い恋人だろう。