壁に据え付けられた電話機がけたたましい金切り声を上げた。ドイツは書類作成の手を止め思わず身を竦めたが、応接ソファにだらしなく寝そべっていた兄貴分といえば、耳障りな機械音を聞いてもぴくりとも動かない。溜息を吐いて覚悟を決めると、ドイツは万年筆の蓋を閉めて机上に置いた。かたりという音は呼び出し音に紛れて目立たなかったが。
ソファからの方が余程電話に近いのだが、ここは政庁に用意されたドイツ個人の仕事場だ。書類仕事を放り出し、転がり込んだ弟分の部屋で寛いでいるプロイセンは、わざわざ嫌な役目を代わってやる親切心など持ち合わせてはいないだろう。もう一度だけ溜息を吐き、ドイツは大股に部屋を横切ると受話器を手に取った。利便性の為にも近いうちに卓上型のものを用意してもらおう。現実逃避のようにそんなことを考えながら、喇叭型のそれを耳に当てる。
「――俺だが」
そうして。電話交換手の無機質な応対を期待していた耳に届いたのは、
「ドイツ……っ!!」
必要以上に感情的な、隣国の嗚咽であった。絶句するしかない。交換手は気を利かせたつもりでいるのか、或いは上司から何らかの指示があったのかもしれない。それにしてもこの仕打ちは酷くはないだろうか。
途方に暮れたのは一瞬で、ドイツは探るような声音で隣国の名を呼ぶ。
「……オーストリアか」
「ああドイツ!どうしましょう、皇太子殿下が、どうしたら、私っ……!!」
隣国は酷く取り乱している。サラエボで起こった事件の次第は、諜報機関の働きによってかなり詳細な部分までベルリンの把握するところとなっている。政府間の通達とは別に、オーストリア個人からも何らかの連絡、もしくは相談があるだろうと予測されたからこそ、ドイツはこの数日間電話のある執務室に閉じ込められていたのだった。
「私の所為です、ずっとあの方のことを好きになれなくて、宮廷でも国内でも孤立していたことを知っていたのに、私が努力して居場所を作ってあげていたら、わざわざあんな所に出かけて命を落とすこともなかったかもしれないのに……!!」
昂ぶった感情のまま、オーストリアはひたすら自分を責め続けている。ドイツの他国に比すと大して長くない人生の内で、ここまで弱り切った隣国の声を聞くのは初めてではないだろうか。
電話という機械は画期的な利便性を世界に齎らしたが、今だけは発明者を恨みたくて仕方ない。受話器を耳に当てている所為で、すぐ傍らで泣かれているかのように錯覚してしまう。だというのに現実には背を撫で落ち着かせてやることも出来ないとは!
同盟国とはいえ所詮他人事でしかなく、悲しみを分かち合えるものではない。にも関わらずオーストリアの啜り泣きを聞く一刻ごとに、荒い鑢でざりざりと削り取られるようにしてドイツの精神は消耗していった。
「いや、お前の責任ではないだろう。人間達の関係は当人同士が何とかすべきもので、俺達の口を出す領分ではない」
「ですがあんな酷い死に方っ……」
自分達のような国を体現した生き物は、民意によって感情の多くの部分を左右される。オーストリアがその一家を愛することが出来なかったのは彼らが国民の大部分から愛されていなかったことの反映に他なく、その感情を無理矢理枉げることは自然の理に反する。オーストリアに咎があったとするなら人の営みとは別次元にある国同士の関係、件の国との仲をここまで悪化させた外交上の責任においてだろう。
「起こってしまったことは仕方ない。……この件に関して、お前のところの上司はどういう考えでいるんだ?」
しかしドイツには打ち拉がれた隣国を詰問する気など微塵もない。なるべく薄情に聞こえないよう、慎重に話題をずらそうと試みた。これ以上黙って耳を傾ける精神力を保てなかったからでもあるし、そもそもドイツにとっての本題は過去ではなく今後についてである。自国の上司から言い渡された任務には悲嘆に暮れる隣国を宥め慰めることも含まれていたが、あちらの政府の方針を聞き出すのが一番の目的であった。
暗殺実行組織の背後では彼らの奉ずる国が糸を引いている可能性が高いと、ベルリン首脳部でも推測されている。たかだかバルカンの一小国を踏み潰すだけのことならドイツが懸念するまでもなくオーストリアの独力でも可能だろうが、そこにロシアが割って入るとなると事態は俄然一筋縄ではいかなくなるのが頭の痛いところだった。
スラブ民族の守護者を自称するロシアは、己の面子にかけてもオーストリアが征師を発するのを黙って看過出来ないだろう。また、ロシアは先年来フランスとの軍事同盟を結んでいる。オーストリアの戦争に巻き込まれた場合、ドイツは二方面からの敵に挟撃される事態に陥るのだ。ドイツとしても信頼する同盟国であり同胞の国でもあるオーストリアを見捨てることは立場上も感情からも不可能だが、何としても現状での開戦だけは回避したいのである。
「陛下は今回のことをあまり重要事だとは……。閣僚も何らかの制裁を下さなければ我が国の威信に関わるという見解では一致していますが、具体的な方策については、まだ」
オーストリアのはっきりしない口振りからすると、皇太子の人望の無さによるものか、ウィーンの空気はそこまで剣呑な状況に至っていないらしい。安堵から肩の力を抜き、そのまま外交努力と冷静な対応を続けるよう要請すべく、口下手の自覚のあるドイツは隣国の感情を害することのない適切な言葉を探しつつ深呼吸した。
「――よう、坊っちゃん」
そのドイツを羽交い締めにするようにして、背後から腕が回された。
「兄さん!?」
壁掛け型の電話機は、長方形の木箱の側面に取り付けられた受話器から相手の声が聞こえ、正面の送話器から自分の声を相手に伝えるという構造になっている。
「……プロイセン?」
「お前、まさか泣き寝入りする気かよ?セルビア如きに?」
「なっ…!!」
いつの間に背後に立たれていたのだろう。通話に気を取られていたとはいえ、己の未熟から来る不注意をドイツは内心恥じた。弟分の肩越しに身を乗り出すようにして、プロイセンは送話器に向かって話し掛けていた。受話器は今もってドイツの手の内で、突然割って入った無礼さに憤慨するオーストリアの声は聞こえていないのに、相手の反応は手に取るように解ると言わんばかりに唇の端を釣り上げている。
「あんな身の程知らずのサルマ野郎に喧嘩売られて、そのまま尻尾巻いて負けを認めんのか?なァお貴族サマ。てめえのプライドはそんな安っぽいもんじゃなかっただろうが、ああ?」
「兄さん、何を……」
この言い方では、まるで報復を焚き付けているようではないか。ドイツは兄の体を押し退けようとしたが、自分と比べて細身ながらも相手は軍人としての年季が違う。背後に立つ有利さを生かし、揉み合う隙もなく関節を押さえられ、いとも簡単に身動きの取れない体勢にされてしまう。
「あなたにまで馬鹿にされる筋合いはありません!!私はただ、現実を見て……!!」
受話器越しのオーストリアは不快気に声を尖らせているが、ドイツは気付かざるを得なかった。プロイセンへの怒りに気を取られた所為か、聞く者の心臓を痛くする先程からの嗚咽がいつの間にか止んでいる。
「おいおい、俺らが全面的に坊っちゃんの味方するんだぜ。ロシアも迂闊に嘴挟めねぇよ。ボスニア併合した時も、結局あいつは折れただろ?」
「そんなの希望的観測です……」
「万一戦争になっても勝ちゃいいだけじゃねーか。お前、自分の同盟国を誰だと思ってんだよ。“ドイツ”だぜ?フランスとロシアを二人まとめてボコボコにしてやる作戦くらい、うちの軍部がとっくの昔に考えついてるっつうの」
「プロイセン……あなた……」
オーストリアの声は不信感と期待の狭間で激しく揺らいでいる。どう考えても危険な方向へと思考が傾斜しつつある相手を此岸に引き戻すべく、ドイツは隣国の名を呼ぼうとした。が、開きかけた口はそれを察した掌によってすかさず封じられた。真の敵は身内にこそいる。
「お前のしたいようにしろよ。許せないんだろ?」
そうじゃないのかよ、と囁くプロイセンの口調は常と変わらぬ傲岸不遜さを前面に出したもので、ドイツの聞く限り隣国に対する思いやりの情など一切含まれていなかったが、同時に聖職者を誘惑せんとする悪魔のような偽物の崇高さを身に纏ってもいた。オーストリアの耳にその声はどう響いたのだろうか。
ドイツは隣国が返答する前に、受話器を兄貴分へと押し付けた。弟分の口から手を離しあっさりそれを受け取ったプロイセンは、そのまま拘束を解いてもくれる。逃げ出すように電話機の前から離れたドイツと入れ代わりに、今や完全に場の主導権を握った兄貴分が一歩前に進み出た。
執務机に戻る気にもなれず、先程まで兄が寛いでいたソファの対面に腰を下ろす。その間も、プロイセンは事務的な声音で対話を続けている。会話の断片から判断するに、オーストリアは自国のベルヒトルト外相をベルリン相手の交渉窓口に指示しているらしい。貴族らしく洗練された容姿の、しかし挙措に拭えない小心さの滲む隣国の大臣の姿を脳裏に思い浮かべた。対セルビア強硬派のうちの一人だ。ベルリンにとって御しやすい男でもある。オーストリアが開戦を望む限り、権を託すには最適な人選だろう。
冷静な会話を進めることが出来るくらい、隣国の精神は立ち直ったのだろうか。兄の挑発によって?しかし根本的に血が上った状態で下した判断や思考にどれほどの価値があるというのだろうか。
余計な無駄口もなくあっという間に通話を終えたプロイセンは、「悪かったな」と弟に笑いかけつつソファに腰を下ろした。我儘な子供の機嫌を取るような口調に、ドイツは己でも理解出来ない苛立ちを感じて眉間に皺を寄せる。普段から子供っぽく、我儘で自分勝手なのはプロイセンの側であるのに。
「兄さん……」
自然と苦言を呈する口調になったが、ん?と相槌を返すプロイセンはドイツの発する空気を読む努力すらせず、今にも飛び上がらんばかりに上機嫌である。
「ケセセ、上手く騙してやったぜ!相変わらず馬鹿なお坊っちゃん!!」
「!?おい、それは我が国がオーストリアを支援しないということか!?」
ドイツは蒼白になった。自分が上司に指示されていた内容からも、彼らが開戦に消極的でいるのは明白だ。焚き付けるだけ焚き付けた後に見放し、隣国を孤立させるつもりかとつい声を荒げたが。
「ばっか、違ぇよ。うちの軍部はサラエボの話聞いてからヤル気満々で開戦準備してるぜ?シュリーフェンが作った作戦にモルトケの甥っ子が色々手ぇ加えてるし」
ドイツにとっては初耳の事実を告げ、今のご時世、いくら俺だって軍上層からの許可を貰ってから喋ってんだぜ、とプロイセンは一笑した。
「まずは電撃戦でフランスの野郎を叩いて、返す刀でロシアの奴もボコる。イギリスが重い腰を上げる前にケリを付けりゃ、クリスマス前には停戦の話になってるだろーぜ。勿論勝つのは俺達だ」
「なら今の言葉はどういう意味だ、騙す……」
オーストリアを、と口にする前に、対面のプロイセンが我が意を得たりとばかりに身を乗り出してきた。そう、そうだよ!と兄貴分は声を弾ませる。
「俺達は勝つ。けど屋敷ん中に大勢住まわせて馬鹿みてーにあちこち火種抱えまくってるあいつの方は?」
ただでさえあんな危なっかしい状態で戦争始めて、いつまでも国内を一つに纏めきれる筈がねぇ。
「あの坊っちゃん、この戦争が終わる前にボロボロになるぜ。絶対にだ」
ドイツは反論出来なかった。確かに、非常事態に突入した帝国内で徴兵すらまともに行えるかどうか。ここぞとばかりにあの家の召使達が自治権の拡大、更には独立を試みる可能性は高いだろう。身体中をバラバラに引き裂かれるような激痛を感じるに違いないオーストリアの姿を想像するだけでドイツの心臓は血の凍る思いをするが、隣国と因縁の深い兄貴分は全く違う感慨を抱いているらしい。
ざまあみろ!と昂ぶった声でプロイセンは叫ぶ。
「召使に逃げられたあいつなんざ大帝国でも何でもねぇよ、単なるか弱いお坊っちゃんだ。流石に死なれちゃ寝覚めが悪ィから、その時はドイツに併合してやんねーと」
「……………!?」
プロイセンの血色の瞳は陶然とした色を湛え、しかしひたすらに強く輝いている。ドイツは兄貴分の目的――それが本気であることを、熱っぽい語調からも悟らざるを得ない。
「そもそも今回の事件だってあいつの自業自得なんだよ。可愛いお前とあの寄生虫どもを同じ天秤に乗せようって発想がそもそも間違ってんだろ?あの馬鹿。さっさとあの連中と別れてたら、あいつは今頃とっくにドイツの一員で、こんな目に遭うこともなかったんだ」
そのオーストリアを“ドイツ”から追い出したのはプロイセン当人の筈である。その当時ドイツはまだ少年の外見をしていて、大人達から蚊帳の外に置かれていたが、二人が決定的に袂を別った理由が自分にあることは薄々察していた。血の繋がった家族は他に何人もいるが、自分にとって兄と呼べるのはこの人しかいないのだと、それ以降ドイツは確信して今日まで生きてきた。
何を今更。それを兄さんが言うのか。同盟国となった後も、度々プロイセンは口汚い言葉でオーストリアを罵っていた。今の言葉からは、嫌悪の対象は隣国自身ではなく彼の家に住む者達であるように聞こえる。ドイツには、その真意が解らない。
ただ、事件が起こった後に考え始めたことではないのだろう。滑らかで、妙に確信に満ちた言葉は何度もプロイセンの心中で繰り返され、実現の機会を虎視眈々と窺っていた懸案なのだ。
「なぁヴェスト。お前の口からも陛下を説得してくれよ。お前もオーストリアが帰ってきたら嬉しいだろ?」
帰る、という表現を他ならぬプロイセンが使ったことにドイツは驚いた。ぼんやりと、頭を撫でてくれた昔日の白い手を思い出す。このまま戦争になれば、彼が帰ってくる。
簡単に頷いて良い話ではない。兵事が時の運である以上、必ず勝てる保証はない。自国の負う多大なリスクに加え、この道を進ませれば、隣国は必ず辛い思いをする。不幸にして泣かせて、そうしてまで手元に取り戻したい、そんな感情は間違っているのではないだろうか。ドイツの頭の理性的な部分が、頻りにプロイセンの身勝手さを批判する。
「……兄さんが……そう言うなら」
だがしかし、ああ、必ずしもプロイセンの思惑通りにオーストリアがめちゃくちゃになるとは限らない。本人があんなに慨嘆して、セルビアへ復讐したいと言っているのだ。その意志を尊重して手を貸すのが同盟国の務めではないか。決して隣国を騙しているのではない。そう、早めに、クリスマスまでに戦争が終われば、取り返しのつかないことになる前に勝ちさえすれば。
言い聞かせる内心とは裏腹に、兄やオーストリアと共に過ごすクリスマスの想像が、確かな喜びとなってドイツの胸を暖めた。今は直線距離で650km。電話越しでなく、直接この手で触れられる距離にオーストリアがいたならどんなにか。
「イギリスに連絡を付けねぇとな。奴さえ黙らせりゃその時点で勝ったも同然だぜ」
世界の調停者を気取るあの島国を味方に付けることは間違いなく不可能だが、交渉次第では中立に留まらせることも充分可能だろう。ドイツとイギリスの上司は血縁関係にあるし、あの閉鎖的な気性の国民やイギリス本人が犬猿の仲のフランスの為に自国の兵の血を流すことを肯んずるとも思い難い。
「……ところで兄さん、さっきは何で謝ったんだ?」
ふと気になったドイツは尋ねてみた。プロイセンが電話を終えた後のことである。その時は通話の途中で割って入ったことを指しているのだろうと気にも留めなかったが(実際ドイツは兄の暴挙に少なからず腹を立てていた)、どんなに自らに非があっても、頑なな幼児のように謝ったりなどしないのがドイツの知るプロイセンという人である。
「ああ……あれなぁ……」
やはり何か理由があったのか、途端プロイセンは今までの眼力を弱め、どころか逃れるように視線をうろうろさせる。怪しい。
「あーうー……、えー、あれだ。嫌な役目を押し付けちまったからな」
「は?」
ドイツがじっと黙していることに勝手にプレッシャーを感じたのか、がっくりと肩を落としてプロイセンはそれを白状した。
「泣いてたんだろ、オーストリア。俺が直に泣かすのはともかく、電話越しにシクシクやられると対応に困るだろーが」
ドイツを話から遠ざけた後も、暫く受話器を奪い取らなかった理由までもが明らかになった。
「……………かなり困ったぞ」
他人にとってどうかは知らないが、少なくともドイツにとってのプロイセンとは、どこまでも憎めない兄なのだった。
――彼らの目算が甘過ぎる程に甘かったことを心底から思い知るのは、その年のクリスマスを過ぎた、更に先のことである。