最前から伴侶は何も言わず、痛いくらいの力でオーストリアの手を引いていた。
大股での歩みに必死でついていきながら、彼が一度もこちらを顧みないことが何か不吉な事象の前触れのようにオーストリアには感じられた。薄暗い屋内では黒みがかって見える褐色の癖毛から視線を逸らし、繋がれた手に注意を移す。肌を撫ぜる寒さにも関わらず、手袋をしていない掌は互いの体温でしっとりと汗をかいている。
初めて訪れたというのに、驚くべきことにスペインは勝手知ったる我が家のように堂々とブラバント宮廷を闊歩していた。時折影のように控える女中に話しかけ確認を取り――よくもまあ、あの無闇に気取ったフランス語の発音などを口に乗せる気になるものだ。オーストリアにはあらゆる意味で真似出来ない芸当だが、女中相手には口を開いても、伴侶である自分には相変わらず一言もない態度が不可解に過ぎる。ちらりと陽に焼けた横顔が垣間見える度、オーストリアは自分から声を掛けようか暫し迷い、結局は口を開けないままスペインの背中を追った。
 
目的の部屋に着いても、スペインは手を離してくれなかった。国の象徴である彼らは、国主に準ずる扱いを受けるのが慣例である。用意された部屋も数間が一続きになった豪奢なもので、一目で貴賓の為の客間と判る。
暖炉には充分な薪が焼べられ北国の寒さを和らげており、壁には一片の隙間も見せまいとする偏執狂的な熱意でもって毛織物のタぺストリーや大小の絵画が飾られている。明々と燃える炎を見てもオーストリアの心は休まらず、一刻も早く帰りたいと思うだけだった。
それは当然だ。国である彼らは民の感情というものを良きに付け悪しきに付け敏感に感じ取るものであるし、丁重に彼らを出迎えたネーデルラント兄妹も恭しい態度の端々に露骨な敵意を滲ませていた。以前の伴侶が従えていた縁で手にした土地であり兄妹であり、生まれ故郷の此処を「揺り籠」と称する今の上司には悪いが、オーストリア自身にとっては豊かな税収が魅力という以外の特別な思い入れはない。生意気にも反抗するようなら踏み潰すまでのことだが、やや空気を読めない向きのある伴侶と違い、突き付けられる拒絶と悪意にオーストリアの気分が悪くなるのは仕方ない。
しかし、帰るという言葉で咄嗟に自分の思い浮かべた場所が長い年月を過ごした森に囲まれた楽都ではなく、身を焦がすような太陽の灼熱と祈りの静謐、広漠な赤土の大地を輝く黄金と血の赤と黒衣の男女で彩った婚家の風景であったことには驚かざるを得なかった。たかだか六十年間暮らしていたに過ぎないというのに、すっかりあちらの風土が身に馴染んでしまっているらしい。
「あのっ……」
その発見を現在の伴侶に告げようと考えたのかどうかは本人にも確信が持てなかったが、とにかく口を開こうとしたオーストリアの試みは再び手を掴んだまま歩き出したスペインによって阻まれた。
一時立ち止まっていたのは部屋割りを目で確認していただけだったらしい。奥の寝室へと迷わず向かい、何を思ったのかオーストリアを広い寝台へと突き飛ばした。
「あ、あなた……」
かつてスペインからそんな乱暴な扱いを受けたことのないオーストリアは息を呑んだが、無防備に横たわる彼へと荒々しく覆い被さる――こともなく、スペインは自らも仰向けに寝台に倒れ込み、空いた隣のスペースに寝転がった。
成程、シエスタの時間ですか……。
オーストリアは伴侶の生活習慣を思い出して納得し、つい不埒な想像をしてしまった己の下品さを心中で恥じらった。
「土足で寝台に上がるのは不潔ですよ、お馬鹿さん」
「はいはい、しゃーないなぁオーストリアは」
やっと正面から向き合うことの出来たスペインは、常と変わらぬ笑みを口元に浮かべていた。歌うようにうちの嫁はんは口煩うてかなわへんわぁなどと嘯きながら、一人身を起こして自らの靴を脱ぎ、オーストリアの靴も脱がして床へと放り投げる。
「私は一般常識を話しているだけです。仕方ないのはあなたの方でしょう」
「せやなぁ、堪忍な」
ばつの悪さを隠す反動でつい小言じみた口調になってしまうオーストリアを柳に風と軽く受け流し、改めて寝台に身を投げ出したスペインはおもむろに伴侶の体を抱き寄せた。
結婚した当初は存在した身長差も近年は縮まっている。額同士のぶつかる位置で自然と重なった目線が気に入らなかったらしいスペインは、寝転がったまま足で上掛けを蹴り、もぞもぞと芋虫のように体を寝台の奥へと移動させた。完全に頭一つ分の差が出来たところで満足したらしく、オーストリアの頭を胸に抱き込んでくすくすと笑っている。まるで子供に対するような扱いが気に入らないオーストリアも真似をしてスペインと同じ位置まで体を引き上げれば、更にスペインは上へと。
お互い忍び笑いを洩らしながら猫のようにじゃれ合って上掛けと高価な服を皺だらけにし、スペインの頭がベッドヘッドにぶつかる直前まできたところでオーストリアはそれ以上の抵抗を諦め、すぐそこにあるスペインの顎先に口付けを落として降参の意を示した。
途端、抱き締める腕にぎゅうと力が籠もる。眼鏡がぶつかるのも考慮せず顔面に押し付けられた伴侶の胸は衣服越しであっても温かく、自分のものよりやや速い鼓動がオーストリアの耳にも聞き取れた。
見聞きした当初は単なる怠惰の産物と認識し軽蔑していたシエスタの風習は、いざ嫁ぎ先で暮らしてみれば合理的な知恵の産物であることがすぐに理解出来た。海峡を越えればすぐにアフリカ大陸という立地の婚家は、ウィーンとは比べものにならないくらい、兎に角暑い。一日で最も気温の高くなる午後すぐは陽の当たらない屋内で体を休めて体力を温存し、多少涼しくなってから活動を開始するという身の処し方は実に理に適っていて、オーストリアもすぐにその習慣を取り入れた。自室も用意されていたが、事あるごとにべたべたしたがるこの男が新大陸から帰ってきている時は、風通しの良い伴侶の寝室で今のように二人枕を並べるのが常で。
但し、此処のような北国のしかも秋、避暑としてのシエスタの必要性は全くない。スペインにとっては身に染み付いた習性なのかもしれないが、それにしては道中の馬車では微塵もそんな素振りを見せなかった――そこまででオーストリアの思考は遮られた。
「お前んとこの上司は何考えとるんや」
体をぴったりと寄せ合っていた所為で、スペインの声は耳からだけでなく、体全体を震わせるように響いて聞こえた。
「……あなたの上司でもありますよ」
彼が数ヶ国語を操りながら私の国の言葉だけは話さないことをお忘れですか。
藻掻くようにして腕の中から抜け出しスペインの顔を見上げれば、オーストリアをじっと見詰める若葉色の瞳は猫のように魔術的な力を帯びて爛々と輝き、合わせたオーストリアの視線をどう仕様もない強さで縫い止めた。
やはり彼は怒っていたのだと、此処へ来るまでの常とは違った態度、握られた手の力を思い出して、オーストリアは漠然とした不安感の正体を知った。軽やかな笑い声を洩らしていても、そういえばスペインの瞳は笑みを湛えていただろうか。
「……いきなり隠居する言うて、しかも弟と息子に俺達を別々に相続させるなんて意味が分からへん」
伴侶の発する気迫に怖気付いたオーストリアを察したのだろう、ふと目尻を和らげて(しかし眼の色は真剣さを帯びたまま)スペインは宥めるように年下の伴侶の背中を撫で擦った。続ける声は硬さを拭いきれていないが、愚痴を吐き出す時の弱った調子に近い。
唐突な上司の退位宣言に驚いたのは二人とも同じであった。ヨーロッパ中に点在する各家領から呼び寄せられた上司の親族一同と同じように、スペインの家で暮らしていた二人も招集を受けてブリュッセルくんだりまで連れてこられたのだ。
「今後のことで何か心配でも?二人とも良い子ですし、きっと頼りになりますよ」
「あいつらに文句あるんとちゃうよ。フェルナンドもフェリペも生まれた時からよう知っとるさかいな」
「なら、」
「……なあ、解るやろ」
怒りを悟ったその時から、スペインの言いたいことは解っていた。
「お前、フェルナンドと一緒にウィーンに帰ってまうんやろ?そんなん嫌や」
「スペイン、ですが私達が夫婦であるという事実は変わらないのですから」
「別れて暮らすやなんて……」
「ス、……」
反論は許さないとばかりにスペインはオーストリアの項に手を回し、開きかけた口を自らの唇で塞いだ。驚いたオーストリアは反射的に身を捩ったが、嫌悪を感じたからではない。普段は大らかで甘やかし上手な男が時折見せる露骨な独占欲が、オーストリアの結婚生活を何よりも甘やかなものにしていた。
「どこにも行くんやない。俺はお前と離れてよう生きてかれへんよ……」
スペインが望んでいなかったので、唇が離れて再びきつく抱きしめられてもオーストリアは口を開かず、伴侶の背中へゆるりと腕を回していた。
スペインの言葉が事実でないことを、オーストリアは知っている。彼が血塗れになって異教徒と戦っていた時、オーストリアが神聖ローマの家で成り上がり者と蔑まれていた時、お互いを知らずとも自分達はこれまで生きてきたのだ。元は別の国なのだ。そういうものである。
スペインの言葉が真実になればいいのにと、オーストリアは強く願った。今すぐ天変地異が起こって、この大陸が滅んでしまえば。
ああ、でもフェルディナントのことをずっと放ってきたけれど、彼はドイツ語が苦手だから私が間に立たなくては神聖ローマとの意思の疎通が今も上手く出来ていないかもしれない。トルコの脅威を力をなくしたハンガリーだけで防げるとも思えません。
「…………お馬鹿さんですね」
温もりを全身で感じようと、オーストリアは目を閉じた。スペインもそれ以上は何も言わなかった。
スペインといれば戦場も恐ろしくなかった。人間が一生連れ添うだけの年月を抱き合って過ごして、それでも自分達は短すぎると嘆くのだ。
この腕に守られる時代は終わってしまったのだと承知している、オーストリアの諦めこそが何よりも滑稽に違いなかった。
 
 
 
 
 
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御本家のハプス家見てると同居してたり別居してたりする(っぽい)ので、フィリップ・フアナ結婚時〜カール5世退位まで同居してたとか勝手に捏造。多分、伊兄弟は親分ちで一緒に住んでて(貴族が北伊だけ連れて帰る)、ハンガリーは神聖ローマん家でメイド。
貴族の家の企みで嫌々政略結婚した割に、夫婦時代は親分の方がメロンメロンで熱烈に奥さん愛しちゃってるのが面白いなあと思います、歴史系の本読んでると。しかし離婚時は貴族の方が14年間抵抗し続けるくらい粘着してるという……。