※西墺が酒飲んでるだけですが、仏英、普墺、西ロマなんかも匂わしてるので地雷カプのある方は回れ右。
※はっきり書いてはいませんが、時事ネタっぽいのが苦手な方もご注意下さい。
「イギリスってどうなんですか?」
「ふぁ?」
何の脈絡もなくこの場にいない第三者の名前を出され、スペインはきょとんと目を瞬かせた。
会議の後など大勢で飲みに行く機会は多いが、二人きりでグラスを傾けるのはひょっとすると一年ぶりになるのだろうか。最高級のシェリーなら自邸にも置いてあるが、酒場の雰囲気を楽しみたかったスペインがバルに誘えば文句の一つも言わずについてきた。
隣席を窺い見れば、オーストリアはカウンターに並ぶ酒瓶のラベルを順に目で追っている。酒精の効果でうっすら上気している横顔は他国の前よりもずっと気の抜けたもので、輪切りのオレンジを無心に食む唇の動きがいやに艶めかしい。普段は眼鏡越しにしか見ることのない瞳がとろりとした光を帯びていることもこの位置からは一目瞭然で、あまり広くないカウンター席で肩を寄せ合う距離感にスペインは多大なる満足を覚えた。
深夜営業のカフェで向かい合い、甘いリキュールのたっぷり入った珈琲を啜りながらテーブル越しに談笑する晩も嫌いではないが、やはり落ち着くのは自国のバル、口にするなら自国のワインの方が好ましい。フランス産の高価なばかりのワインにも決して引けを取らない美味さだと自負するスペインの血潮だ。もっと輸出額を増やしたいのは山々だが、今の世界的不景気ではそれも難しいところではある。自国でのワイン生産量の少ないイギリスも昔から嫌味たらしくポルトガルの家からばかり輸入していて、しかしあの呪われた冷血悪魔もスペインの家のシェリーだけは大いに気に入っていたのだったか。
大事なワイン樽を強欲な海賊どもに無理矢理略奪された記憶まで甦ったスペインは自然と苦い顔になったが(樽に縋り付くスペインを蹴り倒した金色夜叉の嬉々とした悪人顔は今でも忘れられない)、偶然なのかオーストリアが口にしたのも件の眉毛野郎のことである。
「どうって、何が?」
「別に、少し思い出しただけで深い意味はないのですけど」
店内は声の大きなスペイン人達のお陰で騒音一歩手前の賑わいだった。互いの声を聞き漏らすまいとすれば、自然顔を寄せ合って会話することになる。前置きと共に一旦彼我の距離を仕切り直したオーストリアは、おっとりとした仕草でサングリアの入ったグラスを手に取り唇を湿らせた。白い膚と血の色の取り合わせが美しく、スペインは目を細めてそれを見守った。
「……先日、何の因果かフランスと酒席を共にする不幸に見舞われまして」
「そらかわいそーやったなぁ。またセクハラされたん?」
「ええまあ、そうお下品なことはされなかったのですが、その代わりあの方とても酔っ払ってしまって。最後は机に突っ伏して寝てしまうし、私とイタリアの二人ではホテルまで運ぶのに大変苦労しました」
「へえ、珍しいなぁ。潰れたイギリス介抱せなあかんって、あいつ外ではあんま飲まへんやろ」
スペインにとってはどちらも親しい友人だが、フランスを毛嫌いしている親友の前では下手に弁護せず調子を合わせてやることにしている。泥酔してぐうぐう寝ているおっさんを非力な二人が引きずっていく光景を想像したスペインは何だか微笑ましくなったが、オーストリアといえば不機嫌極まりない表情で眉宇を顰めている。
「そのイギリスがいなかったから安心して酔い潰れたんでしょうけれど」
何とも傍迷惑な話です。断言して、オーストリアは残り少ないグラスの中身を一息に干す。すかさずスペインはカウンターの内側に声を掛け、甘口のシェリーを注文してやった。
隣席の親友は取り立てて礼を述べることもなく、どころか自国の産物を自慢したかったスペインに仕方なく付き合ってやっているのだと言わんばかりの醒めた視線で一瞥してきた。他人に傅かれることを当然のように享受するオーストリアの高慢を嫌う国もあるが、別段悪意あっての態度ではないのだ。かつての二人を思い出させる微かな栄華の残り香が、スペインは決して嫌いではない。
「その時、酔ったフランスが口にしていたんです。普段は色気の欠片もない童顔のお坊っちゃんなのに、小悪魔じみた上目遣いで挑発してくる時は、翠の瞳がアプサントみたいに危険な磁力を発して視線が逸らせなくなるんだそうですよ」
私はあまり好まないのでぴんと来ない喩えでしたけど、フランスではあのお酒が特別な意味を持っていたそうですね。芸術家の詩神だとか緑の妖精だとか。
「へー、そうなん」
常であれば命の瀬戸際にあっても自らのプライドに賭けて隣国への好意を表明したりしないフランスの、酔って口が軽くなったにしても随分とらしからぬ失態にはスペインとしても驚きを覚えなくもない。が、所詮は他人の惚気話だ。それを伝えるオーストリアの口調にも、皮肉にあと一歩で届かない投げ遣り感が漂っている。バルで飲むうちに以前の飲み会での一幕を思い出し、雑談の一つとして俎上に上げただけのことなのだろう。
最初に口にしたどうなんですかの意味をやっと理解し、スペインは改めて首を傾げた。
「うーん、どないや言われても、俺あいつと寝たことないから分かれへんで?」
「あら、そうだったんですか?」
届いたグラスを手元に引き寄せつつ、オーストリアは意外そうな顔を向けてきた。実際欧州の面々は付き合いが無駄に長い分互いに向ける感情も複雑で、ありとあらゆる黒歴史を過去という地層の下に隠し持って素知らぬ顔をしているのが常である。
「せやかて俺、あいつのこと嫌いやもん。確かに付き合いはべらぼうに長いけど敵対しとった時期が大半やし、今かてあいつジブラルタル返してへんねんで。仲良くしたる気がせぇへんわ」
そうは言ってもスペインは何事も単純に、気楽にいきたいのだ。嫌いなら嫌いと割り切って付き合った方が楽なことも多い。
オーストリアは苦く微笑って寸評を差し控えた。イギリスがスペインの喉元を領土に加えたのは、自分達の離婚を撤回しようとしたオーストリアが英軍へ助力を求めた戦争の時であったから、当事者の一人としてわざわざ互いの黒歴史を掘り返す気は当然起きないだろう。
「……ほんの一時期上司が仲良うしとったけど、俺、あの頃は嫁さんのことめろめろに愛してて余所見する暇あらへんかったしなぁ」
瞳を覗き込むようにして顔を寄せ、ごく軽い口調で告げてやる。おや、と口元を緩める元妻は満更でもないらしい。酒が不味くなる前に気まずい空気を一言で払拭してのけた己の手腕にスペインも満足した。相手を喜ばせる言葉を出し惜しみしないのがラテン男の美点である。
「そういうお前はどうやのん。味見もしてへんかったん?」
わざわざ訊いてくるという時点で答えは分かり切っているが、これも意外といえば意外である。主にスペインと啀み合う時など二人手を組んで、結構仲良くしていた気がするのだが。何か理由でもあったのかと問えば、先程のスペインと同じように曖昧な表情でオーストリアは首を傾げている。
「偶々……ですかねぇ。ベルギーのおかげで、私自身で対価を払う必要があまりなかったということもありますけど」
「たまたま、なぁ」
なかなかしっくりくる表現かもしれない。フランスのように誰彼構わず愛を振りまくような趣味こそ持っていないが、スペインとて貞操堅固な気質ではない。いくら嫌いな相手と規定していても現実にはそれ以外の感情を打ち棄ててしまえる筈もなく、正直なところ、そういった雰囲気になれば大した抵抗感もなく流されていたと思う。二人揃って首を傾げている現状は自分達の側ではなく、大陸諸国とは距離を置いて深く関わろうとしてこなかったイギリスの閉鎖性に原因の主体があるのだろう。
そんなことをわざわざ指摘するつもりはないし、「ああ、そうそう」と微笑するオーストリアも或いは同じことを考えているのかもしれない。
「ゲルマン系の男って下手でしょう?試してみる気も起きなくて」
「へぇー……」
哀れみではない。どちらかと言えば袖にされた不快感に近いが、あくまでも己が決定権を握っているかのように振舞い認めたりしないのが、元大国のささやかな意地というものである。数多くの結婚を重ねた過去を誇るような口振りで、オーストリアはいけしゃあしゃあと嘯いてみせた。
「そんなん聞いたら彼氏が泣くんとちゃう?」
「さて、誰のことか存じませんが、現在私はドイツ人と連絡を取ることをフランスに禁止されていますので、聞かれる心配はないと思いますよ」
「……あいつも昔からやること変わらんなあ」
「私とイタリアを呼んで、EUの為に一肌脱いでくれだとか下手なお芝居までしたんですよ、あの人。馬鹿みたい」
快く引き受けましたよ、ええ。現状維持が望ましいのはドイツ一人だけで、明日は我が身ですもの。政府とは関わりのない私生活に限っての話ですし、どれほど効果があるのか随分と疑わしいですけれど!
オーストリアは納得していないようだが、スペインはそれを聞いて安心した。自分達は国であるからして、自国の利益を何よりも優先させなければならない。スペインはドイツやその兄を友人として好いてはいたが、オーストリアが身を削ってまで彼らを庇い立てする必要はないとも思っている。それこそ明日は我が身であるので、都合の良い先例を作るのは大歓迎であるし。
フランスは他人の感情の弱い部分を突くのが上手く、また目立ちたがり屋を気取る割には裏からじわじわと手を回す絡め手の策を用いることが多い。オーストリアがそれに嫌悪感を抱くのも理解出来なくはない。
「人の恋路を邪魔しておいて、自分はへらへらと惚気話ですよ?死ねばいいのに」
「まあまあ。惚気話したいんやったら親分が聞いたるで?」
スペインは過去の自分達夫婦が離婚せざるを得なかった原因はイギリスに海上覇権を奪われたからであると考えているし、オーストリアの方はフランスの手で自分達が無理矢理引き離されたのだと今でも信じている節がある。それでも、例の若造から隣国の心を奪い返そうと柄にもなく必死でいるフランスを見ていると、多少の協力はしてやりたいと思ってしまうのだ。――自国の損にならない範囲内での話だが。
「……アブサンのことですが」
「ん?アブセンタ飲みたいん?この店置いとったかなぁ」
「いえ、そうではなく」
店員へと声を掛けようとしたスペインを遮って、オーストリアは大衆酒場に似合わぬ典雅な微笑みを浮かべた。
「あのお酒の緑色って、どちらかと言うとあなたの瞳の色の方が近くありません?フランスが妙なことを言い出す所為で、急にあなたに逢いたくなってしまって今日は訪ねてきたんです」
グラスから離された白い指が、自然な仕草でするりとスペインの前髪に絡められた。騒がしい店内で声を潜めれば、その分だけ距離を縮めざるを得ない。鼻先の触れ合わないぎりぎりまで顔を近付ければ、眼鏡越しの瞳は陶然と甘さを滲ませてスペインの苦笑を反射している。
「……そうなん?」
不届きな指先を好きにさせたまま、オーストリアの緩く開いた唇を撫でた。よく知った弾力が指先に触れる。針を持った手で風船を撫で回すような緊張感を持って、唇の端から過失を装い黒子に指を滑らせれば、酔いに上気した頬をぱっと紅に染め、しかし親友は眼を細めただけで文句を口にしなかった。
――寂しいんかな。指を離すタイミングを失ったスペインは、何度も唇の輪郭をなぞりながら相手の意図を推理した。自分から恋人を突き放さなくてはならない状況によるストレスで、自棄っぱちな気分になっているのかもしれない。かなり酔っ払っていることでもあるし。
いい加減擽ったくなったのか、オーストリアは悪戯な人差し指に柔く噛み付いてそれ以上の動きを阻んだ。前髪を弄ることをやめ、両手でスペインの手首を支えるように持ち上げている。瞼を伏せ指を咥える表情を直視すれば、冷静な考察など一瞬で吹き飛んだ。
濡れた舌先が、爪と指の間の柔らかな皮膚をつつく。スペインは反射的に手を引っ込め、指の自由を我が手に取り戻した。
「ほんま悪い子やなぁ……。親分が説教したるわ、今から家に来ような」
「お手柔らかにお願いします」
オーストリアは軽やかな声でくすくすと笑う。スペインの逡巡も見透かしていて、その上で巧く転ばせてやったと喜んでいるのかもしれない。機嫌を直してくれたなら結構なことだと、悪友の尻拭いをするような心持ちでスペインは酔った元妻を自宅にお持ち帰りすることに決めた。
スペインの大事なあの子は割合嫉妬深く、火のないところに煙を見出だしてはありもしない浮気を疑って大騒ぎすることもあるのだが、裏を返せば物的証拠から浮気の痕跡を見付けることの出来ない子でもある。自分達さえ口外しなければ、露見することはないだろう。
スツールから降りる前、皿に一つだけ残っていたピンチョスの串を口元に持っていってやれば、反射のようにぱくりと咥えた。子供のような仕草に、スペインの指を齧った時に見せていた滴るような色気は感じられない。
うわ、可愛ぇなあ。
正直こういう稚い仕草の方がスペイン的には余程ときめくのだが、言えば変態だとか何とか罵られそうな気がするので口にするつもりはない。
2010年3/22〜3/26くらいのロイター記事読んでたらこういうイメージがポワ〜ンと浮かんだんですが、あくまでもイメージ(ていうか妄想)なので現実の出来事とは何一つ対応しておりません。フィクション!!
19世紀フランス人を数多廃人にした件の酒が別名「緑の妖精」なのって仏英的には出来すぎじゃね?とか思う訳ですが、ハプスブルグ・アブサンなんて銘柄もあるんですよ(^-^)今はフランス産ですけど。……あれ?
ちなみに、酒場の代金はオーストリアさんが奢ってくれました。
「あなたが甲斐性なしなことはよく存じてますから」
「今の彼氏かて無職やん」
「何の呪いなんでしょうね……はぁ」