どたどたと煩い靴音にドイツが顔を上げれば、ちょうどリビングの扉が勢い良く開けられたところであった。蝶番の悲鳴と共にばしんと壁に叩き付けられた樫材の扉板が、勢い良く跳ね返って再び閉まろうとしている。強盗が白昼堂々押し行ってきたのでないなら、そのような粗雑なことをする人間の心当たりは一人だけだ。
「兄さん、家が傷むだろう」
たった今帰宅したらしい兄へと挨拶も忘れて苦言を呈したが、普段なら苦虫を噛み潰したような顔で「クソ眼鏡みてーなこと言うなよ」とでも言い返す筈のプロイセンは何の反応も返さなかった。ずかずかと荒い足取りで対面のソファに向かい、怪訝がるドイツが目に入っていないかのような有様で、どさりと崩れ落ちるように座り込む。見開いた真紅の瞳に浮かぶ狂気めいた色を見て、ドイツはちょっと怖くなった。
「に、兄さん……?」
心配しない訳がない。恐る恐る呼び掛けた弟の声も耳に入らない風に、プロイセンはこの世の苦悩を一身に背負ったかのような面持ちでじっと俯いている。居心地悪さにドイツが身動ぎすると、膝に乗せたままでいた『親族との付き合い方:兄嫁編』が床に滑り落ちた。慌てて拾い上げ目の前のテーブルに置けば、本の題字を見咎めたのか、プロイセンの肩が神経質そうにぴくりと跳ね上がる。……そうだった。今日もそわそわと“散歩”に出掛けた兄を送り出した後、ドイツはリビングで読書をしながら休日のゆったりとした時間を過ごしていたのだ。
プロイセンの気鬱の原因が朧気ながら見えてきたドイツだが、本当に二人が付き合っているのか時折疑わしくなるくらい、プロイセンとオーストリアは日頃から喧嘩の絶えない仲である。この兄が今更落ち込む程のひどい大喧嘩をしてきたのだろうか。それとも、まさかオーストリアの身に何か……?
「一体何があったんだ。俺にも話してくれ」
「ヴェスト……」
オーストリアが突然財政破綻した、もしかして前時代的にも他所の国と結婚することに、いや単に別れ話をされただけでも兄さんにとっては衝撃だろうか、……。
憶測が憶測を呼び内心ぐるぐる焦っているドイツを知ってか知らずか、のろのろと顔を上げたプロイセンの表情を一言で示すなら、悲痛、それに尽きた。
「坊っちゃんに……」
ごくり、と唾を飲み込みドイツは兄の告白を待っ。
「慰めるっぽい口調で『男の価値は顔で決まるものではありませんからね』って言われた………」
「……………………?」
「畜生なんなんだよあの慈愛の眼差し!!」
「あー……、良かった、な?」
非常にコメントに困ったが、ドイツは仕方なく相槌を打った。心配して損したなどとは正直思っている。
「何でだよ!?ヴェストも俺様が不細工とか思ってんのか!!?」
俺様かっこいいだろ!男前だろ!なあ!?
「こうなったらベルリンの落書き今すぐ全部消してやる!!」
「それをしても磨かれるのは俺の外見ではないか?」
「じゃポツダム?ロシアの野郎に頭下げてケーニヒスベルクの美化活動やらせんの?ぜってーやだ!!」
「いや、そういう話ではなくてだな……」
必死の形相で詰め寄られても、生憎ドイツもオーストリアと同じく男の価値は外見以外に由来するという考えの持ち主だったので非常に答え難い。まあ兄の価値観では容姿を認められないというのは一大事なのだろう。家族愛を駆使して自分を納得させ、ドイツは真面目に考えた。
「俺達は兄弟だから顔が似ているだろう?自分の容姿を客観的に判定するのはなかなか難しいからな。俺には兄さんが眉目秀麗かどうか答えられん」
「お前だってかなりのイケメンだぜー?」
元々自分の容姿に自信を持っているのだから、身内に対しても自然と高い評価になるだろう。理解しつつもうっかり嬉しくなりそうになった自分を叱咤して、ドイツは更なるフォローを考える。唇を尖らせつつ頻りに首を捻るプロイセンは、納得には至っていないようだが先程よりも明らかに機嫌が良くなっている。
「と、とにかく、そういうことだ。オーストリアも俺達の親族には違いないし、俺と同じで兄さんの容姿を誉め難いだけかもしれんぞ」
このままこの路線で押し進めてみよう……ドイツの判断は最悪ではなかったが、
「は?そりゃねーだろ」
説得力の点で著しく問題があった。
「俺と坊っちゃんの共通点なんざ微塵もねーよ。大体あいつこそ眼鏡外すと超地味顔になるくせして何ヒトの顔にケチ付けてんだ?ああ?てめえは何様だっつーんだよ!」
そう言うが、ハルシュタットは世界一美しい街だと……などという話は今すべき議論ではない。
「まさか、それをオーストリアにも言ったのか?」
「頭が真っ白になってそのままアイツん家飛び出してきたから、そういやなんも言い返してねえ……かも」
不幸中の幸いとでも言うべきか、今日のところは喧嘩になっていないらしい。オーストリアの機嫌まで取る必要がないのは助かった。強兵が弱兵を一方的に叩き伏せる戦いは両軍トータルでの損耗が少ない。『だから本当は絶対に勝てる確信がある時しか戦争は起こしちゃいけねえ』目の前の兄から遠い昔に教わったことを思い出す。……兄自身にそれを実践している様子は全く見られないが。この人は昔から、敵を傷付けながら我が身をも削るような消耗戦ばかりしている気がする。
「くーっ!思い出したら段々腹立ってきた!!だよな、俺様のかっこよさを理解出来ねぇ坊っちゃんの方が審美眼死んでるんだよな!!よしこれからあいつん家に乗り込んで一発殴……」
「頼むから面倒を起こさないでくれ!!!」
普段やかまし…快活な兄が暗く落ち込む姿は哀れを誘うとはいえ、戦いへ赴く為の気力などこれっぽっちも必要ない。世界平和の為には下手に慰めようとしたりせず放っておく方が良かった。ドイツは後悔したが、先に立たないからこその後悔である。
「大体兄さんは贅沢だ!!オーストリアは兄さんの容姿に不満があるから別れると口にした訳ではないのだろう!?」
「あっ…あったり前だろ!?不吉なこと言ってんじゃねーよヴェスト!!」
容姿を評価していないのに愛情を抱けるというのは、つまりオーストリアが兄の内面を好ましく思っているということの証左ではないか。この上無い幸福だとしか思えない。大体恋人がいる時点で人生の勝ち組だ。しかもあんな……う、羨ましい訳では決してないが、とにかく兄さんは贅沢過ぎる。
「一般的にヒモってのはツラ使って相手誑かすもんなんだぜ?唯一の武器が威力低いなんて焦るに決まってんじゃねーか……」
突然声を荒げたドイツに驚いたのか、急に甘えるような調子になったプロイセンの言い分は……想像以上にひどい。というか、情けない。
「だから定職に就けと前々から言っているだろう!!!!!」
――なし崩しに兄弟喧嘩になってしまった後、不逞腐れたプロイセンは二階の自室に引き籠ってしまった。今頃はフテ寝するか枕相手に八つ当たりするか地図帳を見ながら旅行計画でも立てているのだろう(想像出来るのが情けない)。
そんな義理も必要もないことは自分でも承知していたが、ドイツは兄の恋人の反応が気になってオーストリアの自宅に電話してしまった。
「プロイセンですか?あの人ならヤウゼの途中でふらふらと帰っていきましたけど……何か?」
「気に?別にしていませんよ、あの人の無礼は今に始まったことじゃありませんし」
受話器から聞こえるオーストリアの口振りはひどくあっさりしたもので、しかも何がプロイセンにダメージを与えたのか全く解っていないようだった。寧ろ自分が相手にダメージを与えたこと自体に気付いていない風ですらある。
……相手の急所を察知し的確に攻撃を加えられるような勘働きさえ出来たなら、この隣国は過去の戦争ももっと有利に進められたのかもしれない。今更詮ないことだが。
「そうか。それなら良いんだが、オーストリア……その、兄さんの容姿についてどう思う?」
「はぁ?何ですか、やぶからぼうに。好きな部類ではありませんよ」
「そ、そうか……」
プロイセンとの会話からも概ね予想出来ていたが、こうもはっきり断言されると自分のことではなくてもドイツの胸は痛んだ。
「まず目付きが悪いでしょう。ただでさえ瞳の色が変わっているのに、それが藪睨み気味なんですからどうしようもありませんね。唇が薄いのも情がなさそうでいけません」
「そうか……」
「悪人面です。パーツの一つ一つが酷薄そうでしょう?あなたのように内面の誠実さが滲み出しているなら良いのですけどね、プロイセンは見るからに攻撃的で。筋肉は付いていますけど痩せ気味ですし、膚の色が白いのもあの人の場合は爬虫類っぽくて全く魅力になっていません。私、ヘビ嫌いなんです」
「そ、そうか…………」
「あなたもお気を付けなさいね、ゲルマン系の顔は往々にして冷たい印象を与えがちですから。あなたの場合体格も立派ですから人に威圧感を与えがちですし……。もっと自然に笑う練習をなさい。イタリアのように四六時中へらへらするのも馬鹿みたいですが、元の作りにハンデがある分、努力して愛想をお見せなさいね。まあ、あなたの場合は家庭的な穏やかさや誠実さに救われていますけど、プロイセンは最悪です。下品で粗暴で悪賢い性格が表情に滲み出ています。子供っぽいのに可愛げもないですし、生活力もないですし、あとそれから……」
「……………………」
まさか俺(の外見)にまで説教されるとは思わなかった。大体、お前だって愛想がないのも冷たそうなのも同じだろうが。
……待て、この言い分だと兄さんの性格が駄目だと言ってないか?じゃあこいつは兄さんの何処が好きなんだ……?
ドイツは己のささやかな好奇心を激しく悔いたが、先に立たないのが後悔というものである。放っておくと延々何十分でも続きそうな勢いの駄目出し…愚痴に近いそれを、自らの心を守る為には中途で制止するしかなかった。
「もうやめてくれ、俺のライフも0になりそうだ…………」
「どうしました?ドイツ?」
少しだけプロイセンの気持ちが解ったドイツは、今日くらいは傷心の兄に優しくしてやろうと決意した。
※現代設定。念の為に明言しときますが、作中におけるプーへの批評は私じゃなく墺さんの個人的意見ですので(^_^;)