※普段以上に殺伐としています。暴力・流血表現注意。



 
 
 
 鷲掴んでいた軍服の上衣を振り払うようにして離せば、なす術なく頭と背中を瓦礫に叩き付けられたオーストリアは、その勢いのまま地面へと滑り落ちていった。小さな呻き声に混じって、べしゃり、と泥を掻き混ぜる柔らかな音がする。故意に突き落とした訳ではなかったが、力なく倒れ伏す敵の姿にプロイセンは顔を綻ばせた。
 今年のシュレジェンは例年にない寒波の中にあって、4月といっても先日までは厄介な雪の所為で行軍にも支障を来す程だった。今日は珍しくも戦日和の晴天だったが、陽射しに温められた雪融けの水で地面はぐずぐずと泥濘んでいる。
 オーストリアが藻掻けば藻掻くほど、白の軍服が泥水を吸って黒ずんでいく。といっても純白だった筈のそれはとうの昔に泥や煤や返り血やらで当初の清らかな色彩を失っており、こんな汚れの目立つ軍服をデザインした奴は余程想像力に欠けていたか余程の変態だったに違いないと、プロイセンを皮肉な気分にさせる。
 転落した時に外れたらしい眼鏡が、汚泥の中に半ば沈みかけている。音楽的な何かを失った素顔を見るのは久方ぶりだった。セットが崩れ前髪が額にかかる髪も、彼の国が幼く無力だった時代を思い出させる。
 頭を打ち付けた衝撃で意識が遠退いたのか、ぐったりとした様子で眼を伏せたオーストリアはそれでも弱々しく身動ぎしていたが、腰に跨がるようにして乗り上げたプロイセンがその顔を覗き込めば不意に眼を見開き、ぎらぎらとした怒りに満ちた眼差しで睨み付けてきた。
「……おどきなさい」
 プロイセンはにやりと唇を歪め、目の下に付着した泥を拭い去らず指の腹で余計に擦り付けてやった。不快そうに眉を顰め、首を振って嫌がる仕草が愉快で仕方ない。勝敗の決したこの期に及んでも戦意と敵意を失わない紫の瞳は、とても美しい。
 うっすらと漂う硝煙がただでさえ視界を悪くしている上宵闇に包まれ始めた戦場には、報告すべき上官を探して走り回る伝令、弾の補充を求めて僚友の死体を漁る味方の銃歩兵、或いは主を失った軍馬が淋しげな足取りで彷徨う姿だけが影絵のように浮かび上がっている。
 日中の狂騒は既に遠ざかり始めており、敵軍の駐屯していたモルヴィッツ村には略奪の手が及び始めているようだったが、火の手は未だ上がっていない。厳しい訓練を課しているのに加え給料をしっかり払っていることも関係しているのだろうが、三十年戦争の頃と比べるとどこの国の兵も随分大人しくなっている。
 敗将の虚勢を無視し、上衣ごと中のシュミーズの裾を引っ張り出して直接肌に手を這わせれば、プロイセンの意図を察したのだろう。オーストリアは鋭い視線はそのままに、如何にも蔑むように「は、」と嘲笑した。
「すぐに人が来ますよ。私の肖像画を描かせるのではなかったのですか」
「俺は見られながらでも構わねーぜ。お前のイク時の顔をスケッチさせて毎晩オカズに使ってやるよ」
「……お下品ですこと。なんなら今から服を脱いで差し上げましょうか」
「要らねえよ。お前はそのまんまで充分綺麗だ」
 汚れた衣服を乱す方が、無理矢理事に及んでいる実感が得られて良い。泥だらけの髪を鷲掴んで唇同士をくっ付ければ、口の中を切っていたのかうっすらと血の味がした。二人とも瞼は閉じない。舌を入れれば噛み千切られそうな気配を察して選んだ表面の皮膚を押し当てるだけの接触は、しかし今までしたどんな接吻よりもプロイセンを恍惚とさせる。
 オーストリア軍には既に反撃する力は残っていない。こんなところで国の象徴が単身、味方とはぐれてプロイセンの手の内にいるのが何よりの証だ。もう少し早い時間に決着がついていたなら敗走する敵を追撃して更なる大打撃を与えられたかもしれないが、この調子では夜闇に紛れて撤退する敵を見逃さざるを得ないだろう。予想外に善戦した敵の所為で自軍の被害も甚大であったから、こちらもそれなりに態勢を立て直す必要がある。
 身を守る術一つない、今やオーストリアは投げ与えられた玩具も同様だった。前世紀の法学者グロティウスが著した『戦争と平和の法』には、勝者は敗者に対してあらゆることを行うことが許される、また生殺の権を有していると明記されている。……が。
「はぁ?グスタフ・アドルフの御用学者如きが何を言おうとも、私に従う道理はありませんが」
 オーストリアがどこまで本気なのか知れないが、最も権威ある国際法すら鼻で嗤う高慢さこそ、この浮世離れしたお貴族様の態度には相応しい。この期に及んでの上から目線は気に食わないが、大人しい獲物などいたぶり甲斐がなくてつまらない。
 ふと思い付いて腰に差していた剣を抜き、オーストリアの顔のすぐ右、真横の地面へと勢い良く突き立てた。雪解け水にふやかされた黒土へと、切っ先は思った以上にずぶずぶと抵抗なく埋まっていく。露骨な脅しに、憎まれ口がぴたりと閉じられた。
「ま、俺としちゃ抵抗しても構わねぇぜ。無反応のお人形さん抱くよりその方が興奮する。……ついカッとなってその首掻き斬っちまうかもしれねーけどなァ」
 プロイセンがにたりと笑えば、抑えきれなかったのか、か細い悲鳴が白い喉首から洩れる。喉仏が上下するのを見て噛み付きたいと思った、から噛み付いてやった。官能ではない反応でオーストリアの全身がびくりと大きく痙攣する。
 取り繕わない素の恐怖心はプロイセンを強く歓喜させた。あの生意気なお坊ちゃんを屈服させている。他ならぬこの俺が!
「ははっ……ははは!ざまあみろ!!何処からも助けなんか来ねえよ!!お前は誰にも愛されてない!!愛する奴なんかいる訳がねえ!!」
 彼我の立場は逆転した。無力な負け犬は勝者であるプロイセンに対し、みっともなく泣きながら寛恕を懇願すべきなのだ。助けて下さいと請われれば、シュレジェンだけで手を打ってやらなくもない。
「バイエルンやザクセン見ただろ、鼻の下伸ばしてチヤホヤしてたお取り巻きの連中も、本心じゃテメエの手足食いちぎって腹ん中に収めることしか考えてねーんだよ!!」
 その宣告はプロイセンにとって、相手の罪の在処を突き付ける弾劾の言に他ならなかった。
「……あなたもその一人というわけですか。知っていますよ、そんなことくらい。私達は国なんですから」
「――あん?」
 しかし、命の危険に竦み上がっていた筈のオーストリアは、すぐさま虚勢――としか思えない冷静さを取り戻す。
「とうとう賤しい本性を白状しましたね。あなたの高潔ぶった、悲劇の主人公ごっこに付き合わされるのにはいい加減うんざりしていたんです」
 この方がすっきりしていて宜しい。
 淡々と言い切る声音は冷たい蔑みに満ちていた。白を汚され地に臥し天を仰ぎ、棲み家たる宮廷を遠く離れてなお、プロイセンを見上げるオーストリアの相眸から支配者の香気は失われていない。宵闇の中で昏さを増した紫の瞳には、気圧されたように絶句する侵略者の姿が映っている。
「テメェ……」
「報われない恋!なんてくだらない自己陶酔!!片腹痛い、騎士道のミンネなんて、みんな自己満足の三文芝居です!!」
 あんなもの愛でも献身でもありません、どんな物語もそう、ランスロットもトリスタンも、最後は厄介な愛人を夫の元に返して知らん顔!
「……ッッ!!」
 言い募るうちにオーストリアも呼吸を荒げ、時折声音の裏返る叫びは攻撃や非難という以上に己の感情を剥き出しにし過ぎていたが、プロイセンにその本心を慮る余裕などある筈もなかった。
 明確に貶め嘲る目的でもって、オーストリアはプロイセンの心の柔らかい部分を暴き立てた。許せない、――聞きたくない!
「黙れ!!!」
 それ以上の攻撃を阻みたい一心で、プロイセンは半ば無意識のまま敵へと拳を降り下ろした。馬乗りの状態から、咄嗟に動いた利き手で左の頬を殴り飛ばす。……運が悪かったのは、脅し目的でオーストリアの顔の横に突き立てていた剣の存在である。
 鋭利な刃に押し付けられた白い首筋から、ばっと鮮血が吹き出した。
「………!!」
事態を把握する前に、プロイセンは反射的に剣の柄を掴んでそれを背後に投げ捨てる。肉の間に埋まった刃を引き抜く時の反発、ある意味では戦の慣れた感触が手に残る。
 目を見開いたオーストリアが、恐る恐るといった手付きで己の両手を首に当てる。その手を真っ赤に染め指の隙間から流れ出る血の勢い、鼻をつく鉄臭さに、加害者たるプロイセンすら声を失った。ここは戦場で数刻前までは互いの国の兵を平然と屠っていた筈であるのに、想像もしなかったほどの強い衝撃を感じる。
 人間なら確実に死んでいるような外傷も、自分達のような生き物にとっては致命傷になり得ない。しかし、感じる痛覚に人との差異はない。眉間に深く皺を寄せ血と泥土に塗れて身を捩るオーストリアの姿は、凄惨の一言に尽きた。
 驚愕、憎悪、糾弾。ぎらぎらと輝く瞳は、殺意すら含んでプロイセンを凝視している。この時までプロイセンも、オーストリアすら本当の意味で訣別の覚悟などしていなかったのだと、突き付けるような。
 どくどくと鮮血の流れ出る傷口を手で押さえたオーストリアは、呪われなさい、と掠れた声で叫んだ。咳き込んだ拍子にごぽりと、喉を逆流した血が唇から溢れる。
「私はッ……あなたを決して、許しません……!!」
 ひゅうひゅうという音は、気道が傷付き上手く呼吸が出来ないからだ。――だが、それがどうした。プロイセンは己のクラヴァットを解き、懲りない半死人の口に突っ込みそれ以上の呪詛を封じ込めた。度重なる狼藉に怒り狂うオーストリアに向けて、勝ち誇った風な顔を作って嗤ってやる。妙に脱線したが、当初の目的を達成するには都合が良いくらいの状況だ。
 自らを古代の英雄に準えルビコン川を渡るとフリッツが宣言したその時に、既に骰は投げられている。今更、元に戻れるとは思っていない。いや、戻るべき関係など自分達の間には最初から、何もない。
 これからは憎しみ合う敵同士だ、解り易い。“すっきりしていて”結構じゃねえか。
「お前がここで死なねぇのが残念だ」
 戦いの勝利者、卑劣な侵略者としてのプロイセンが選んだのは、その一言だった。
 
 
 
 戦場の片隅でその後起こった出来事は、人間及びその亜種にとっては日々の営みの一つであり、別段特筆するには値しない。当事者の一方は口を利けず、一方は歯を食い縛って呻き声を殺しながらの行為であったので、衣擦れの音を除けば全ては恐ろしく静かに、ある意味では粛々と執り行われた。
 一通りの手順を終え、プロイセンが額の汗を袖で拭った時には、相手は痛みに耐えきれずとうに意識を手放していた。
 血と泥を吸ったボロ布のような惨めな有様を暫し目に焼き付け、自分の身支度だけを整えてから、プロイセンは事の間ずっと地面を掻き毟って真っ黒に染まったオーストリアの手を取って、自分の顔が汚れるのも構わず掌に接吻けた。
 見れば、人間ならぬものの回復力によって、既に首の刀傷は塞がりつつあった。くしゃくしゃのクラヴァットで傷口を軽く拭った後、その汚れた布を首に巻き直す。
 自軍に合流する為、プロイセンは戦場を後にした。辺りはすっかり夜になっていて、両軍の死屍が累々と折り重なる中、オーストリアだけが暗がりに取り残された。
 
 
 
 
 
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実際のモルヴィッツの戦いは普墺とも痛み分けみたいな状況で(フリッツ親父も途中で戦場離脱してるくらいだし)、プー側の宣伝工作によって普勝利・墺敗北のイメージが諸外国に浸透したとかなんとか。
プロイセン軍が戦闘隊形を取り始めた段階で、まだのんびりお昼ご飯食べてたオーストリア軍がおっとりさんっぽくて可愛い(´∀`*)