台所を覗くと、オーストリアのエプロンを身に付けたイタリアが鼻唄混じりにくるくると器用に立ち働いていた。数年前改装したばかりで未だ汚れの目立たないシステムキッチンに、白い湯気と共に食欲をそそるトマトとオリーブオイル、スパイスの香りが漂っている。
 オーストリアが一人の朝食で使うダイニングテーブルを作業台代わりにして、下拵えを済ませた食材がところ狭しと並んでいる。イタリアは茹で上がったニョッキを手際良く冷水に晒しながら、時折鍋の方に目を走らせて煮込み加減を確認している様子だった。たっぷりのオリーブオイルが引かれた深手のフライパンは電磁調理器の上に置かれたばかりのようだが、ちょうど良い熱さになればそこの魚介類や野菜を投入するつもりなのだろう。
 料理人としてのイタリアはとても優秀な腕を持っている。オーストリアも台所仕事は苦手ではないと自負しているが、調味料なども目分量で適当に入れているとしか思えないのに出来上がった料理はこの上なく絶妙な味加減に仕上がっている、イタリアの能力は長年の謎だと思っていた。
「うーんべるでぃーゔぇどぅれーもー」
 文化大国の化身だというのに、料理や絵画に比べるとイタリアの歌はあまり上手ではない。オーストリアの家で働いていた頃も掃除や皿洗いなどの雑用をしながら流行りの歌を口ずさんでいたから、歌うこと自体は好きなのだろうけれど。やや調子外れの旋律に合わせて一房のくるんが揺れているのが、指揮棒のようで微笑ましい。
「プッチーニの“ある晴れた日に”ですか」
「あ、オーストリアさん」
 くるりと振り返ったイタリアは目を細め、相変わらずのしまりない笑顔を向けてくる。動きの一々がスローテンポに見えるのに、その間も水切りする手が止まっていないのは流石かもしれない。
「どうしたんですか?もうちょっと待っててくださいね〜」
 我が者顔でオーストリアの台所を占拠しているイタリアは、今夜の夕餐の用意を一手に引き受けている。ワイングラスを取りにきたんですが…と返しつつ、一体何品作るつもりだろうとオーストリアはテーブルの上の材料達に目を走らせた。集まった人数はそう多くないが一人を除けば健啖家が揃っているし、一人きりで複数の料理を同時に作るのはなかなかの重労働だろう。
「何かお手伝いすることはありますか」
 このお肉はシュニッツェル用ですか?とトレイの中に鎮座する豚肉を指差す。味付けには拘りもあるだろうが、肉を引き伸ばすくらいは手伝ううちに入らないだろう。
「えええ!ダメだよ〜!」
 振り上げたミートパウンダーは、しかし後ろから手首を掴んでくるイタリアによって阻まれた。もう片方の手をテーブルに置いて不安定な体を支えようとしているようだが、自分より長身の相手へ届くよう精一杯つま先立ちしている所為で、掴まれたオーストリアの手まで一緒にぐらぐら揺れてしまう。
「肉を叩く度に工事現場みたいな音……、えーと、じゃなくてぇ、オーストリアさんの作るコトレッタが美味しいのは知ってるけど、今日は全部俺に任せて欲しいな!」
 甘えるように肩に顎を乗せてくるのは、背伸びしながら体のバランスを取るのにちょうど良い位置だからだろう。するりと他人の懐に入り込むような不快でない馴れ馴れしさはイタリア天性のもので、昔は一々叱っていたオーストリアの方がいつの間にかそんな接触に慣らされてしまっている。
「ホストが招待客を働かせてのんびりしている訳にもいかないでしょう」
「でもこれって俺からのプレゼントだもん、俺が一人で完成させることに意味があるんです」
 肉を叩く道具を半ば強引に取り上げられて、仕方なくオーストリアも手を下ろした。最近お財布事情が厳しいこともあって(それはお互い様なのでよく解る)イタリアが自作料理をプレゼントしたいと言ってきた時、確かに納得して頷いたオーストリアである。相手の思いを汲み取るなら、ここは素直に引き下がった方が良いのかもしれない。
「好きな人の為に持てる力の全てを奮うのがイタリア男の喜びなんですよ?」
「……お馬鹿。日頃からお頑張りなさい」
 仕事をしない口実に使われては堪ったものではない。笑い混じりに身を捻ると、素直にイタリアは凭れかかっていた体を離した。そのまま鍋の様子を確認しに行く背中をオーストリアは目だけで追う。
「分かりました。ならお任せしましたよ」
 やったあ、と無邪気に喜びながら再びテーブルに戻ってきたイタリアは、今度は魚介の入ったトレイを手にする。新鮮な海老にキスしながら告げる言葉こそ「任せてください〜」と自信ありげだが、口調のゆるさからは覇気など微塵も感じられない。……それがイタリアの美質なのだろうけれど。
「ていうか、オーストリアさんちの台所は昔から俺領みたいなものだしねぇ」
「それにはノーコメントで」
 肩を竦めたオーストリアは、食器棚からグラスを人数分取り出すとすぐに台所から退散した。この分なら実際大丈夫だろう。
 

 
 グラスと栓抜きを持ってオーストリアが応接室に入ると、ソファに腰を落ち着けた三人は部屋を後にした時と変わらず、思い思いの姿勢で寛いでくれているようだった。特に日本とハンガリーの間で話が弾んでいるようで、オーストリアには理解出来ない日本語の語彙を使っていると思しき会話の中、頬を紅潮させたハンガリーが「プチ」だとか「トルテ」だとか上擦った声で口にしている。
「いやああ萌えー!!」
「Moe?今甘いものを食べてはお夕食が入りませんよ」
「えっ!?あ、オーストリアさん、ありがとうございます!!」
 急にしどろもどろになったハンガリーが腰を浮かせようとするのを肩に手を置いて押し留め、彼女の隣、ドイツの正面の空いたスペースに座る。
「ごめんなさい、お手伝いもせずに……」
 必要以上に畏まる隣国の言葉に、今し方の自分とイタリアの応酬を思い出したオーストリアはくすりと笑った。
「いいえ。先日の事故への対応であなたも疲れているでしょう。わざわざ来てくれただけで嬉しいですよ」
「人ばかり扱き使って、自分は指揮棒より重いものを持たないような奴だからな。グラスを持ち運ぶくらいやらせて当然だ」
「まぁ失礼な。コントラバスを支えることもあります」
 日中プレゼント代わりと称して思い付く限りの力仕事を押し付けられたドイツは、汗の引いた今もぐったりと背凭れに寄りかかり、お気に入りのビールの力で機嫌直しに努めている。
 ハンガリーからのプレゼントは彼女の国内で醸造された甘口のトカイワインで、食事の伴にするには相応しくないそれを夕食を待つ間に味見してみようという話になったのだった。
「あなた好みのお味だと思いますよ。ワインは甘口がお好きでしょう?」
「と言いながら瓶と栓抜きを俺の前に置くな!」
「あ、私が開けますね」
 額に青筋を立てるドイツの隣、気遣いの国たる日本がすかさずフォローの手を入れて、ワイン瓶と栓抜きを自分の方に引き寄せる。
 特別なようで特別でない、自宅の一室でいつもの顔馴染みと過ごす穏やかな時間。百年程前までは当たり前だった、盛大だが中身のないパーティーの空騒ぎなどより、ずっと尊い時間だとオーストリアは思う。
 ……違和感なしにこのメンバーにこの日を祝われ、それを素直に喜ぶ時が来るとは、想像もしていなかった時期も過去にはあったけれど。
「スペインちゃんは結局来れないんですね」
「代わりに木箱いっぱいのトマトを送ってきましたから、イタリアがはりきっていましたよ」
「楽しみですね、イタリア君のお料理」
 誰もがにこにこと笑っていて、仏頂面だったドイツもつられたようにふと口元を緩める。その瞬間を目に焼き付けたオーストリアの心も温かいもので満たされた。
 日本がグラスを皆に配り、では乾杯ということになった。白ワインよりもずっと色の濃い琥珀色の液体が、機能的なリーデルのグラスの中で揺らいでいる。
 「おめでとう」の唱和に礼を述べてからグラスに口を付ければ、豊かな香りと共に貴腐ワインの濃厚な甘味が口の中に広がった。甘い甘いそれは、幸福の味そのものだ。
 1955年の10月26日。オーストリアは祝祭ムードに湧く国民達の姿を眺めながら、これからは一人きりで生きていくのだと心に決めた。
 何を気負っていたのだろうと、当時の自分の心境が今となっては可笑しいばかりだ。
「私は幸せ者ですね」
 オーストリアの洩らした一人言に同意して、皆が口々に祝福の言葉を述べた。
 

 
「……不法侵入ですよ、お馬鹿さん」
 ケセセ、という悪役めいた笑い声が神経を逆撫ですることこの上ない。ソファの上に行儀悪く寝転がり、ひらひらと手を振って家主を出迎えたプロイセンの悪怯れなさに、オーストリアは頭痛を覚えた。
 当然のような顔で寛いでいるが、オーストリアの記憶が確かなら(そうであるに決まっているが)さっきまではこのような不審人物などいなかった筈である。夜が更ける前にと辞去した他の客達を門の前まで送った、その僅かな時間に鍵のかかっていない玄関からこっそり忍び込んだに違いないが、人目を避けてこそこそ侵入する意味が全く解らない。
 この20年はドイツに引き摺られて何だかんだと文句を言いながらも毎年顔を見せていたが、今年は苦労性の隣国が申し訳なさそうな表情で、兄は急な腹痛で来れなくなったと歯切れの悪い口調で伝えてきた時点で諦めていた。そうでなくともオーストリアの晴れの日を素直に祝福してくれるような殊勝さからは程遠い男である。腹痛とやらも仮病ではないかと半ば決めてかかっていたが、平然を装いつつも脂汗の滲む蒼白い顔色を見る限りでは、具合が悪いという話もあながち嘘ではないらしい。
「あなたのことですから、どうせ道端に生っている果物を傷んでいるか確認もせずに食べたとかでしょう?賎しい真似をするから罰が当たるんです、情けない」
「ちげーよ馬鹿。うう、もう一生サラダなんか食わねぇ……」
「ビタミン不足になりますよ」
 何があったのか知らないが、腹部を手で押さえて苦しむ姿は可哀想に思えなくもない。表に放り出す気が失せてしまったオーストリアはソファの前に膝を着き、汗で湿った前髪をそっと掻き上げてやった。
「具合が悪いなら無理していらっしゃらなくても良かったのに。もう皆帰ってしまいましたよ」
「主役は遅れてやってくるもんだろ?」
「今日の主役は私です、お馬鹿」
 憎まれ口は健在のようでそこは安心だが、さてこれからどうしようかと、幼子をあやすように髪を撫でながらも密かに途方に暮れた。ちゃんと寝かせるにしても二階の客間まで成人男性一人を担いでいく腕力などオーストリアにはないし、自宅に帰らせるにしろこのまま居させるにしろ、ドイツを呼び戻した方が良いかもしれない。
 そんな困惑を知ってか知らずか、プロイセンはオーストリアの肩をいきなり掴むと、ぐいと上体を起こした。体重をかけられたオーストリアの方は、不意のことに前のめりに倒れそうになる。辛うじてソファの背凭れを支えにして病人への体当たりを免れたオーストリアは考えなしの狼藉者を睨み付けたが、そんな視線を平然と受け止めて、常と変わらぬ涼しい顔を無理に装ったプロイセンはニヨニヨと憎たらしい笑みを浮かべて見下ろしてくる。
「無理して来てやったんだから喜べよ。俺がいねーと坊っちゃんが寂しがるからな」
「……ええ、寂しいですよ。だから思う存分お祝いなさい」
「は?」
 自分から言い出した癖に目を剥いて心底驚いたように硬直するプロイセンが心底可笑しくて、オーストリアはささやかな逆襲気分を味わった。いつも私だけが振り回される役柄だなんて、そんなの不公平じゃないですか。
「祝ってください。あなたにお祝いしてもらいたいんです」
 自分の作り笑いをプロイセンが嫌っていることは知っていたから、敢えてにこりともせず眉間に皺寄せたまま凝と見据えた。
 好きで毎年顔を見せていたのではないと知っていたから、諦めようと思っていた。のこのこやってきて寝た子を起こすようなことをするプロイセンが悪いのだ。
 確かにオーストリアの体は誰の物にもなれないが、その誓いによって建前上は、何の影響からも自由であることを保証されている。力を失った、今や国ですらない相手を選ぶことなど昔の自分の立場なら到底不可能だったのだから、自分達の関係はこうなるべくしてなったのだと、他ならぬプロイセンこそが認め言祝がなくてどうするというのだ。
 腹痛だか葛藤だかに顔を顰めながらも絶句するプロイセンが可哀想になったが、今日だけは我儘を通しても構わないだろう。なんといっても一年で一日だけの特別な日なのだから。
「さあ、早くお言いなさい」
「〜〜ッ、ああもう!俺は納得したわけじゃねーかんな!」
 急かしてやれば、観念した…というよりは自棄に近いテンションで唸ったプロイセンは、目の前の恋人の上体を乱暴に引き寄せ、ぎゅうと抱き締めた。オーストリアの耳に吐息がかかり、僅かに顔を傾けた男がそっと耳元で囁く――
「ばーか」
 ……往生際が悪すぎる。
 二人の間ではすっかり使い古された、悪意など微塵も籠っていない笑い含みの悪態に思いの外本気でカチンときてしまったオーストリアは、もうどうしようもなくこの男と波長が合わないのだろう。
 消えない苛立ちは、癪なことに寄せ合った肌のぬくみにゆるゆると溶かされてしまう。馬鹿な恋人の背中を自分からも抱き締め返し、オーストリアは今年も「誕生日おめでとう」の言葉を諦めてやることにする。
 
 
 
 
 
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向こうのサイトでは10/26-28にかけて連載してました。
墺さんの方は過去を割り切ってるのに、普の方に今更結婚願望があったりすると凄く萌えるんですよね!という話。

余談ながら、普以外だと独伊洪がお祝い固定メンバーで、プラス日・ロマ・西が年によって来たり来なかったり、な設定でした。
で、英は花束とメッセージカードだけ送ってくるかんじで、仏は(敢えて)音信不通。瑞列は素直にお祝い出来ないお兄様に気を遣ったリヒが後日墺さんをお招きして、(誕生日祝いとは明言せず)三人でお食事することが恒例になってたりすると可愛いんですけど(´∀`*)