「ひとりでお休みなさい!」
 扉越しに強く言い聞かせれば、納得したか諦めたか、イタリアは「はい…」とか細い声で了承を返した。廊下から洩れる啜り泣きを聞けば胸が痛むが、自分の不注意の所為でイタリアに不名誉な噂が立つことがあってはならないし、オーストリア個人にも彼女を寝台に招けない事情がある。
「あーあ、イタちゃん可哀想になぁ」
 扉を離れ寝台の前に戻ったオーストリアは天蓋の蔭を覗き、最前から人の寝具で寛いでいるスペイン――まるで他人事のような顔をしている元凶をじっとりと睨め付けた。
「昨日は窓から突き落としたんやって?お前もお前やけどイタちゃんも昨日の今日でよぉ来るなぁ」
「ならあなたが添い寝してあげますか」
「手ぇ出してええの?重婚は許さへんのとちゃうんかったっけ」
「当然許しません」
 悪質な冗談を耳にして刺々しさを増した眼差しにも一向に臆さず、へらへらと笑みを浮かべたまま片肘を付いて上体を起こしたスペインは寝台の端に腰かけたオーストリアの肩を抱き、それこそ当然といった顔をして自分の方へと引き倒した。長い付き合いで伴侶の突拍子のない行動には慣れている。オーストリアも寝台の上に足を上げてしまい、動き易いよう一旦身を起こしてスペインの隣までにじり寄った。
「今までは一緒に寝てあげてたん?」
「まさか。……神聖ローマが去った淋しさから来る一時的なものでしょう」
「へー……妬けるなぁ」
「やはりイタリアが気になるのでしたら」
「ちゃうちゃう」
 眉を攣り上げるオーストリアを軽くいなし、ふと思いついたといった風に眼鏡の蔓に手を伸ばして、馴れた手付きでするりと外してしまう。眼鏡のない素顔を覗き込んでくるスペインに心中まで見透されるような不安を覚えたオーストリアは、緩く首を振って注がれる視線から逃れようとした。
 今でこそ優美さを褒めそやされたりもするが、眼鏡を外したオーストリア生来の顔立ちは地味で華のないものである。少しだけ輪郭が曖昧になる視界は心細さを煽り、自分が臆病で何の力もなかった幼い頃に戻ってしまったような気分に陥らせる。
「あの子には言っていませんが、神聖ローマが何故この家から出ていったのか、今でも私には判らないのです」
 目頭が熱くなるのが解ったが、オーストリアはもう運命に翻弄されているだけの幼い子供ではないので、イタリアのように素直に泣くことは出来ない。……その境涯からオーストリアを掬い上げた筈の神聖ローマは、自分達を残して行ってしまったが。
「彼は強くなりたいと願っていました。帝国の威信を強める為には皇帝家の権限を強化するしかないでしょう?私は何を間違ったんでしょうか」
「……アホやなあ。お前はなーんも間違うとらん」
 渾身の力でシーツを握り締める手を宥めるように、スペインの手がその上に重ねられた。大きさこそ変わらないが皮膚の硬さは武器を扱い慣れた武人のもので、温かな手に握り締められていると全てを委ねてしまいたくなる。涙を堪えられなくなるので止めて欲しい。
 もう片方の手で小さい子供にするようにオーストリアの頭を撫で、スペインは露になった額に口付けを落とした。
「お前の思う通りにしたらええやんか。俺が全面的にお前のこと支援したるから」
「スペイン……」
「大丈夫やって。反乱さえ鎮圧したらあいつもひょっこり帰ってくるよ。そしたらイタちゃんも喜んで万万歳の大団円や」
 楽観的なスペインの展望に素直に頷けはしなかったが、現金な程に軽くなる胸を押さえ、オーストリアは神聖ローマに背を向けられたことで自覚している以上に己が打ちのめされていたことをぼんやりと認識した。スペインと離れて暮らすことが決まった時、ブリュッセルで別れを惜しんだ記憶が甦る。あの時は互いの使命を果たす為には別居も仕方ないと納得していたが、離れたくないと自分の思いを告げていたなら、或いはこんな惨めな思いもせず、孤独に打ち拉がれることもなかったのだろうか。
 額だけでなく頬や目尻や鼻の先など数ヶ所に唇を押し当てた後、再びオーストリアの目を覗き込んだスペインは、ほんの少しだけ笑顔の種類を変えていた。
「俺に言わしたらな、お前のやり方は正直手緩いくらいやで?シュマルカルデンの連中にはカルロスも手を焼いとったやろ。お前が甘い顔して妥協ばっかするから、ああいう声ばっかり大きい手合いが余計図に乗んねん」
「あ、あなただってアラゴンお兄様には遠慮なさってるじゃないですか。神聖ローマ本人が言うならともかく、私の一存で他の皆の信仰にまで口を出すような権限はありません……」
「せやったらええ機会やん。神聖ローマが留守しとる間に俺らで全部片付けといたら」
 緑の瞳に宿る野心の色からは目を逸らし、オーストリアはスペインの肩に頭を凭せた。仕草に滲む甘えを喜ぶように、スペインもくたりと寄り掛かってくる伴侶の体を緩く抱き締めた。
「……あなたはオランダと妥協出来ないのですか」
「えー、俺は悪うないで?ロマーノともベルギーとも上手くいっとるもん。オランダの奴が我儘言うのがあかんねん」
「………なるほど」
 スペインの言うことにも一理あって、互いに妥協を重ねての共同生活に限界が来たからこそ、皆はこの家を離れたのだろう。更に我慢を重ねて譲歩したところで問題の全てが解決するとは限らない。契機はカルヴァン派の暴走だが、ルター派も、カトリック陣営も、諸邦一人一人の思惑はそれぞれに違い何処も一枚岩ではない。オーストリアは広い邸で一人きりになってしまったが、ハンガリーやイタリア達召使いだけでなく、隣にはまだスペインが居てくれる。ならば。
(……まだ手遅れではないんでしょうか?)
 利害を異にする他国である以上、スペインにも個人の思惑があることは知っている。先年のイギリスとの戦によって海上での絶対的優位性を失ったスペインは、財政難も重なってオランダの独立運動を抑えきれないでいる。イタリアから帝国内のライン河岸を経由するスペイン街道を確保しておかなければオランダどころかベルギーとの連絡にも支障を来す以上、帝国の混乱やオーストリアの衰退は陸上ルートを維持する為にはどうしても避けたいところだろう。
 オーストリアが帝国での地位を保っていれば、スペインも間接的に影響力を行使することが出来る。そんな思惑は理解しているが、他国の戦への直接介入は慢性的な財政難のスペインにとって利よりも負担の方が大きいことも事実である。血を同じくする上司を戴いた自分達は運命共同体であり、不安な夜は純然たる好意でもって、こうして抱き締めてくれもする。スペインは敵にならないと、それさえ信じられればオーストリアには充分だった。
「よしよし何も心配せんでええからな〜、俺がついとるからな〜」
「もうっ、子供扱いはやめてくださいお馬鹿!」
 こちらを侮っているとしか思えない口振りは本来なら不快になるべきもので、とるに足らないもののように扱われても許せるのは相手がスペインだからだ。
 
 
「そういやさっき思うたんやけど、お前って川の字で寝るいう発想が素でないんやなぁ。そんなに俺と二人っきりでイチャイチャしたかったん?」
「……悪いですか。あなたがこちらにお出での時くらい二人で過ごしても良いでしょう」
「全然悪ないで!!ほんまうちの嫁さんは可愛えわぁ〜!!」
 
 
 
 
 
倉庫に戻る

でも夫婦揃って負けました\(^o^)/
肝心のスペイン街道が速攻でプロテスタント陣営に封鎖されて加勢に行けなくなったり、漁夫の利狙いの仏とくんずほぐれつの大乱闘になって本国までヤバくなったり、三十年戦争の西は甲斐性なしキング。
そしてまだイタリアの性別を誤認しているうっかり墺さん。

親分の「全力でお前に加勢するからな!」がThe本1巻で端折られてることに全俺が泣いた。