当然であるが、イギリスが国内で行われる全ての処刑を見学することはない。戦時下にそんな暇はなく、そもそも一日に何人が死ぬのか数えるのも馬鹿馬鹿しい数の罪人が日々裁かれている。その中にどれだけの冤罪や理不尽が紛れていようと気に留めることはない。イギリスは己の国民を深く愛しているが、掌から零れ落ちる砂粒の一つ一つにまで愛を注ぐ余裕はない。
しかしその日イギリスは自国の勢力下にあるルーアンにいた。名もない庶民のような顔をして群衆に紛れ、簡素な柵に隔てられた女の死を見に行った。好奇心でも義務感でもない。
その見世物を一目見ようと集まった群衆は多く、一様に興奮を抑えられない面持ちでざわざわと知り合い同士で語り合っている。しかしふとした折に一抹の不安が滲む表情をイギリスは横目で観察し、彼らに対し憐憫の情を抱いた。いくら敵国人であっても、聖女を殺すのも魔女を殺すのも同じように恐ろしい。物慣れた聖職者は手筈通りの魔除けを行うだろうが、女が本物であると信じればこそ、いつ何時呪いが降り掛かってくるか解らないと怯えることになる。
女はまだ少女といって良い年齢であったが、イギリスはそのことに対しては憐憫を抱かなかった。自国の民ではないからだ。彼女とは幾度かまみえたことがある。確信に満ちた眼にそら恐ろしさを感じ、あまりにも堂々と神を語ることに軽侮を抱いた。捕らえられて以降の彼女は語気の荒さを失い、女物の服装も相俟って娘らしく大人しいものだった。静かな瞳に灯っていたのは絶望か諦めか消せぬ期待であったか、イギリスは知らない。慮る気もない。
煙がたなびいていく。
イギリスが知っているのは彼女の死を聞いたあの男が嘆き悲しむだろうことだった。味方の人間達に裏切られ、敵地で理不尽な死を孤独に迎えたのだとしても、あの男だけは彼女を悼む。彼女が男のことを深く愛していたからで、そして男にとっては彼女が愛しい国民の一人だからだ。あの国の王も重臣達も彼女を悼まないだろうが、国の化身だけはその例に入らない。
イギリスは自分が永劫に許されないことを知っている。死刑一つ止められない無力なあの男は、イギリスを憎むだろう。長すぎる生に纏わり付いてくるに違いない呪いは、しかしイギリスにとっては祝福であり解放でもあった。興奮と厳粛さの交差する刑場にあって、国の化身でありながら己が国民と乖離した穏やかな表情で、一人微笑みを浮かべる所以である。
長い長い年月を生きていかねばならないイギリスは、いつかはあの男からの愛を得られるかもしれないなどという儚く惨めな期待から、今後は一切解放されるのだ。これが祝福でなくて一体何だというのか。憎悪しか向けられていないと確信しているならば、わざわざその心を慮る気も起きまい。
炎は美しく邪悪で、まるでイギリスの恋のようであった。魔女を焼いた灰は形の残らぬよう川に流される慣例である。この感情も共に流され、跡形も残らなければ良い。