とっくに危険は去ったというのに、その女の人はわあわあと身も世もなく泣き叫んでいた。多分安心したからだろう。
泥に汚れた白い両手は、彼女を暴漢の魔手から救った機械鎧の腕に力一杯縋り付いて放さない。普段は子供扱いされることはあってもこんな風に頼られたことのない兄さんは、結構まんざらでもないみたいだった。
照れ隠しの仏頂面で、自由な左手で頬なんか掻きながら落ち着きなく視線を彷徨わせて。今し方半殺し…じゃないや八分殺しくらいにしちゃってる婦女暴行犯の成れの果てが転がってるのに目を留めて、容赦ない嫌悪感に顔を歪ませたのがボクからも見えた。
この街の憲兵に犯人を引き渡せば、この悪質だけどありふれた事件の後始末は終わりなんだけど、兄さんは被害者の女の人にしがみつかれてて動けない。だからボクもここから離れられない。兄さんが派手に暴れた騒ぎを聞きつけて、こっちから呼びに行かなくてもその内駆け付けて来るだろうから、ボクらはそれを待っている。
こんなに取り乱した女の人を置いていけないしね。憲兵さんに保護してもらって、鎮静剤を打ってもらわなきゃ。
女の人の化粧はとっくに剥げて涙の筋を作っている。あ、兄さんのコートにファンデーションが付いちゃってる。
それなりに整っていた犯人の人相が変わるどころか、人間の顔じゃないくらいにボコボコにのしても、兄さんはまだ殴り足りないといった表情で低く唸っている。
引き裂かれた洋服が、だけど元々肩や腕が完全に剥き出しになっているデザインなのに気付いてるボクは、男の生理からすれば変質者じゃなくてもクルものがあるよねぇ、とか密かに思ってる。
男の生理なんてボクには関係ないんだけど。
それだけで済ませておけば良かったんだろうけど、案の定見解の相違から口論になってしまった。
お前がそんな奴だと兄ちゃん思わなかった、最低!なんて叫んだ兄さんは宿を飛び出したまま帰って来ない。
ボクは自分から犯人の後をついていって危険に遭った女の人にも責任はないのかなぁと言ったのだけど、それに兄さんは烈火の如く怒った。
騙される側が悪いなんて法があるか!なら、お菓子に釣られて誘拐される子供をお前は責めるのか!?
ううん、だって小さい子は善悪の判断がまだつかないんだし。
だったら一緒だろ、危険が判らない点では。あの人だってまさか街中でナンパしてきた奴がゴーカン趣味の変質者なんて想像もしないじゃん。
でもいい大人なんだし、声を掛けられて簡単に人気のないところにまでついて行くからには、彼女自身も何か期待してたって受け取られても仕方なくない?
つい本音を洩らしたら、不潔!で最低!と来た。痛くないけど殴られたし。
少年らしい潔癖さっていうのかな、兄さんのは。
旅に出ると決心して、甘えを捨てて無理矢理大人になった。それはボクの目から見ても概ね事実なんだけど、世の中に絶対的な善と悪が存在するなんて、兄さんは時々本気で信じてる節がある。普通の少年の何倍もの体験をしてきて、色々割り切れない事物を目にしてきたにも関わらず。
そして兄さんはちょっと女性崇拝が強いというか、男性嫌悪性気味なんだよね。多分出ていった父さんのことがトラウマになってるんだろうけど。あんな男にはなりたくないと思ってるから、平気であの時も女役なんて出来るのかもしれないけど、その辺はボクにはよく判らない。
……えーと、出てってからどれくらい経ったっけ?
すぐに連れ戻しに行ってもムキになって帰らないだけだから、喧嘩をした時はほとぼりが冷める頃を見計らって迎えに行くことにしている。昔から兄さんもボクが膨れて飛び出した時はそうするし、これがボクら意地っ張り兄弟には一番合ったルール。
ここがイーストシティなら、東方司令部に顔を出すか大佐のアパルトマンに転がり込んでるから安心なんだけど、知り合いのいないこの街では兄さんに行くアテなんてないし。
暗くなる前に見付けなきゃね。治安があまり良くなさそうなのは昼間でわかったし。悪い大人が因縁なんてつけてきたら、余計な怪我人急増で病院は大忙しになる。
一般的には、家を飛び出してムシャクシャしてる男の人が行くのは酒場か娼館と相場が決まってるけど、酒場はともかくあんな理由で喧嘩した15歳の兄さんがまさか後者の場所に行く訳ない。未成年でお酒も飲めないし、お金持ちで悪ぶってるクセに悪所と縁がない人だよね。あっても困るけど。
どうせこの辺りの路地をうろうろしてるんだろうと見当を付けて、宿の近くを一巡りすることに決めた。兄さんだってほとぼりが冷めるのを待ってるんだろうから。
そもそも、ボク達には帰る家がない。
そろそろかな、頃合いを見計らってボクは宿の床から腰を上げる。兄さんがいる時はベッドに座るんだけど、本音では壊しちゃいそうで怖いから床の方が落ち着くんだよね。堅くても痛くないもん。
――ああ、正義感とか性差の問題じゃないのかな。ふと思いついた。
絶対悪の観念を手放さないのは、一方的にボクを巻き込んだという罪悪感?
誘拐された子供と同じで、あの頃のボクらに善悪の観念がちゃんと備わってたか、随分と心許ないのにね。兄さんの論理なら、不可能を可能であるかのように二人を誘惑した錬金術という名の悪魔に全ての罪業を押し付けたっていい筈なのに、自分だけはしっかり責任を背負い込んで。ホントに馬鹿だ。
ボクは自分で兄さんについて行くと決めたんだよ?
子供の頃は兄さんの言うことだけが絶対で世界の真実で、兄さんはいつだって正しいと思ってた。ボクの信仰を受けるのに相応しいくらい、当時の兄さんは天才だとしか言いようがなかった。
うん、あの頃は善悪も判らず兄さんについて行ってたけど、今は違う。
今のボクは何が正しくて何が間違ってるか自分で判断出来るし、それを実行に移せるだけの力だって大抵の場合備わってる。だけどボクはそんな価値観全部投げ捨てて、兄さんについて行くつもり。
兄さんが指し示すなら闇を光だと信じてみせるし、兄さんの一声があればボクは盗みだって人殺しだって平気でするかもしれない。軍の狗の弟だしね。
この決意は僕自身が下したもので、誰にだって兄さんにだって責任なんかない。
ボクの権利はボクだけが握ってて、それがボクの人間としての――辛うじて!――誇りなんだから。
なんか嫌ぁな気分だったのは、八つ当たりだったのかもしれないね。泣いたら兄さんに慰めて貰えることに嫉妬して。
怖い思いをしたあの人に悪いよね。この場合全然境遇が違うんだし、自分勝手に投影された方は大迷惑。届かないけどごめんなさい、今日初めて会って明日から二度と出会わない人へ心の中で謝った。
そもそもは兄さんを犯罪者扱いするような仮定が間違ってる。だって兄さんは正義の人だもの。
見付けた兄さんには伝えたいこと全部呑み込んで、「捜しちゃった」とだけ言うつもり。
そして照れ臭そうに苦笑して赤いコートを翻す背中を、どこまでも追いかけるんだ。
うん、じゃあね。行ってきまーす。