“彼女”とディナーを共にするのは二度目だったが、恋人と過ごす時間が概ねそうであるように、和やかな会話と美味な食事はマスタングを楽しませるに充分だった。
尤も、共に舌鼓を打つべき相手は食事の出来ない特殊な事情を抱えているので、テーブルを彩る繊細な料理の数々は見張りと称して同道した兄の腹中に納まったのではあったが。保護者同伴のデートなど聞いたことがない、と口では不平を鳴らしていたが、自分らの関係を兄妹と言い張る二人を見守るマスタングの表情は穏やかである。
仲介役で妨害役のその兄は、宿までマスタングが“妹”を送り届けた後「ちょっとその辺散歩してくる」と言い残し、今は何故だか隣を歩いている。
それを振り切って真直ぐ帰路につくのは何となしに憚られ、歩調を合わせて目的もなくぶらついていれば、どちらがついてきたのやら自覚も有耶無耶になる。とりたてて話す用があった訳でなく、実際先程から言葉を交わすことなく好き勝手に歩いているだけだったが、二人ともそれを不自然とは思っていなかった。
「……さんきゅ」
静寂に落とされた少年の呟きを、マスタングははじめ独り言だと思った。音もなく波紋が水面に広がるように、それが自分に向けての言葉と漸う気付いたマスタングは、半信半疑で傍らのエドワードに顔を向ける。
自分の目線の高さからは頭頂と、歩調に合わせて上下に跳ねる三つ編みが見えるだけで、少年の顔は覗けない。
普段からこうだったかと疑問に思い、隣を歩く距離が近すぎるからだと見下ろす首の違和感に得心した。前方を向いたままの少年が何処を見ているのか、この位置からは定かでない。
「アルはかなり喜んでた。あの体になってからアイツ、人並みに親切にされたり気遣われたりって少ないから」
「当事者の問題だよ。君に礼を言われる筋合いはない」
既に本人の弾む声で、丁寧な礼の言葉は頂いている。僅かに怪訝な響きを帯びていたのは、兄が言うような事情を鑑みれば当然だったろうが。
「私は全ての女性にとっての味方だからね」
マスタングの言に、少年は吹き出したようだった。肩が揺れている。
「すっげ、らしー言い様」
「私の人生哲学が君にも伝わっていたようで重畳だよ」
イーストシティ辺りなら気候は温帯に属しているが、セントラルに比すればそれでも昼夜の寒暖の差は大きい。風が強くなってきたのに肌寒さを感じて、マスタングはコートの襟を掻き合わせた。ついでに横目で、少年がいつものコートを着ていることを確認する。
鮮烈な筈の赤のコートは闇色に沈んでいて、その色に子供がガス灯もない路地を一人帰るだろうことへの不安が、ふと掻き立てられた。
馬鹿らしい、この付近は軍の管轄下にある施設が点在することもあって治安は比較的良い。そもそも彼は子供である前に国家錬金術師で、自分の身を充分以上に守れる男だというのに。軍内での後見人だからといって、そんなことまで気遣う必要も義理もない。
「なぁアンタ、アルが妹だってどこまで信じてる?」
マスタングの感じている寒さを知らないように、エドワードはコートを風に靡かせて平然と前を向いている。子供は風の子たる箴言を、地で実践していると言うべきか。
「それは勿論」
半ばで途切れた続きを追って、少年が初めて顔を上げた。
「現状が実証困難ならば、なるべく楽しい想像をしたいじゃないか」
どうせ中は空っぽなのだから、何を想像したところで同じだろう。鋼鉄の鎧を開ければ呪われたお姫さまが入っていると考える方が、人生に潤いが得られるというもの。
「ふぅん、気楽なもんだな」
「君が“彼女”の為に求めているのは、正しくそれではないかね?」
さしずめその兄は呪いを解くのに必死な王子。気難しい王子を揶揄すれば、怒り出すだろうとの此方の予想に反して、相手は益々笑いを誘われたようだった。
「……ああ、そっか」
肩を揺らして、くつくつと声を立てる。思えば、彼にとっては発端からお膳立てまで、全てが茶番なのだった。何を言ったところで笑い話に聞こえたとしても仕方ない。
「オレじゃあ、それだけは与えてやれねーよなぁ……」
――嘆息が涙と悲しみに彩られていたなら。マスタングは鋼の錬金術師が後向きになった常のように叱咤し突き放し、この時も冷酷な大人の役柄を全うしていたと断言出来る。
しかし、笑い混じりの少年はあっさりと、明日の天気を話す調子で絶望を口にした。
おそらくは、それを絶望と自覚していなかったのだろう。であれば、どう相対すれば良いのか。食えない筈の大人は、柄にもなく狼狽えた。
風を孕んだ闇色のコートが、生き物のように一際大きく波打った。
小麦畑のように騒めく黄金がぴしりと彼の顔を打ち付け、白い左手が乱れた前髪を押さえて、鬱陶しそうに後ろへと払った。
くっきりと見えたのは何故だったろうか。
通り過ぎる自動車もない静寂だった。民家の窓から一瞬、暖かな灯りが漏れ出ていたのかもしれない。目を見開いたマスタングが我に返った時、もう全ては明度を落としていたから。
目に塵が入らないよう少年が俯いた所為で、それでも白い項がよく見えた。
小麦畑の騒めきが、幻聴のように耳に残る。或いはこれはコートの音か。
意識を奪われたまま、マスタングは長い髪と細い首を凝視する。
今、隣を歩むのが金髪の少女であったなら、そうすれば――。
「大佐?」
「……ああ、寒くはないかね?」
言った瞬間後悔した。自分らしくもない。エドワードもそう思ったのか、馬鹿な質問に返答はなかった。
そうだ、馬鹿な妄想をした。今目の前にいるのは幾ら小さかろうが十代半ばの少年で、彼はしなやかな強靭さを持っている。鎧の中身を思い描くよりタチの悪い冗談だ。
「じゃ、オレ帰るわ」
この少年は口を開けば唐突だ。マスタングは再び目を四方に転ずる。好ましかった静謐は、別れを切り出されれば一転、寂しいものに感じられた。
「なに?一人で帰るのが怖いんなら送ってってやろうか?」
「余計なお世話だ」
揶揄するエドワードに憮然と返せば、可笑しくて仕様がないと笑われる。全く、大人をなんだと思っているのか。
「御馳走さんって言いたかっただけだからさ」
「まだ言って貰えてない気がするが?」
「言ったじゃん、今」
最後まで笑いながら、未練なく踵を鳴らして背を向けた。
「次の食事はいつにする?」
「明日の汽車で北の方に行く。いつ来れるか分かんないから、約束はしない」
未練たらしく声を掛けたマスタングに振り返りもせず、少年は右手を上げて挨拶に代える。
後を追いたい衝動に駆られ、しかしマスタングは足を動かせないまま手を伸ばしただけだった。所在なげに、手袋に覆われた指先が宙を撫でる。エドワードはそれに気付かない。
弟以上に慰めを求めているのは彼だと思ったが、或いはそれは願望で、一番温もりを必要と感じているのはマスタング自身であるかもしれなかった。
「……おやすみ」
「おやすみー」
威風堂々と迷いない足取りで、三つ編みを揺らしながら少年は去る。
全景は見えても顔だけはやはり見えないままだと思いながら。
小柄な姿が闇に溶けて消え失せた後も、マスタングは帰るのを忘れて立ち尽くしていた。
風の冷たい夜だった。