「なあ、アンタ見合いするんだって?」


「―――――何処でそれを聞いた?」


三十代半ばにして軍内で一大派閥を形成する、国家重鎮ロイ・マスタング少将。彼が大量の苦虫を一時に噛み潰した表情をしたのは、部下から齎された報告内容が厄介なものだったからでも文字通り虫が口に入ったからでも、ましてや心を落ち着ける為に口に含んだコーヒーが苦かったからでもなかった。部下の一人が淹れて置いていった泥のような液体は、確かに煮詰まりすぎて頗る苦かったのではあるが。
「この扉を開けた先では噂してない奴いないよ?」
やっぱみんな上司の一大事が気になるんだねー。
のんびりと独白(勿論マスタングに聞かせることが真の目的だ!)しつつ、重厚な執務机の上に平然と腰掛ける青年は、ぶらぶらと伸びた脚を左右交互に揺らしている。以前ならよじ登るにも一苦労した高さの机は、めでたく壁から椅子へと昇格したらしい。
背や髪が伸びたのと正比例するようにエドワード・エルリックの傲顔不遜な態度も、強固な縦割り社会に属しているにも関わらずここ数年で益々磨きがかかりつつある気がする。しかし彼の人体錬成の次には念願だった身長のことなど、私の方から話題になどしてやるものか!
というか井戸端会議以外することがないくらい、軍はそんなに暇な組織なのか。だとしたら私の机に山積みの書類は幻なんだなそうだろう。
腹が立ったので取り敢えずハボック減給決定、理由はコーヒーが不味かったから。
「なーんかオカシイと思ったんだよなぁ、直属でもない俺に、突然厄介な調査を押し付けてきた時には」
平静を装いつつも憮然と眉を寄せる上官がそんなに面白いのか、鋼の錬金術師はニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべた。
マスタングの読みでは、調査を命じられた部下は一ヵ月はセントラルへ戻って来ない予定だった。半分以下の期日で報告書を携えて帰還した彼が机を椅子代わりにしている今の状況は、不敗の将と名高いマスタングの完全なる敗北を意味している。拙速とか余計な知識を伝授するのではなかったと歯噛みしても、後悔するには時既に遅し。
「で、受けるんだろ?」
「会ってみなければ分からないな」
「うっわムカツク」
台詞とは反対にけらけらと笑い転げながら、エドワードはバタバタと脚を振り回した。上等の机に傷や泥が付く過程を、マスタングは絶望的な表情で見守った。
「こーゆー政治の絡んだ見合いって、話がセッティングされた時点で内実は纏まってるんだろ?相手は軍需関係の財閥令嬢だっけ?」
「……孫娘だ」
面倒な相手を追い払っている間に全てを終わらす計画は、既に水泡に帰して久しい。受け入れがたい現実をようやく受け止め、マスタングは唇を尖らせた。三十路の男がやっても全く可愛くない。
「私は政略結婚も辞さない、そんな権力欲の塊に見えるかね」
「ううん、本気で結婚したいんじゃないかと思って」
てっきり肯定してくると思っていた薄情者は、余りにもあんまりなことを言ってきた。
「何だって?」
「使う気ならもっと早い段階で使ってても怪訝しくねーもん。佐官で頭打ちになってた時期とか。ここまで独力で昇ってきて、今更閨閥の力利用しようとするアンタじゃないだろ?」
嘲笑でも見せてくれれば良いものを、妙に生真面目な表情で彼は上司を随分と買い被っている事実を表明した。
こんな時でないと耳にすることもなかっただろう信頼に、マスタングは瞠目して不遜な部下を注視する。
「理由はひとつ。十六歳の美人令嬢にクラリときただけ、じゃねえの?」
 
「………………は?」
そのシリアスな表情のまま、エドワード・エルリックは上司の鼻先に指を突き付けてきた。取り敢えず目を点にした中年の様子は一切忖度しない心積もりらしい。
「政略結婚でもしなけりゃ十代の嫁さん貰えないもんなロリコン中年?」


あんまりだ。


「オレが育って可愛くなくなったからなぁ?」
口元はニヤニヤと嫌なかんじの笑みを浮かべているが、眼差しが冷ややかに過ぎる。大体こういうのは相手がいなければ成立しないもので連帯責任の同罪だというのに自分一人断罪者のつもりで図々しいのではないかというよりどこでそんな笑い方習ったんだそんなのまで私は教えた覚えはないぞ。
正しく日頃の自分の行いを棚に上げ、半パニックで悲憤慷慨のマスタング。
「……かつて君が可愛かった時期など一度たりとてなかったように記憶しているがね?」
揶揄するように首を傾げてくる、二十一にもなって愛らしいままの情人に対する殺意を、マスタングは辛うじて抑え込むのに成功した。
見当外れとしか思えない言い掛かりは、本心の一端を僅かに擦っていないこともないだけに、(だって幼な妻は男の永遠のロマンだろう?)余計に憎たらしいことこの上ない。
「じゃな、結婚式には美味いモン食わせろよ」
言うだけ言って満足したものか、勝利の快感に気分を良くしているエドワードは滅多に見られぬ笑顔を振り撒きながら話を切り上げようとした。
全く、何時の間に卑怯臭い大人の笑みを覚えたのか。マスタングが不愉快に思ったのは何に起因するものか、とはいえ自己嫌悪を抱かないでもないのだ。
本来なら彼とて一研究所を切り盛りする多忙の身、それを根無し草の頃と同じに調査だ報告だと事あるごと拘束しているのは、職権をたてにしたマスタングの一方的な我儘ではある。
己が無様を承知していればこそ
「待ちたまえ」
とは言わなかった。
口で引き止めるでなく。
勢いを付けて机から飛び降りようとしている青年の、今将に浮き上がらんとする腰に腕を回して。
万年筆を捨てた右手で細身の腕を掴み、素早く引きずり寄せた。
「うわ…ッ!ぶね……」
マスタングの座る決して安価でない椅子が、突如加わった重力に軋んだ抗議の音を洩らす。
体重を掛けるに至ったエドワード自身、大いに現状に対する不満の表情。涼しい顔のマスタングにしがみついた体勢のまま恐々と、散乱する机上や倒れたインク壺、床の上に滑り落ちた書類諸々へと視線を彷徨わせた。
例えば有能な副官なら呼吸よりも先に行うであろう、書類を拾い集めたりといった作業を全くする様子がない。のは、家庭的な母親や世話焼きの弟に常に庇護されてきた生い立ちや、正式に軍務に就くでない浮き世離れした普段の研究生活を考えれば、寧ろらしくて微笑ましさを誘われる。
「ってああッ!?オレの報告書!!」
机上の惨状に対する他人事感を漂わせていた彼も、流石に零れたインクを吸って黒色に変化しつつある提出書類に気付いた時ばかりは、悲痛に叫んで腕を伸ばそうとした。
向き合う、というより抱き合う姿勢を保つべく上体を捻ろうとするその動きを阻止し、マスタングは敵の腕ごと抱え込むように拘束する。
「余所見とは感心しないな」
「…ッだああ!アンタもう訳わかんないから!病院行って脳診て貰うべきだから!!」
「休暇ならもっと良い所に連れていってあげるから辛抱しなさい」
「……人間の言葉を話してクダサイ……」
失礼にも半泣きの青年をあやすように抱き直し、マスタングはくつくつと喉を震わせた。
「生憎と私の理想は高くてね。お仕着せの花嫁では満足には程遠いのだよ」
「何の関係が……へ?」
怒りを忘れ、きょとんと目を見開いて見上げてくる。エドワードの野性の獣にも似た鋭い眼差しを愛していたが、あどけない表情も可愛いなと思い、そんな自分に呆れ笑いが込み上げた。
「つまりだ。理想の花嫁が私の前に現れるまで、かわいい愛人のお役御免は当分有り得ないということだよ、鋼の」
視線を合わせて断言すれば、ぽかんとした表情のまま気圧されたように頷くから、知らず安堵の息が洩れた。反射だろうが何だろうが、一旦言質さえ取れれば幾らでも言い負かせると、数限りない攻防の果てに把握した。
「君の耳に入るまでに潰しておこうと思ったのに、とんだ番狂わせだったよ」
マスタングが肩を竦めればようやく我に返ったか、青年は少年のままの拗ねた表情で、ウロウロと目線を泳がした。
「……俺が悪いみたいな言い方すんじゃねえよ」
「実際君が悪いんだから仕方ない」
「言ってろ悪党」
折角だから会うだけ会って、露見する前に隠滅を謀ろうとしていた計画は伏せておく。
仕方ない、幾つになっても変わらず可愛い彼を手放す可能性と天秤に掛ければ、見合い自体を白紙に戻すしかあるまい。何かを得ようとすれば同等の何かを失う、マスタングのよく知る等価交換の理である。
「しゃーねーなぁ、エリシアが十六になるまでは相手しといてやるよ」
抵抗せず腕の中に収まってくれている愛人が、男の密かな落胆も知らずに笑う。
まあいいかと思考を切り替え、書類の再提出に託けて呼び出す用事が作れたと、姑息な計算を頭の片隅で張り巡らせ。
マスタングは仕事と部屋の片付けと副官の銃口を敢えて忘れたふりで、目の前の温みだけに意識を専念させることにした。
 
 
 
 
 
 
……上手く騙してやったと中年はほくそ笑んでいるだろうが。
 
甘える素振りで軍服の肩に頭を凭せつつ、エドワードは表情が露見しないよう巧妙に男から顔を隠した。どうせ見られても照れ隠しと思われるのがオチで、まさか嫌悪のそれとは気付かれやしないだろう。
小さく、今度は自己嫌悪の息を吐く。
切り上げるタイミングをまた間違えてしまったことに、心底から呆れ果てている。落ち込むくらい個人の自由だろう。
良くも悪くも話題性に富むマスタング少将の見合い話など、黙っていても方々から耳に届いてくる。早い段階で、それこそ正式な申し入れがなされる以前から。周囲に口封じもせず可能性に全く気付かないとは、間抜けとしか言い様がないだろう、普段は鬱陶しいくらい自意識過剰な割に。
おまけにそそくさと不自然な調査命令と来れば意図が判らない方が不自然で、エドワードとてこれ幸いと旅立った筈だった。これで縁が切れると清々し、一人汽車の中で含み笑いをして他の乗客に気味悪がられた程だったのに。
つくづく仕事の早い、自分の有能さが恨めしい。
「……違うか」
「ん?どうした」
「べっつにー」
やはりそれなりに、……居ても立ってもいられない程度には気にしていて、認めたくはないが急いだのだと思う。とっとと仕事終わらせてあのニヤケ面が神妙な顔して令嬢と食事する様子を陰から観察してやろうと考え、セントラルに帰還すればどうせなら揶揄い倒してやろうと気が変わり………。ああ知ってるさ全部言い訳だよ。畜生。
進んで人生台無しにすることないのになぁ、俺も。
ほら、今だって甘やかそうとする体温を突き飛ばすタイミングを計っている。いち、に、さん。
あと十秒。
そしたら帰るべき場所へ帰るんだ。絶対。



                                  ――――でも何処へ?
 
 
 
 
 
 
 
 
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