黒塗りの軍用車が停車した時、何度目かの現場検証に駆り出されていた黒服の憲兵達は、皆一様にうんざりとした表情を見せた。
天候まで憂欝に重たげな曇天で、気分の滅入るような職務が尚更疎ましくなってくる……天を仰いだ青年も舌打ちした中年も小さく首を振った初老の男も、しかし後部座席から降り立つ青い軍服の二人には目を見開くことになった。
滑るような動作で先に下車したのは怜悧な印象を与える金髪の美女、彼女がドアを支え悠々と、黒髪の男が磨き込まれた軍靴の底で石畳を踏み付ける。
中肉中背、軍隊の中では頼りなくすら映る体躯にも関わらず、その軍人が冷やかに現場を一瞥した途端、この場の空気は彼によって制圧された。暗雲をさっと払い除けるような晴天の鮮青。沈黙。
重々しくも威圧感漂う軍の車を乗り回せるような階級の軍人は、そもそもこのような地方都市の支部では片手で数えても指が余る。視察の予定があったとは聞いていなかったが部外者、蓋し暇を持て余した高級士官辺りが『事件』への好奇心から赴いたのであろうとの憶測は各々の脳裏にて直ちに撤回された。
その士官がロイ・マスタングであるからだ。
「捜査責任者は」
容姿に相応しい凛とした声音で、女性士官――マスタング少将の片腕と名高いリザ・ホークアイ大尉と思われる――が告げ、慌てて唯一現場で青い軍服を纏っていた中年士官が駆け寄った。自分よりもやや年下で遥かに位高い上官へと、ぴしりと気張った敬礼を向ける。
「ジョン・スミス中尉であります!」
「中央司令部のマスタングだ」
名乗った声は別段大きなものではなかったが、二十人そこそこの耳に届くには充分な声量を持っていた。矢張りと納得した一同にマスタング少将の顔を見知っている者は皆無であったが、白手袋に描かれた錬成陣を見ずとも、将官の階級章と少壮の年齢のギャップだけで容易に焔の錬金術師と見分けられる。
二十数対の瞳からの仰視を全く気にも留めないマスタング少将は、興味深げに周囲をきょろきょろと見回すと、立入禁止のロープを乗り越えずかずかと狭い路地、作業の真っ只中へと踏み込んでいく。
自分は踏み跨がず上官の背を見送ったホークアイは、密かに柳眉を顰めて溜息を零した。
間近でイシュヴァールの英雄を目にし、剰え行く手を阻まぬ為その場から飛び退くことになった憲兵達は仰天するばかりで、女性士官の表情にまで注目するゆとりはない。自己紹介をする間もなかったスミス中尉も、意気揚々とはりきって少将どのの後を追い掛けた。
「このチョークで囲ったところが被害者の位置だな?」
「は、はいっ!」
「被害者…と仮に呼びますが、壁にもたれかかるようにして座り込んだ状態で発見されました。なお……」
確認を求められた若い憲兵を押し退けるように説明を始めた中尉は、
「ああ、今はいい」
無情にもマスタング少将によって言葉を遮られる。
「そうですか……」
「先に被害者の収容されている軍病院を見に行く。その後司令部に立ち寄るので、貴官が帰還していれば詳細な説明を聞かせて貰いたい」
「はッ!喜んで!」
速攻で立ち直ったスミス中尉は、道中の案内係として若い憲兵を一人付けた。
本音では自分が買って出たかったところだろうが、責任者の彼にはこれから作業を指揮し、速やかに撤収するという任務がある。
どうせ発覚から一週間も経ってるし何度目かの検証だし、さっさと終わらせるべし!
黒い煙を吐いて走り去る軍用車を見送りながら、スミス中尉は良いところを見せ覚えめでたくなり出世……拳を握り締め獲らぬ狸の皮算用プランを膨らませていたが、バレバレのそれを部下達から生暖かい目で見下されているとは、全く気付きもしていない。
そもそもイシュヴァールの英雄は麗しき女性ならぬ初対面の野郎など名前すら覚える気もないのだがこの場合、憲兵達には上司の下心は推察出来てもマスタングが彼ら以上に憂欝そうにしていたことや、ましてや『事件』の真相など見当もついていない。
軍立というより公立とでも表した方が相応しいこぢんまりとした病院の地下で、マスタングは青年の遺体に対面した。
「身元は照会中ですが、少なくともこの街の人間ではありません。範囲を拡大しようにも、どこまで絞って良いものやら……」
指揮官が知れば説明役を奪われたと憤慨したかもしれないが、此処まで案内してきた若い憲兵が話すのに対し、マスタングは黙って頷いた。
「死亡時期が特定出来ないからか」
「はい」
上官の傍で影のように控えていたホークアイが、すっと離れて白衣の医者に耳打ちする。心得たように監察担当医は遺体を覆っていた白い布を取り去った。
柔和さの滲む青年の姿が現れる。
妙に安らかな表情は眠っているだけのようにも見えるが、蒼白を越えて土気色した顔色は明らかに生者のものではない。
「瞳の色は茶、御覧の通り髪の色は亜麻色。年齢は二十歳前後。血液型A型」
医師は淡々と記載事項を読み上げた。
「目に見える外傷無し。血液は下半身と脚の裏側に凝固していました。発見時の姿勢と一致しますが、姿勢を変えないようにして他の場所から運ばれてきた可能性も否定出来ません。
そもそも他殺か自然死か、事件性の有無については判断保留状態、と申し述べておきます」
「成程」
鷹揚にマスタングは相槌を打つ。
「こちらを御覧下さい」
薄い反応に頓着することもなく、同じく事務的な気配を滲ませた医師は、荷物でも持つ無造作で死体の右腕を持ち上げた。
軍人は死体を生産するのが本分の職業なので、眉を顰める者は一人とてこの場にいない。医師に促されるまま哀れな青年の骸に近付いた。
「内側の肉に、腐敗が進行しております」
二の腕の内側の柔らかい部分を示す。
黒ずんだその箇所はぐずぐずに溶解し、黄色い脂肪や白い骨が露出している。先程から微かに漂っていたつんと酸味の強い刺激臭が、俄に強くなったように見る者は錯覚した。
「腐敗状態を考慮するに、遅くとも三か月前には殺害され、先週になって遺棄されたと考えられます。が、……こちらを御覧頂ければ判りますが」
言い淀む医師は、しかし手つきだけは滑らかに遺体の腕を引っ繰り返す。
凄惨な腐乱死体が一転、白蝋のような腕が現れた。
「半面だけ腐敗進行を遅らせたというより、発見の数日前までは生体反応があったようです。他の組織も調査しましたが、いずれも腐敗が始まったと見られる時期はまちまちでした」
腕を下ろすと、困惑を隠さず肩を竦める。
「こんな事例は見たことがりません。死亡時期の特定は事実上不可能です」
既に聞かされていたのか、若い憲兵は気持ち悪そうに顔を顰めただけである。不気味であるし、雲を掴むような話で捜査の仕様もないというのが彼の感想だった。
そんな関係者は兎も角、初めて聞かされたマスタングとホークアイもまた、驚く事無く淡々としている。
この段になって、憲兵は有能さや頭の回転では片付けられない、マスタングの飲み込みの良さに気付いた。動く死者を思わせる異常な話に、自分達支部の人間は何度も監察結果を聞き返したというのに。
加えて、中央の将官が異常な状況とはいえ地方の一事件に関わろうとする不自然さ。
「同様の事件が今までに三件確認されている」
不審さを取り繕う訳でもなかろうが、独白のような調子でマスタングは切り出した。
「っ、え……」
「三年前、二年七ヵ月前、一年と一ヵ月前。同一犯による殺害事件と考えられています。被害者は共通して、十代後半から二十代前半までの男性」
ホークアイも承知らしく、メモの類も無しに上官の言を補足する。
新聞やラジオで見聞きした記憶はないが、詳しい情報が伏せられ死体遺棄とだけ記されれば、それこそ毎日のように全国で起こっている同様の事件に埋没してしまうだろう。覚えが無くとも不思議でない。
「――一連の事件は全て私の管轄下に置かれている。本件もいずれ捜査の引き継ぎが中央から通達されるだろうが、資料の提出および協力の要請があれば快く従って貰いたい」
「はッ」
表現は柔らかいが有無を言わせぬ一瞥を寄越すマスタングに対し、軍に所属する医師は硬い声と共に軍隊式の敬礼を返した。つられて憲兵も背筋を伸ばし、身体に叩き込まれた敬意の表現を半ば無意識に行う。
それを無感動な表情で受け、若き将校は僅かに唇を曲げ傍らの副官に目配せした。
心得たホークアイは辞去の意を告げ、労いと幾許かの事務的な指示を通達する。
「あの、これから支部へはお立ち寄りに……?」
「少将にはスケジュールの都合上、時間に制限がおありになる。支部の協力には感謝するがこのまま中央に帰還する旨、貴官から報告を」
「は、はぁ……」
うちの中尉がさぞ落胆するだろうと曖昧に頷いた憲兵の横顔を、早々に背を向けていた筈のマスタングがちらと振り返っていたようにも思えたが、彼自身はそれを気にも留めていなかった。
怪異な事件も戦火の英雄も手妻のような錬金術も、地方都市のしがない憲兵には認識も及ばない別世界の話に過ぎず、同じ場に立っていようとも上官のように中央高官に取り入ろうという発想すら浮かばない。
手に負えないことに関わる利はないと好奇心を封じる黒服の傍観者の思考を、彼の世界から締め出された錬金術師が知れば賢い処世だと賞賛したかもしれない。本心はさて措いて。
病院関係者の見送りをやんわりと拒絶して、一足先に安置室を出た上官の後を追ったホークアイはやや薄暗い地下の廊下でその背に追い付いた。左右には無機質なモルタルの白壁が続いている。
「……彼らはまだこの近隣にいると思うかね」
硬質な軍靴の足音で部下の存在を知り得ているマスタングは、背後を顧みぬまま問い掛けた。
「事件発覚からも七日経っております。彼らが鉄道を利用したなら、足取りを追うことはかなり困難かと」
「そうだな、君は正しい」
「一応乗客名簿を確認させますか」
「そうだな……」
有能な部下の提案に、何処か自嘲的に頷き同意する。そんなマスタングを痛ましいとホークアイは思う。
「顔を検分したのは初めてなので、私も少々狼狽えているんだ」
肩を竦めた動作が焦燥の表現で有り得る実例を軍人は見せた。ホークアイは上官の言に対して沈黙を選択する。彼女自身と同じかそれ以上に、上官は傷付いているように見えた。
かつて彼らはセントラルの近郊と言えるような街で“着替え”を行ったことがなかった。尤も正確な統計を弾き出すには前提となる母数が少なすぎ、しかしデータを得る為に看過するのでは本末転倒という類の話だったが。
「軍の捜査能力を侮っているのかな」
或いは、ある程度事情を知る自分達の存在を忘れ去っているか。前者であればまだしもだとマスタングは切望する。
何時の間にあの兄弟との道が別たれていたのか、彼らの焦燥と絶望を察知し理解出来なかった報いがこれだとすれば、随分と手酷い罰だろう。
二人は降りる際にも使った階段を登る。見上げる階上は地下のように灯も点いておらず、曇天の所為で逆に薄暗くさえ感じる。
「少将……この先では口をつぐんだ方が」
「固有名詞は使っていない、どうせ誰も聞いとらんよ。構うまい」
「……はい」
「大尉」
登った先は一般の病院施設で、大きくない街で民間の医療機関も兼ねる証左のように待合室では咳き込む老婆など数人の患者が長椅子に座っている。
「私はどうしても見過ごす訳にはいかない」
「私も……口惜しいと思っています」
マスタングは情に厚い副官を初めて振り返り、硬質な黒瞳を柔らかに細めて微笑した。
「止めてやれるのは私しかいないと考える自体が傲慢な思い込みなのかもしれないが」
足早に待合室を抜ける。見慣れぬ軍服の青に、民間人達は一様に畏怖と忌避の混じった驚きを向けてくるが、慣れている二人は一顧だにしない。
「大尉……、私は勝手に幸せを手に入れた彼らが憎くて羨ましくてならないんだ」
硝子の嵌め込まれた正面の扉を開けば、セントラルから乗ってきた軍用車が玄関先に横付けされたままである。それを避けるように、金髪の髪をなびかせて十歳程の子供達が、手を繋いで笑いながら駈けていった。きらきらと光の残像を撒き散らすように朗らかな笑顔、姉弟に見える二人をマスタングは何とはなしに目で追う。
遠くない拒絶反応と人を殺める苦痛に怯えてでも、彼らは刹那、温かい手を繋ぐことを求めた。その葛藤の全てをマスタングは理解することが出来ないし、彼らの罪悪感とて既に摩耗しているかもしれなかった。
察することが出来るのは、どことなく似通ったデスマスクに残る面影だけである。
類い希なる地位を得ながら無力であり続ける男は、無意識に乾いた下唇をゆっくりと舐めた。寧ろ己に言い聞かせる調子で呟く。
「追い掛けて引きずり下ろしてやるさ、その内にね」
アニハガでダンテさんとホーエンパパが対峙してた頃にぼんやりと思いつき、PS2の赤きエリクシルで増田が、兄弟が誤った道に進んだら「止めてやる」とか言ってたので、結果こんなかんじに。
中盤までは正月前後に書いてた筈が、……もうこのままお蔵入りかと思ったよママン……。
前半のスミス中尉はこれでも三回くらい名前が変わったのですが、チョイ役のオリキャラの名前を何故こんな一生懸命考えなくちゃならないんだと逆ギレして(死)、いっそギャグか偽名としか思えないジョン・スミス。
取り敢えず増田はフラレとけ、と。