一日の終わりには一杯のブランデーを。その程度、高級士官としてはささやかに過ぎる贅沢だろう。
戯れにグラスを揺らせば、氷が硝子にぶつかり澄んだ音色を奏でる。
「オレ、早く帰りたいんだけど」
一口。
官舎の出来合いの氷なのが残念だが。うむ、味は悪くない。
「おい、シカトしてんじゃねえよクソ大佐」
目と鼻の先では、年若い同業がすっかりつむじを曲げた様子で、寝台に腰掛け落ち着きなく足をぶらぶらさせている。
バスローブの裾から覗く左右の重さの違う足を揺らす度、スプリングが違う軋みを上げて言葉以上の抗議を伝えていた。きっちりと整えていた筈なのに、もうベッドカバーに皺が寄っている。まあ今更かもしれないが。
「髪も解く前からつれないことだな、鋼の」
日中は太陽の色に燦然と輝く彼の髪は、装飾的なランプ一つが光源の仄暗い寝室では琥珀の色をしている。ブランデーと同じ色彩だ。
「言ってろ」
客人を放ったらかしに独り愉しんでいる内に、我儘な子供はすっかり臍を曲げたらしい。冷ややかな視線で睨め付けてくるのに、私は苦笑する。全く、これでは期待されているようだな、と。
「弟には遅くなると話したのだろう?」
睦言めいた台詞の代わり、グラスを手にベッドサイドまで歩を進め、立ったままに視線を合わせた。
「飲みたまえ」
「未成年に飲酒を勧めるなよ、不良軍人」
「おや、まだ子供でいる気かね」
唇を上げて侮蔑的な笑みを作れば、15の年に似合わない眉間の皺がますます深くなる。口惜しそうに唇を噛んだかと思うと、私の手から奪うように生身の左手がグラスを浚った。
可憐にも見える、小さく薄い爪に眼が吸い寄せられる。
かなり残っていた中身を一息に流し込もうと呷り、少年は当然の如く、強い酒に噎せた。
丸くなって身を折り曲げ咳き込み続けるのを無視して、その手から再びグラスを取り上げる。底で波を描く残りを自分で飲み干した。空になったそれを、サイドテーブル、ランプの隣に置く。
屈んだ瞬間、生理的な涙を浮かべた瞳が抗議を込めて向けられているのに気付いたが、身の内に震えが走るのを素知らぬ顔で遣り過ごした。
限られた逢瀬の度に飲めない酒を強要して、それに私は飽きることなく喜悦を覚える。
幼い身体と精神に庇護欲を覚えるより、私のような人間はその内側を大人の汚さで満たしてやりたいと感じる。彼との関係、行為の全てはただそれだけの感情かもしれないと、自問自答しつつ。
私は、薄い肩に手を掛ける。
力を入れれば、呆気なく子供は仰向けに倒れた。
「実際のところ弟とはどこまで?」
追いかけるように覆い被さり、耳元に囁いてやる。その年にしては、力を抜くことに慣れているのではないかね?
捕らえた左腕が僅かに震えたのは、擽ったさか官能か、傷を抉った痛みによるものか。
「……どこまでいっても熱くなんのはオレだけだ」
吐き捨てるような一言がどのような表情で口にされたか、あまり興味はなかった。酔いに温度を上げた耳を嬲りつつ、長い髪を編み込んでいる紐を外す。水気を含んだ金糸を手で掬って流してやれば、酒を零したようにベッドの上には琥珀色が広がった。
言外の肯定以外、少年に付け足す言葉はないようだった。戯れから逃れるように僅かに身を捩り、しかし細い体は逃れ出る気配もない。
「求めても浮気にも罪悪感がついて回るとは、難儀なことだな」
「あんたに何が解る」
喉の奥でくつくつと音を立てれば、気に入らないのか声音に刺々しさが増す。
そんな台詞を吐くのがまだまだ青いのだ。
「……アルを愛してる」
しかし続けられたのは、全く違った静かな響きだった。
これも先程の返答なのかもしれない。顔が見たくなって、密着させていた上体を少し離す。彼は意外に穏やかな表情で、私の顔を見て微笑んだ。
常ならば世界に刃を突き立てる如き険しさの瞳も、僅かに潤んで揺れている。酒精に頬を紅潮させているのが、別人のように柔々とした印象。
尤も、唯一血を分けた弟には、見慣れたものかもしれないが。
「弟の体を手に入れれば、浮気相手はお役御免か」
剣呑な思考を軽口に紛らわせれば、誘いに乗らなかった少年はふと視線を外した。
「あいつには誰よりも幸せになる権利がある。……可愛い彼女が出来て、いつか結婚して」
茫洋とした眼差しは、宿で兄の帰りを待っているだろう鎧の弟に向けたものか、彼の描く未来の姿を幻視するものか。解らないものには、興味も湧く。
と、再び顔を戻すと、私のシャツの襟首を掴み引きずり寄せた。小さく音を立てて顎に口付けを寄越し、両腕で首を抱きかかえる。
「こんな兄貴なんかじゃなくて、綺麗で優しい……グレイシアさんみたいな」
私の黒髪を鋼の右手で撫で付けながら、思わせぶりに、囁く。
可愛らしいものだと言えば、烈火の如く怒るだろう。
反撃のつもりだろうがこの程度、私を傷付けるには全く足りない。
「その時君は?」
「辛くて死ぬよ」
自明の理として口にする。簡単に。
「なら、屍は私に葬らせてくれないか」
私は言った。
触れ合った部分から、互いの心音が聞こえる。体温も。恐らくそれだけを欲して、冷えた体を温めに来る子供。
どうしても寒い夜。せめて体だけでも、と。
「なら等価交換、あんたはオレに何をくれる?」
あからさまに拒絶しない。それが彼の期待で弱さなのだと思えた。
「心を、君に」
全く本心でない台詞は、数多の女性に囁いてきた。罪悪感など疾うに擦り切れて、何処にも残ってなどいない。
「……だっせー」
笑い声は、僅かに掠れていた。
本音を言えば、私も期待している。子供の倍近くを生きた歳月が、知らしめてしまっていたからだ。
精神の繋がりなど、脆すぎるものだ。肉体に、本能に振り回され裏切られ、心など簡単に変化するもの。
簡単に死を口にする錬金術師は、心底では自分の命が尽きないことを知っている。
だから弟と精神だけでない繋がりを求め、私の元へも嫌がらずに訪れる。
だから、私は屍さえ貰えれば構わない。
首筋を強く吸えば、酒精に混じって仄かに石鹸の香り。使い慣れたそれが他人から漂う違和感は、簡単に別の感情に代わる。
紅く色付いた痕を隠すように生身の白い手が首を押さえる。視線は険しいが咎める言葉のないのは、どこかで彼も期待しているからだろう。
あからさまな情事の痕跡を発見した時、彼の弟は果たしてどういった感情を抱くのか。
仄暗い愉悦を互いの表情に見出した私達は、罪業を分け合って口付けを交わした。