何時まで経っても声も掛けてこない。待つのを諦め仕方なく、文字の羅列から目を上げる。
「どうした?……そんなところに突っ立って」
僅かな不審を乗せて振り返れば、廊下の薄暗りに立つ髪を下ろした姿は少女の死霊のようにも見える。マスタングは思わず背筋が冷えたのを隠しきり、平静な顔を取り繕った。
すれば相手は何に驚いたか、大きくこぼれんばかりに目を見開き、自分こそが幽霊でも見てしまったかのように肩を竦めるという謎の行動。
マスタングは失敬な反応に大いに気分を害されたが、光源の不足だけが原因でなく少年の顔色が随分と悪いことにも同時に気が付いた。
「夜に薄着でいると風邪を引く。眠る気がないならさっさと入りなさい」
顎で促せば言われるまま一歩を踏み出したが、あの傲岸不遜のクソ餓鬼が何故かそのまま扉口で立往生している。
珍しく煮え切らない態度に苛々と視線を戻せば、不貞腐れたように唇を尖らせ少年は外方を向いた。つくづく失礼な奴だった。
「……構わないのかよ、オレが来ても」
「は?確か君はシャワーを使って堂々と人のベッドを占拠するまでは、家主への礼もなくこの書斎に閉じ籠もっていなかったかね」
「まぁ、そうだけどさ……あんたってホントーに嫌味な奴!」
嫌味な上官への怒りが遠慮――今更?を凌駕したか、やっと少年は書斎の扉を閉め、荒い足取りでずかずか書き物机まで近寄ってきた。避けられる覚えのないマスタングは密かに胸を撫で下ろす。
「しおらしい君は気味が悪いんだがね、何か悪いものでも食べたか?」
「へっ、あんたの出した夕食の毒気にあたったんじゃないの?」
間近で見れば、赫々と頭に湯気を昇らせているお陰で血色も先に比べて格段に良い。この子は怒っている時の方が可愛いなぁと過る思考は気の迷いで、溜息を吐いてマスタングは読みかけの本を閉じた。
「え、なんで」
途端に狼狽する少年の、生身の方の手を捕まえる。案の定、鋼の義肢と間違えたかと錯覚しそうな程に、小さい手は冷えきっている。少年は焼けた鉄に触れた反応で、びくりと大きく身を震わせた。
「暇潰しに再読していただけだからね……先刻から挙動不審だな?」
「べ、つに……」
「もしかして警戒していた?こんなことをされるんじゃないかって」
手を取ったまま引き寄せ、肩に回したもう一方の手に作為を忍ばせて、果実のよう円やかな頬を撫で上げる。
「っの馬鹿!!」
息を吹き込むように囁けば耳まで真っ赤にする少年は平常通りで、揶揄うネタが出来たとうずうずしている悪い大人は、直ぐに深く考える行為を放棄した。
そもそもマスタングはトラウマに塗れた少年の内面には然程の興味もなかったので、感慨深げに背中を辿る義手の真意を知ったとしても鼻で嗤っただろうが。