「……あ」
囁く響きの、小さな声。
皿を渡そうとして触れた指先が、熱さを感じた仕草で弾かれた。ハイデリヒの手中で陶皿は大きくバランスを崩し、丸く練った馬鈴薯が一片、勢い良く滑空する。
何とはなしに、放物線の先が床に着地し更に床上を転がる様を目で追ったアルフォンス・ハイデリヒは、我に返り持ちっ放しだった皿を机の上に置いた。
ノーアは何も言わず、何処か申し訳ないといった風情を漂わせている。
「何か見えた?」
「 ! ……いいえ、一瞬だったから」
「そうなんだ?助かったな」
緊張を解そうとハイデリヒが道化た仕草で肩を竦めれば、ノーアは笑おうとして、……失敗して黒い双眸を痛まし気に向けてくる。
何も見えないというのは嘘で、本当はハイデリヒの言えたものでない感情とかを覗いてしまったのかもしれない、それとも自意識過剰に彼女の視線を曲解しているだけだろうか。
「口に合わなかったらごめんね」
「いいえ、美味しそう。料理が上手いのね」
ハイデリヒが自分の皿を運んでくれば、ジプシーの少女は面映ゆそうに盛られたブラットヴルストと添え物の馬鈴薯を見つめていた。
現在の同居人が鞄一つを手に突然下宿のドアを叩いたその日も、朝から何も食べていないという彼の為に、同じようにハイデリヒは四人掛けの大き過ぎる食事机にイエガーシュニッツェルを盛った皿を並べた。
怪訝そうな顔をしたエドワードは少々驚いていて、「お前料理が出来たんだな」などと一人暮らしの人間にとって実に心外なことを口にしていたものだ。
付け合わせのザワークラフトが口に合わなかったのかやけに微妙な表情をして、その眼に浮かんでいたのが違和感と失望だなんてハイデリヒは一生気付きたくなかった。どうせそう長い人生でもないのだから。
「ここに置かせて貰うんだから、食事の支度はこれから私に任せてね」
ノーアが微笑む。
「エドワードさんも最初はそんなこと言ってたのになあ」
その気になれば出来るのに、あの人あれでズボラだから。
茶化してみれば、既に思い当たる節があるのかジプシーの少女は肩を震わせる。
彼の得意料理はクリームシチューで、病弱だった母親の手伝いをしていたという経験からか、腕前はさほど悪くない。
何でも器用にこなす割に、アルの奴、料理だけは苦手だったんだぜ。
左手で器用に包丁を扱いながら、振り返った彼はそう言って猫のように目を細める。
無数にある、胸が悪くなる記憶の一つだった。
知られたくないと思うのだ、そんな彼の美しい黄金色した瞳にナイフを突き刺したいと考えたことなど。
今や彼は文句一つ言わず、ハイデリヒの作った料理を口にしている。
「じゃあお任せしちゃおうかな。買い物は僕がしてくるから」
ゆっくりと舌に馴染ませたように、黄金の瞳にハイデリヒの存在を馴染ませたい、その望みを叶える為には余りにも時間が足りなさ過ぎた。
あなたを愛していると告げたとしても、きっと無駄なんでしょう?
残酷な異邦人は、その告白すら違う声の違う口から放たれた言葉に重ね合わせてしまうだろうから。
……何よりも度し難いのは、苦い記憶ばかり、それでも後生大事に抱えている己のいじましさというものかもしれない。