いやなんです
あなたのいつてしまふのが――
怖ず怖ずと切り出された時は驚愕も納得もしたけれど、概ねは安堵と祝福の気持ちで僕はその日を迎える手筈になっていた。
今となっては武骨な金属の光沢もない、すらりと白い脚を惜し気もなく晒すスカートを嫌がらなくなった姉さんが、明日に備えて早々に寝室へと引っ込んだ姉さんが期待と喜びに満ちた微笑みで、ハンガーで吊り下げられた純白の花嫁衣裳に触れているのを偶然目にしてしまうまで、僕は間違いなく人並みの仕儀で唯一の家族を送り出せることを喜んでいる筈だったのに。
あんな普通の女のような表情した姉さんは、まるで別人を見ているみたいに不自然に思えた。
もしかしたら相談されたあの時に僕が反対したなら、姉さんは違う考えを持ったのかもしれなかった。今となっては何もかも遅いけど。
「アルフォンス、……どうした?」
姉の結婚前夜になって、初めて僕はそれがとても厭なことに思えてきて、堪らなく泣けてきたのだった。
「お願い、どうかいってしまわないで」
小さな子供のように涙声で、僕は姉さんに懇願する。
泣ける体を取り戻せた事実が今は憎い。
「どうした、ちっちゃい子みたいに」
すぐにドレスからは手を離し、姉さんはおろおろと扉口に立ち尽くす僕の傍まで駆け寄ってきてくれた。困惑はあれど驚きが声音に含まれていないことが、少しばかり不思議な気がする。
「理屈に合わない、こんなの不自然だよ」
自分こそ支離滅裂なことを口走っている自覚はあったが如何しようもない。
「姉さんがお嫁に行くなんてありえない」
「おいおい、確かに俺はがさつな男女だけどな」
失礼な言葉に苦笑して、頭一つ分上にある僕の髪をぐしゃぐしゃと撫でる。
違うよそうじゃない。例えばその一人称だって、若妻として紹介された世間が何と言うか、そうだよ人並みと言われるような喜びも悲しみも、型に嵌められた人生なんて姉さんには似合わない。誰か――旦那様の意志に従ってその人生に寄り添う生き方なんて有り得ない。
小鳥のように臆病で、大風のように我儘な、そんな姉さんをあの人だって完全に受け止めるなんて出来やしない。
「お前の方がマリッジブルーか?」
「違うよ、違う」
「淋しくないぞ、会えなくなるんじゃないんだからさぁ」
「だからちがうってば」
僕はただあなたのことを想うだけなのだ。
あなたがその身を売って、万人の世間に負け、一人の男に負け、普通の女のようになってしまうのが如何にも厭で堪らないだけなのだ。
「こんな衣裳似合わないよ、スカートだって似合わない」
なんて醜悪な姿なのだろう。二人で旅をしている時はこうじゃなかった。
まるっきり男にしか見えない格好で、尻尾みたいな三つ編みを振り上げて、姉さんは雄々しく大股で世界を闊歩していたのだ。
迷いない足取りで、けれど時々振り返ってはお日さまみたいに僕に笑いかけた。
僕をおいていかないで。
これは淋しさなのだろうか。
ただ灼け付くように悲しいだけなのだ。
あなたが他の男のものになってしまうのが。
「……だって仕方ないじゃないか、」
僕が十も言えずに泣き続けるのに向かい、宥めるに飽きたらしい姉さんが不貞腐れた風に言う。
「俺たちはきょうだいなんだから。何時までも一緒にいられないじゃないか」
判るようで解らない。けれど姉さんも僕に対して無心でいないことだけは理解出来た。
小柄な姉さんは自分から抱きついて、そうすれば華奢な体躯はこの腕の中にすっぽりと収まってしまう。
「あいつは結構まともじゃないし俺を幸せにしてくれるとは限らないけど、きっとそうは酷いことにならないだろうよ。それはお前も知ってるじゃないか」
僕の胸に顔を埋めて、少しくぐもった声は涙声にも聞こえたけれど、頑強に姉さんは顔を上げなかったので本当のところは判らない。
僕がしたのは周りの何もかもから姉さんの姿を隠そうと抱き込んでしまうことだった。強く掴んでさえいれば、永遠に手放さずに済むとでもいうように。
随分と強い力だったのに、姉さんは一言も痛いとは言わなかった。
「姉さん……」
耳元で囁く声にびくりと痙攣して、姉さんは僕のシャツを掴む手に力を込めた。スカートから伸びた脚が小さく震えていることに僕は気付いている。
これは恋じゃない恋じゃない。
ならこんなにも苦しいのは何故だろう。
あなたがいなくなると考えただけで今にも死んでしまいそうになる。
母さん、僕は如何すれば良いのでしょう。
口吻けて閉じ込めて、そうしたところで朝日は必ず昇ってしまうのに。
脳内ハイエドが 「わたしもうぢき駄目になる」 とか言い出したので、「もうとっくに駄目になってるよ!今更だよ!」ツッコミながら『智恵子抄』再読したところ、冒頭の「人に」という詩が物凄いアルエドだったので急遽パスティーシュ簡単に言えばパクリです(死)。
珍しく禁断っぽい弟姉になってしまいました。