暗い雲に幾重にも覆われた空が、薄暗い室内にそれでも仄白く、格子状の光を注いでいる。
「あ、中尉」
追加の書類を手に入室すれば、居るべき上司の姿はない。代わり、赤いコートの錬金術師が来客用ソファの上から私を出迎える。
司令部のストーブを全て片付けた途端だというのに、間が悪くも東部には珍しいこんな雨空。激しくもなく、ただじわじわと体温を奪う冷たい空気には、焔の錬金術師でなくても気が塞ぐ。
「エドワード君」
幾ら司令官用の個室とはいえ、暖炉といった気の利いた設備もない。彼は寒さを堪えるように、両腕で自分の身を抱き締めている。
そんな少年に大佐の居所を尋ねようとして、寸での所で思い直す。
一時間前に私が持ってきた書類の束が、未決済のまま積み重なっている。デスクを見れば、聞くまでもなく事態は一目瞭然というもの。
眼前に下がった甘い餌は、今回ばかりは功を奏しなかったらしいと合点する。
「……大佐にも困ったものね」
「中尉は大変だね」
嘆息すれば、心底に同情的な声が返る。
聞き慣れてしまったと訴えようが、上司には馬耳東風だろう。
「そうね」
改めて彼に向き直って、気付く。
出された菓子が手付かずのまま残っている。日頃から遠慮というものを知らない少年なのに。
不自然でない呼吸とタイミングで、上司の机へと再び視線を移す。先程の山の上に、追加分を載せて。
窓の外にちらりと人影。物々しい青い軍服のシルエットは、私の姿。
その姿に、意味もなく溜息を吐く。
「でも、中尉が羨ましいな」
――これも、聴き慣れた科白かもしれない。
過去に幾人かの女性が、憐憫と嘲弄を込めて私にそう言ったことがある。
『私、あなたが羨ましいわ』
だけど、今聞いた彼の声は率直すぎる程の羨望で満たされていて、だから私は過去のような作り笑顔でなく
「ありがとう」
と言える。
「そうね」
とも。
振り返って見た彼の顔は、確かに過去のものとは違う。
私の視線を感じ、顔を逸らして困惑気味の苦笑をしている。
「淹れ直してくるわね」
何もかもが重厚で虚仮威しな来客用の机。
菓子皿の隣で予想通り、温かかった筈の紅茶はカップの縁近くに喫水線を晒したまま、完全に冷たくなっている。
「え、そんなの悪いよ」
机横に立て掛けられていた盆を手に取り、カップを引き寄せる私に慌てたように、エドワード君は腰を浮かせる。
がしゃん、机にぶつかって、彼の左足からすれば当然の金属音が鳴り響く。
「うわ」
攻撃的な音にびくりと身を竦ませ、少年は益々狼狽の度を深める。
その眼が赤く充血していることに、……今更ながら私は気付いた。
「大佐を連れ戻してくるついでだから。気にしないで頂戴」
「……うん」
殊更ゆっくりと告げてやれば、しおらしくソファに腰を沈める。
大佐がこんな彼を見ればなんて言うかしら。
敢えて可能性には目を瞑って、微笑ましく思ったりもする。
「じゃあ、少し待っててね」
「……あのさ、一発ズドンとぶちかましちゃえば?」
二つの用事をこなす為、退室する私に掛けられる提案。
……私の中で急上昇していた好感度が、一気に下降する。
「そうね、撃ち殺したいと思う時もあるわ」
自分にしては珍しい笑顔を向ければ、目を見開いた少年は、顎を引き気味に愛想笑いを返す。
誰をと考え、それを口に出さない彼は、確かに頭の良い子供なのだろう。
そんなことを思って、私は再び無人の室内に少年を閉じ込めた。
賢明さが常に成功を齎すとは限らない。
図書館の弟が助けに来るのと、私が紅茶と大佐を放り込んでドアを閉めるのと、どちらが先になるのかしら。
盆を持たない手で、腰のホルスターに下がった銃に触れる。
雨音は止まない。無能な上司は屋外に出られない。
窓に顔を向ければ、閉じたガラスに水滴が筋を描いて流れ落ちる。朧気に映った私の顔が、まるで涙を流しているよう、だなんて。
廊下に人通りがないのを幸い、独り苦笑する。
生憎と、私は上司より有能な副官なのだ。