「あンの、バカ兄………ッッ!」
獣の咆哮に近いその絶叫が響き、別室で待機していた数人の軍人達は異変が起こったことを知った。
何を言うともなく顔を見合わせた彼らは、我先にと立ち上がる。上司を先頭に、一様に蒼い顔色で軍病院の廊下を進む一団の姿は、いつかの肝試しの夜を彷彿とさせるものであった。
その部屋、目的の為に隠密に空けられ用意された元手術室の扉を開けたのも、上司であるマスタングである。
日頃傲岸不遜な上司が息を呑んで立ち竦む気配を感じ、背中に遮られ中の様子の窺えない部下達は最悪の可能性を思って想像を膨らます。
しかし、すぐに迷い無い足取りでマスタングは室内に踏み込んで行ったので、彼らが自分達の妄想力を持て余す前に、室内の様子は簡単に知れた。
一同は再び驚く。
皆の想像に反し、窓の無い薄暗い部屋の中は、あまりにも何も変わっていないように見えた。
病院の設備を全て撤去しただだっ広い床の上には、素人目にはシンプルで美しい文様としか映らない錬成陣がでかでかと描かれている。その中心には2メートルを越す大柄な鎧が鎮座し、向かい合うように金髪の小柄な少年が座り込んでいた。
本当に何事も起こらなかったように見えた。
少年が目を見開き、呆然自失の体である他は。
「…何があったのかね」
少年の左肩に手を置き、尋ねたのもマスタングであった。
ちらと鎧に目を向ける。常ならば人間と変わり無く動き喋る魂の容れ物は、ただの無機物のように微動だにしない。
しかし、「兄」という単語が聞こえた筈なのに、部屋の何処にも鋼の錬金術師以外の人間の姿は見当たらない。
「アルフォンス君はどこだね。……錬成は失敗したのか?」
「………大佐」
問いは重ねられ、凝と目を前方の鎧に据えたまま外界から一切の感覚を遮断していた風の少年は、ゆっくりと質問者を仰ぎ見た。
「魂には、腕一本が等価の対価となるんです」
ゆっくりと噛み締めるように少年は言った。その声はエドワード・エルリックと呼ばれる少年のものでしかなかったが、穏やかとも言える淡々とした抑揚は、違う人間を酷く彷彿とさせた。
「まさか……」
顔を強ばらせたマスタングが肩から手を離し、一歩後退る。
告げられた意味の理解出来ないまま、悪い予感だけを強く感じていた部下達は
「………腕」
比較的冷静な女性中尉の一言で、少年の右腕が失った筈の生身で出来ていることに気付いた。
出来たばかりの両手を顔の前に翳し、少年は独り言のように呟いた。
「本当に兄さんは大馬鹿だ」
瞬間、一同を精神的な落雷が打つ。
この場で何が起こったのか、恐らく過たず全員が理解した。
「なんでボクは気付けなかったんだろう、何時だってあんなに近くにいたのに……!」
握った拳がだん、と床を叩く。
「どうして………」
「あれは、君の姿を酷く恐れていたよ」
涙なく慟哭する少年を何処か痛まし気に眺めながら、マスタング大佐は口を開いた。既に落ち着きを取り戻した焔の錬金術師は、態度だけを見れば全く平然としたもので、今までの兄弟、特に兄との関わりを思えば異様と言えたかもしれない。
「どういうことですか?」
ゆるゆると、アルフォンス・エルリックは顔を上げた。
「自分の罪が、何よりも明瞭りとした形を取って存在していたのが君だったからね。加害者はあれ自身に他ならず、被害者から逃げ出すには余りにも君を愛していた」
「……復讐、ですか」
ぽつりと少年は呟いた。
「真実など私には解らないが、そのことに意味はあるのかね?」
「ははッ、確かに。一生この顔を鏡に映して生きていくのは、何よりも有効な嫌がらせだ」
喉を震わせて、少年は乾いた笑いを立てる。
「とんだ逆恨みだね、……兄さん」
それを憮然と黒髪の大人が眺める。それ以外の要素は既に蚊帳の外で、そもそも最初から部外者だった。
「それでも君は死なないのだろう、鋼の」
「ああ、それは個人に対する名前じゃなかったんですね」
笑い続ける少年の声は、凄惨な響きを有していた。
「間違いなくこの体は国家錬金術師エドワード・エルリックのもので、中に入ってる魂の違いなど、何の意味もないには違いない。最初から軍の狗に人格など求められていませんからね!」
「それは……」
吐き捨てる少年に、ホークアイは否定の言葉を与えようと室内へ一歩を踏み出す。
このままでは兄に取り遺された弟は救われないし、少なくとも今まで兄弟に接してきた自分達にとっては、二人ともがかけがえのない存在であったことは事実であったから。
「その通りだ」
しかし副官を遮って、上司は容赦のない言葉を肯定した。
この人も怒っているのだわ。忠実で有能な副官は察して、何も言えなくなる。
自分だけ罪を清算して去った少年に対して、かけがえがなかった筈のそれと同じ顔をした少年に対して。
ホークアイが口を封じられては、まして他の者は何を思っても口に出来るものではない。
「大将もひでえことしやがる……」
中央の二人には聞こえない小ささのハボックの呟きが、この場に居合わせた皆の心情を代弁していた。
「で?狗の《オレ》は大佐の野望にご協力すれば宜しいのでしょうか?」
「ああ、少なくとも今まではそうだったが」
皮肉にも動じることなく頷いたマスタングに、少年は殺意すら籠もった眼差しを向けた。
が、すぐに興味を失ったように視線を逸らすと、再び鎧の脱け殻に顔を向ける。
その時には既に、彼が見ているのが鎧の肩の刺に引っ掛かった機械鎧の右手であることに皆が気付いていた。
最期の瞬間、二つの魂を入れ替え、自分の魂と失った右手を交換しようとした兄は、鎧の体を抱き締めたのだろう。
恐る恐るといった風に這い寄って、少年は兄の行為を辿るようにして鋼の右手を腕の中に抱き締めた。
そのまま彫像のように静止して動かない少年を見守って動けない大人達は、――永劫とも思える時間の果てに顔を上げた少年の目の色に仰天することになる。
「んじゃ、改めてよろしく」
不敵な表情も快活な声音も、そこにあったのは紛うことなく喪われた筈の少年のものだった。
その完璧な擬態には答えず、マスタングは部下達に向かい
「死んでも隠し通せ」
厳命する。
五人の軍人は敬礼を以て、共犯者となる道を選択した。
多分こうはならないだろうという確認。
色々筋が通りませんしね!