とべない鳥の唄をきいた日。
「ふぃ〜、お茶出してよ、お茶!!」
「……………ああ。」
背後から掛けられた声に、素振りの腕を止める。
玉鼎真人は目をしばたきつつ、ややあって軽く頷いた。
玉泉山は、洞主の人柄を反映してか静寂の似合う場所だ。
玉鼎自身は特に戒律に厳しい人であるという訳ではなかったのだが、何故か弟子達も此処を訪なう客人も、漂う空気の所為かなんとはなしに襟元を正すのが常だった。
「ねぇねえ、お茶菓子もあったらよろしくぅ〜」
「わかった。用意する」
ただ唯一の例外――端正な顔と無邪気とも言える仕草がアンバランスさを感じさせるような――の乱入は、そう珍しいことではなかった。
勝手知ったる他人の家、太乙真人は玉鼎に構わずにずんずんとお勝手に向かう。
大体中庭に入ってきている時点で不法侵入であるはずだったが、後ろめたさなど全く感じていないような態度にこちらが不審に思う隙もない。
他人によって自分のペースを乱されるのは良しとしないところであったが。
だが、玉鼎はこの弟弟子の気まぐれとも言える行動に振り回されることが、決して嫌いではなかった。
その理由は解らない。
額に滲んでいた汗を拭うと、玉鼎はゆったりとした足取りで太乙の後に続いた。
こぽこぽ、と急須がリズミカルに音を奏でる。
来客用にと取って置いた饅頭を出すことにして、皿を二人分用意した。
「早くしてくんないー?」
太乙は卓に座り、足をばたばたさせている。
客間まで持っていこうと言うのを、毎回断られる。こっちの方が居心地が良いから、と家人が使うお勝手の卓を使うのだ。
かといって何か手伝う訳でもなく、すぐ側でこちらを眺めるばかりである。
「待たせたな」
「あ、さんきゅー。玉鼎の淹れてくれたお茶って美味しいんだよねぇ」
「そうか」
玉鼎は短く返し、自分もお茶に口を付ける。
お互い、しばらく無言でお茶だけを飲んでいた。
「……今日は何かあったのか?」
「やだなあ、もうボケてるよ。昨日は周の決起集会があって、私達は行ってきたんだってば」
さっき帰ってきたところ。
「……ああ、そうだったな」
「キミも行けば良かったのに」
「いや。うちの楊ゼンは人間界でしっかりやっているしな」
「……すっごいイヤミ」
「済まない」
太乙は、可笑しいような苦しいような、妙な表情で黙り込む。
しばらく前、人間界では金鰲の妖怪仙人である魔家四将が周を襲撃するという事件があった。
彼らの無差別攻撃によって多くの民の命が喪われ。
封神計画の一環として周に派遣されていた天化や、ナタク、雷震子といった道士達も大怪我を負った。計画の遂行者である太公望すら負傷したその戦闘で、ただ一人無傷で、天才の名に相応しい華麗な戦果を上げたのが玉鼎の弟子楊ゼンだったのだ。
その楊ゼンは今、太公望の補佐役として、唯一人間界に常住している道士でもある。
「周りと上手くやっていたか?」
「やってないやってない。相変わらず傍若無人だねぇ。皮肉言われちゃったよ」
言葉少ない玉鼎の言葉を汲み取って、太乙は渋い顔で近況を報告する。
「全く……、普賢といい、なーんで太公望はあーゆータイプにばっかり懐かれるかな……可哀想に」
「……そうだな」
口元を弛めるのを、あーこれだから目の曇った親バカは厭だね、などと本人も充分親バカの部類に入る太乙が非難する。笑い混じりだが。
「こうやって子離れしていくのだろうな……」
「ウチの子はその点はまだまだ安心かな」
日が既に大きく傾き、濃い影を室内に投げかける。
太乙は、一向に立ち去る気配を見せない。饅頭の皿は、既に空っぽになっていた。
弟子達も姿を見せない。各自の修行を終えて誰かは入ってくるかとも思ったが、静寂を破る者はいなかった。
「……まだ帰らなくていいのか」
律儀に向かい合って座り続けていた玉鼎は、やや困惑したように訊ねてみた。が。
「いいもん。今日は泊めて貰うから」
思いがけない答えが返された。
「ナタクは良いのか?」
「一日も二日も一緒だよ。大体他の所と違って修理だしさぁ」
「らしくないな」
「道徳も天化が心配だー、とか集会の日の内に帰っちゃうし、雲中子だってあれで雷震子くんのことが結構大事なんだよね。
みんな私のこと親バカだって言ってるクセに。そっちも充分親バカなんだからさぁ?」
愚痴る太乙に、玉鼎は何故彼がここにやって来たのか理解した。
ただ寂しかっただけなのだ、多分。
「待っていろ。部屋を用意させよう」
椅子を引いて立ち上がるのを、不意に伸びた手に袖を掴まれ阻まれる。
「いい。……玉鼎の部屋に泊まるから」
再び玉鼎は、椅子に座り直す。
にっこり邪気なく笑うその態度が、自分に対して特に見せる擬態だと知っている。
「駄目?」
「……いや」
玉鼎は溜息を付いた。
自分も同罪だとの認識もしっかり持っている。
「 」
太乙が口を開いて、また閉じる。
「なんだ?」
「……あのさあ、キミって私のこと好き?」
「ああ」
太乙は、先刻と同じように、泣き笑いの表情で顔を歪ませた。
「でも一番大切なのは楊ゼンくんなんだよねぇ……」
「……………」
「狡いなぁ……彼が人間界でピンチになる度にキミはやきもきして夜も眠れないんだ」
あはははは、と笑った声は語尾が掠れていた。
「いいもんね。私だってキミのこと好きじゃないから、お互い様」
「…………」
応えを求められた訳でもないから。
玉鼎は何も言わなかった。
「お茶のお代わりを淹れよう」
「うん、お願いするよーう」
立ち上がった玉鼎を、今度は太乙は止めなかった。
缶から茶葉を掬いながら、玉鼎は静けさに耳を澄ます。そろそろ夕食の時間かもしれない。弟子達はどうしたのだろう。
夕暮れはもう近かった。
〈完〉