大好きな大好きな僕の太公望師叔。
幼い外貌の内に強靱な精神と崇高な理想とを隠し持ち、その知謀は常に遙か前方を見据えていながら周囲への慈悲の心をも忘れない。本当に文句なしに素晴らしい人なんだけど。
 
でもちょっと……酷い人なんだよね。
 





 
 

Can You Keep a Secret?

 
   
最近になって気付いたことがある。
 
 
「ねぇねぇたいこーぼー!!」
「おお!天祥ではないか」
「こんにちわっス!」
僕がその場面に行き会ったのはほんの偶然だった。豊邑から到着したばかりの物資の確認の為に営倉の間を走り回っている途中で、宿営地の外周近く、天幕の周りを彷徨いていた師叔の姿を見掛けただけで。
本当なら僕も声を掛けても良かったのだけれど、小さな体をばねのように弾ませて彼に駆け寄ってくる天祥君に先を越された形になったのと、僕自身に声を掛けるべき用事がなかったことも相俟ってタイミングを逃してしまった。そして、直ぐに立ち去るつもりだったのに、なんとはなしに愚図愚図して結果天幕の陰で立ち聞きする形になってしまう。
他人と話をするのが酷く苦手だった幼少時代の癖が、未だに残っているのかもしれない。僕の出生を知っているのは崑崙では師匠と元始天尊様だけだったし、隠さねばならないという前提が自然体で対応することを困難にしていた。……そもそも、人間にとっての『自然』がどんなものか、当時の僕にはよく判らなかったこともあったかもしれない。
――閑話休題。兎も角、駆け寄ってきた天祥君を、太公望師叔は両手を広げて抱き留めた。
「どうした?稽古の途中ではなかったのか?」
小柄な師叔より更に低い位置にある天祥君の頭をくしゃくしゃと撫でて、少し屈んで目線を合わせてから問い掛ける。その仕草だけは祖父と孫、といったかんじだけど、実際の容姿がそれを裏切っている。
「ううん!稽古はもう終わったんだ。たいこーぼーは今ヒマ?」
「うむ。そうだのう……」
「何言ってるっスか!仕事をサボってブラブラしてるのはヒマの内に入らないっス!!」
天祥君の期待に溢れた眼差しに応えようとした師叔は、いつもの如く傍らに居る四不象の叱咤に遭った。根は真面目な四不象は今の状態が大いに気に入らないらしい。
「ちぇっ、なーんだ。一緒に遊ぼうと思ったのに、つまんないのー」
「天祥君には済まないっスけど、ご主人の仕事が終わってからまた誘って欲しいっス」
断りつつも、四不象は気勢を下げて申し訳なさそうな表情を見せた。天祥君は可愛いけれど仕事はきちんとして欲しい、というところだろう。
「こらスープー。勝手に人の都合を決めるでない」
師叔の方は、この判断に不満そうである。
「大体わしはサボっているのではないぞ。使いに出した武吉のことが心配で、こうして限りなく陣の外に近い場所で待っておるのではないか」
一見尤もらしい師叔の弁舌に待ったをかけたのは彼の霊獣ではなくて。
「どーせ武吉っちゃんよりも、買ってくるように頼んだモモとかが心配なんじゃないさ?」
武術の訓練用の木の棒を片手に、天祥君の後ろに立ったのは彼の二番目の兄。さり気ない仕草で、師叔に纏わりつく天祥君の体を引き離した。
「なんだ、失礼だのう、天化」
「スースの日頃の行いを見てれば直ぐに分かるってもんさ」
天化君は、邪気のなさそうな笑みを漏らして、弟の髪を師叔がやったように乱暴に掻き回す。
「兄さま」
「こら天祥。我が儘言っちゃいけないさー」
「だってー」
どことなくほのぼのした兄弟喧嘩を、苦笑しつつも師叔は止めに入った。
「そう厳しいことを言うでないよ天化」
「スースが甘やかすから天祥も付け上がるさ」
「甘やかすどころか。元々平和でありさえすれば天祥も同年代の子供達と遊べたであろうに、こんな大人ばかりの場所で我慢を強いているかと思うと申し訳ないのだよ」
肩を竦める仕草に、四不象などは主人の感情にシンクロしてしまって項垂れてしまう。それを、
「それはスースが気に病むことじゃないさ」
「そうだよ!!」
黄兄弟は、笑顔で切って捨てた。
「戦場が嫌なら、豊邑で天禄アニキや天爵と一緒に留守番してればいい話さ。戦場まで付いてきているのは、こいつの意思さね。それに、天祥は将来的にはなかなか良い戦力になると思うさ」
「うん!!そのうちにね、もっと強くなって俺がたいこーぼーを守ってあげるよ!!!」
無邪気に胸を張る天祥君を見て、
 
………あ。今のはちょっと長めだ………
 
「そうか、それは楽しみだのう」
太公望師叔は共犯者的な、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「スースは腕っ節は全然だし、守って貰うくらいで丁度良いさ」
揶揄する振りをして、分かり易すぎるくらい労りの混じった天化君の台詞に、「ほっとけ!」などと舌を出す。
目に見えて明るくなった雰囲気に、四不象もほっとした表情を見せた。
話も一段落付いた様子に、結局覗き見する形になってしまっていた僕も息を吐いて踵を返す。
これから、武成王の所へ行ってリストと現物との照会をしなくてはならないし、その結果を周公旦君の所へ持っていく際は、周公旦君や武王と同じ場所に……今みたいにサボってなければ……師叔も居る筈だから、今僕があの人に対して声を掛ける必要性は存在しない。
自分の義務を果たした後に用事も生まれるのだから、僕に出来るのは割り当てられた仕事を一刻も早く終わらせることで。それでいうと、師叔にもこんな処で油を売らずにさっさと仕事に就いて欲しいけど。
実を言うと、僕にだってあんな風に皆に交じって談笑したい気持ちも有るんだけど。
……ああでも。
 
丁度良く、お使いに行っていたという武吉君が戻って来たようだ。陣に近付いてくる土煙と、大きな声でそれと知れる。
「お師匠様―――――っっ!!ご用事も、お土産のモモも、ちゃんと言われた通りにしてきましたよ―――――!!!!!」
四方に響く大音声で、天化君の揶揄が間違っていなかったことを暴露している。本人には悪気は全くないのがご愛敬だ。彼なりに太公望師叔の役に立とうと一生懸命なのが分かっていて、武吉君は誰からも好意的な眼差しで見られている。
案の定、師叔が皆からからかわれている声を聞きながら、僕はその場を立ち去った。
「周公旦さんが怒ってるっスよ〜〜っっ」
四不象の急かすような台詞が、最後に耳に届く。
誰よりも彼の近くにいる、献身的なあの霊獣なら気付いているかもしれない。確証はないけど。
腕の中でずり落ちそうになっている書類の束を抱え直しつつ、先刻行われた遣り取りにおける師叔の表情を脳裏に再現させる。
 
怠けてばかりのぐうたら道士。食い意地が張っていて、楽をする為に小狡い手を使って巧く立ち回る。表面的にしか師叔を見ない者は、あの人のことをきっとそう評するだろう。
 
そして。仲間に対して、あの人は度量の広い司令官であり、気の置けない遊び仲間であり、時には慈愛深い保護者になったりもする。
 
基本的に、師叔は皆に対して本音で話している……と、思う。
その点は、仲間への思い遣りが深くて、信頼もしている人だと思うから。
 
でも。
 
「あの人の方がよっぽど嘘吐きじゃないか…………」
 
溜息と共に吐き出して、自分で自分の独り言にぎょっとする。これは僕のタブーにも関わることなのに、不用意に口に出して誰かに見咎められたくない。
幸いに、まだ僕の居る付近は宿営地でも外れの方に位置していたので、周りには偶々とはいえ人の姿はない。安心して、肩の力を落とす。
 
――そう、これは僕が嘘吐きで変化の達人だったから気付いたこと。
無意識の内にも他人の行動や表情を観察する癖が身に付いてしまっている僕だから。
 
 
太公望師叔は、表情と表情の間に、不自然な一瞬の空隙があるのだ。
 
 
大抵は、よくよく注意しないと解らないようなものだけれど、時には先刻のような割とあからさまなものもある。
反応に困っているとか、悩んでいるという訳でもない。その一瞬、本当に仮面のように全ての表情を剥落させた貌を見せる。そこには暖かみも、冷たさすら、ない。
そして、作られた仮面なのは、いつもの貌の方に違いないのだ。そう、あの人を好きになって、こういう風に観察するまで気付かなかった、意外と端正で可憐さを持つ顔の造り。気付かないのは、あの人がそれを意識させないように表情を作っているから。
驚異的な頭の回転力。常に人の何十歩も先の手まで読んでいる師叔は、いつだったか、どんな局面にも対応する策を編み出すことに僕が感嘆した時、
「策を考える時は、少々の局面の変化にも対応出来るように、あらゆる事態を想定して数十は対応策を考えておく。……実際に役に立つのは一つか二つなのだがのう」
寂しく笑っていた。
あの人にとっての貌も同じことで、常に本人の意思と相手の感情、そして作り出した剽軽で呑気者の軍師のイメージに合致する表情を、一瞬の内に判断して表しているのだろう。
その僅かな隙間を、僕は発見してしまった。
そのこと自体は嬉しい。それだけ僕があの人のことをより理解出来ているということだし、僕しか知らないあの人の真実を手にしているというのは、ささやかな特権意識を擽られて気持ちの良いものだったりする。
ただ、師叔は仲間達に……僕にも、心許していないのだろうか。人の心の奥に入り込み、誰の心をも開かせてしまうあの人は本当はどんなことを考えて、どんなことを感じているのか、知ることは出来ないのだろうか。
 
最近、ちょっと煮詰まっている。
気を散らすように頭を一つ振ると、半ば無意識の内に目指していた武成王の天幕へと、意識を向けることに成功した。
すると上手くいかないものというか、師叔の姿を見掛けるまでは脳裏を占めていた仕事関係の不安が再び湧き上がって、僕は別種の憂鬱に囚われてしまうことになる。杞憂だと笑い飛ばしたり、見て見ぬ振りは僕の性格上土台無理な話で。
今夜師叔に相談してみよう。
長い髪が目の前に落ちてくるのを掻き上げる。同時に天祥君の髪を撫でる師叔の手を思い出して。
ひょっとしたら先刻言えば良かったのかもしれないと頭の隅で後悔しながら、僕は足を速めた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「それで?」
太公望師叔は、顔に空白を貼り付かせたまま先を促した。
全軍を指揮する軍師に対するちょっとした特別扱いで、少し周りとは距離を置いて建てられた、それ自体は簡素な天幕。
その中の、これまた簡素な寝台の上で仰向けに寝転びながら、僕は昼間の仕事の話をしている。寝台の端に座った師叔は、ただただ無表情で、此方を見下ろす。白い単衣仕立ての夜着の所為か、その存在感は妙に希薄に思える。
これが最近の僕達のパターンだった。
「ええ、昼間には豊邑から送られてきている筈の物資の量と実際の量との間に大きく差がある、ということだけご報告いたしましたが。今回だけなら何らかの手違いで済むかもしれませんが、この傾向は慢性的に続いています。
途中で傷んだ食料は兎も角、武器などにこれだけ数の相違が出るのは異常かと思うのですが」
「それで、この現象におぬしは何と説明を付けるのだ?」
「行路の途上で、盗難に遭っている可能性が高いかと」
「ふぅん」
歌うような調子の呟き。鼻で嗤うように聞こえた僕は、かちんと来て身を起こす。
「事実だとすれば、これは由々しき事態ですよ!護衛兵の数を増やすか、運搬の行路変更を断固として主張します!!」
「……つまり、行路の近隣の民が、兵の目を盗んで物資を奪っていると、おぬしはそう思うのだな?」
激昂した僕の調子に構うことなく、師叔は確認を取ろうとした。やっと此方を向いてくれたことだけで、意味もなく安堵している僕が居る。
「はい。警護の兵の中に手引きをしている者がいるかもしれませんが……」
気勢を殺がれて、語尾はあやふやになった、けど。
「ならば、何が悪い?」
次の瞬間、小さな唇から信じられない言葉が発される。
「なっ……何を言ってるんです!?」
「そうではないか。わし達は民の生活を守る為、兵を発しておるのだろう?盗みに走らざるを得ない程民が困窮しているとしたら、本末転倒であろうに。進軍に差し支えない程度であれば、見逃すのも一つの手であろう。元々数には余裕を考えて送ってきておる。
それに……な。覚えておけ。地上で何かを為そうとするのに、全き浄さを保つことは限りなく不可能に近い。汚れた部分が在って、はじめて物事が円滑に進む場合も多い。――天に在っては受け入れ難い道理であろうが」
唇の端が、微妙に上がる。稚い顔立ちと相俟って、それは壮絶な薄ら寒さを与えた。天幕の中、翳って見える碧色の瞳を覗いても、深淵のみが広がるばかり。
「それは……モモ泥棒の常習犯としての意見ですか」
「そう思ってくれても構わんよ」
軽口で様子を窺えば、突き放したような答え。
一瞬前の、薄い笑みすら消え、師叔はふいと視線を逸らした。
何を考えているのか解らない。その表情から何も読み取れない。
仙と人との間に線を引かれ、それが僕と師叔との間に存在するような錯覚を覚える。いや、錯覚じゃないのかもしれない。僕は判った振りをしていても『人間』のことなんて何一つ解っちゃいないのかも。ああ、だって僕はどうあっても人間にはなれなくて、ヒトの振りをした――
焦燥感に囚われる。
この人の望むような存在で居たいのに。そのかたちが見えなければ、どうすればいいのか解らないじゃないか。
もどかしさに酷く狼狽えたまま、僕は傍らの細い腕に手を掛ける。加減も忘れ、そのまま力任せに華奢な肢体を押し倒した。
夜目には漆黒に映る、柔らかい髪が敷布の上に散る。その下の、髪の黒と対を為すような白い顔は、背中の痛みに眉を顰めながらも、あくまでも空虚。
その腕は拘束したまま、瞳の中の表情を探りたくて顔を近付けた。それは叶うことなく、却ってその中の深淵に囚われて衝動的に口吻る。
「………んっ………ぅ」
抵抗らしき抵抗もなく招き入れられた口唇の内部を、貪るように犯し、舌を絡める。それにも師叔は反応を返すことなく、息苦しさから漏れる小さな喘ぎだけが、僅かに返ってくるのみ。
ただ、身の内の焦燥感によく似た熱は、そんな小さな反応にもみっともないくらいに煽られる。
離れた唇を混ざり合った唾液が銀色の糸となって結び、師叔が大きく息を吐くのと同時に僕が白く細い首筋に舌を這わし、その呼吸は半端な形で中断される。詰まった息を耳元に感じ、その頃には、最初の意図は既にどうでも良いものと化している。
 
これも、毎晩のように繰り返される僕達のパターン。
 
二人で夜を過ごすようになった初めの頃は、師叔は普段以上に剽軽な態度を取って僕を笑わせ、いい雰囲気をぶち壊そうとしていた。
その後は、一転して艶めいた姿態を見せて、手慣れた雰囲気を醸し出し。
……そして、最近では全くの無表情。
 
それでも、僕も初めは嬉しかったんだ。変化する態度は、師叔がこの関係にどう対処すればいいのか計りかねて戸惑っていたからだと判っていたから、余計な演技をしなくなったというのは僕に気を許してくれるようになった証だとも思った。
でも、今の僕はそれじゃ耐えられない。
必要以上に爺臭さを演出する、茶目っ気のある師叔が好きだった。全てを達観した、色っぽい師叔の魅力にも引きずり込まれた。初めはそれで満足だったのに。
嫌われたくなくてその気持ちが知りたい僕は、表情が見えないことに苛立って余計師叔に酷い振る舞いをしてしまう。自覚しているのに、身を焼く焦燥に常に流されてしまう。
みんなと同じ、偽物の表情に騙されたくない。でも。
「なにか……」
なにかを見せて。譫言のように、呟く言葉は届いただろうか。
ジレンマを解消する術もなく、逃避のように目の前の細い躯を組み敷く、救いようのないパターン。
帯も解かず、夜着の裾から手を差し入れて素肌をまさぐる。きめの細かい肌は、愛撫を受けやがてしっとりと手に吸い付くような感触を持つようになる。
存在感を確かめるように、それだけに僕は没頭した。
顔の方に視線を動かすと、きつく閉じられた瞼の下はうっすらと赤く染まり、そこはかとない艶を滲ませている。浅く呼吸を繰り返し上下する胸に唇を這わせ、胸の飾りを舌に含むと、耐えられないように腕の中の人の躯は仰け反った。それを乱暴に敷布の上に押さえ付ける。
「っぁ、ふ……っ………」
拒絶は顕れていない?
手で、唇で、白い躯を隈無く探っていく。荒い呼吸は、最早どちらのものともつかず。
この人を暴きたいという思いだけに支配された僕は、……冷静にものを思考することもままならない。
熱くなっていく頭を、かすかな罪悪感が過ぎった。
内股のすべらかな肉の感触を弄び、辛うじて纏わりついているのみの夜着の裾を割ってその奥へと手を差し入れようとして、ふと視線を流したのはそれが理由だったのだろうか。
パターンとは違う行動。
逸らした視線の先、皺になった敷布を掴む手。
その手が何かを耐えるように震えていた。
顔を上げる。刹那合わさった視線、薄く開いた瞼の中の潤んだ瞳。
……これは怯え?
「………あ」
ゆっくりと被さった上体を起こす。師叔から感染されたように手が震えて、もう片方の手でそれを握り締めて押さえ込んだ。
身体から急激に熱が引く。自分では判らないけれど、この時僕の顔は蒼白になっていたかもしれない。
嫌われた………?
足元にある基盤が全て根底から崩れていく恐怖、に近い。
「す、すみませんでした……」
絞り出した声は、掠れていて。
「こんな、こと…………」
嫌われて当然、だ。己でも情けなくなる振る舞い。
ここまで追い込んだのはあなただ、と言っても見苦しい責任転嫁。そもそも、僕があなたを否定することなんて有り得ない。
だから、あなたからの否定が何より怖い。
「失礼しますッッ!!」
混乱したまま、僕は寝台から降りる。顔を背けて天幕の入り口へと視線を走らせ。あと十歩。
 
大概乱れていた――今気付いた――僕の道服の裾が、ぴんと音を立てて何かに引っかかった。
 
寝台に引っかかるような物など在ったか?外そうとして、服の端を持ち上げて。
震える手が、必死に掴んでいるのを、見る。
黒い髪の下にある、白い顔。
急に、勢い良く上げられた顔を見た。印象的な大きい瞳。
初めて見たかもしれない。
人が、こんな一瞬の内に様々な表情を見せるところを。
哀しみや怒りや困惑や疑問や、それらを圧倒する暖かいなにかが幾重にも重なり合い渦を成し、結果として深い海のような色を湛えている。
……ひょっとして、いつもそうだった?
溢れそうになるくらい膨大な感情を、表出する術も知らず身の内に隠している人。
全てを見逃すまいと、いつの間にやら僕は彼の顔を凝視していた。
でも、こんな。観察眼に優れた僕にだって限度ってものがあるんですけどっ……。
と、溢れかけた全てを仕舞い直すようにすっと表情に帳が降りて。
「……そんな表情をされては、こちらの寝覚めが悪いだろうが」
提出されたのは、照れを含んだ苦笑い。
「表情って……」
「泣きそうな顔をしておるぞ。これでは怒るに怒れぬわ」
余裕すら漂わせて、師叔は微笑む。でも、その手はまだ細かく震えていて。
「泣いてなんかいません」
実際そうだし。
「わしは悪くないぞ。言いたいことを言わぬ癖に逆ギレするおぬしが悪い」
……実際……。
「すみませんって言ったじゃないですか!」
なんだかムカムカしてきた。あくまで虚勢を張るこの人にも。判ってても乗せられてしまう自分にも。でも面と向かって怒られるのは天才として慣れてないというかなんというか。
「あなただって悪いんですよ!!」
「だったらちゃんと言えば良かろう!!何も言わずに様子を窺われるこっちの身にもなってみろ!!……我慢することはないのだ……」
全てを内包した深い瞳が、僕を許すと見詰めてくる。
「……嘘吐き」
それに攫われてしまった僕は、抵抗する術もなく。
「嘘吐き。嘘吐き。嘘吐き……ッ」
言葉は意思とは関わりなく、勝手に溢れ出す。
本当は、今納得した。
感情を作っているのではなく、優しいこの人は多すぎるくらいの感情をそのまま表現する術を知らないだけなのだ。
なまじ頭が良いから。架せられた重い使命の為、きっと感情をストレートに出すのに慣れていなかっただけなのだ。みんなを騙していたんじゃなくて、いわば自身を騙していたのかも。
でも。
「嘘吐き!!!」
あなたも。僕も。
どうして嘘を吐かなくてはいけないんですか?
「……そうだのう、……」
僕の心を知っているのかいないのか解らない。けれど師叔は、その場に崩れ落ちた僕の頭に腕を回し、髪をゆっくり梳いてくれた。その手はもう震えていない。
「わしも嘘を吐きたかった訳ではないのだよ……」
ええ、僕も嘘を吐きたくなんてなかったんです。
先刻師叔に狼藉を働いた時とよく似た衝動。
けれど同じではなく、僕は小さなちいさな太公望師叔の体に我武者羅にしがみついて。苦しいだろうに、先刻と同じように我慢してくれる師叔が優しく背を撫でてくれるのに堪らなく安心していて。
お互い涙は流さなかったけれど、確かにこの時間のこの衝動は――慟哭だったのだと思う。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
次の朝。
目が覚めた時に、傍らに居た筈の師叔の姿は何処にもなかった。
半分夢現で隣を探ってみれば、既に冷たい敷布からは人の気配は絶えて久しく。
驚いて一気に覚醒すれば、自分が一人、太公望師叔の天幕で寝ている現状を初めて認識する。
実は、初めてのことではないのだけれど。
乱れに乱れている寝具一式を、取り敢えず綺麗に敷き直して。椅子代わり卓代わりに使用される、寝台以外の唯一の家具である書簡などの入った木箱を確認して。その上に、多分師叔が乗せて置いてくれた(他の人間が立ち入ったとは死んでも思いたくない)道服の上着に袖を通す。
結構朝に弱い僕は、師叔が起こしてくれなかった時など、こうやって一人で朝を迎えることがままある。
既に慣れてしまったのが嫌なんだけど、人目がある日中に他人の天幕から出てくるというのは、かなり恥ずかしい。
近くには、周の最高幹部とか他の道士の天幕なども在る。流石に……聞かれてるなんてことは無いと思うけど、こういう現場とかを見て、どう思うんだろう。
でも、夜半にこそこそと自分の天幕に帰るのも不審かなぁ……。それに今はまだ暖かいから四不象には外で寝て貰っているけど、冬にはどうしよう……。
天幕の出入り口の隙間から外の様子を窺って、周囲には誰も居ないことを確認してから、上体を滑らすように入り口を潜る。
でもそうしながらも、昨日までの悩みが吹っ切れたような開放感を僕は噛み締めていて、今抱えている問題なんて凄くちっぽけなものに思える。
そういえば今日片付けるべき懸案はなんだっけ……。
仕事のことにまで連想が及んで。
「…………あ」
そうだ、すっかり忘れていたけど、物資の盗難問題が残ってた……。
師叔は放置しておけみたいなことを言っていたけれど、やっぱり僕としてはこれは何とかしなくてはいけない問題な気がする。
そうだ、真面目な周公旦君に相談すればいいんじゃないか。彼は武王の遠征に便乗して、豊邑からの伝達を運んできて以来此方での仕事に忙殺されている。早くしないと、武人でもない周公旦君は数日の内には帰還してしまうだろう。
宿営地の中心近く、執務室となっている天幕へと足を速めようとして。
大勢の気が集まって、揺らいでいるのを僕は察知した。
声はまだ届いて来ないけれど、騒々とした喧噪が今にも聞こえてきそうなくらい張りつめた空気が感じられる。
道士も何人か……あの人も。
神経を集中し、仙気を感じ取る。
まさか、あの人に何か。
居ても立ってもいられず、騒ぎを聞きつけたか同じ方向に足早に向かおうとする兵士達に立ち交じって駈けた。
やがて見えてきたのは仕事もしないで見物していると思しき黒山の人集り。
「へっっ、ごちゃごちゃ五月蠅え!!!」
……雷震子?
聞き覚えのある威勢の良い怒鳴り声。
ギャラリーの中に見知った顔を見付け、僕は事情を訊こうかどうか迷った。
「あ、楊ゼンさん。おはようさ」
「……ああ、おはよう天化君、天祥君」
「おはよーございます!」
期せずして、向こうの方から此方に気付いた。天祥君がぺこりと頭を下げる。
「……で、この騒ぎは何?」
「あれぇ?楊ゼンさんも知らないさ?俺っちもちんぷんかんぷんだけど、なんでも軍事物資の盗難とかなんとか……」
え?
僕の先程までの懸案絡みに違いない。師叔……おそらく、は何を?
声高に話している内に周りの兵が僕の存在に気付いたらしい。遠慮がちに開けてくれた、その道を通って僕は騒ぎの中心へと向かう。
「おお!何時まで寝とる気だ!!」
矢張りというかなんというか、中心で腕組みしていた師叔は快活に手を挙げて僕を招いた。その隣には四不象や武吉君の姿も。
「失礼な。……で?」
見れば、師叔の前では二、三人の兵達が縄で縛られている最中だった。あまり人相は良くない……と思う。内部監察の兵達が黙々と男達を縛り上げている間、その傍らで雷震子が一人威勢を上げている。
「やいやいやい、お前ら周の民として恥ずかしくねーのかよ!!」
「まあそのくらいにしておけ雷震子。相手も充分怯えておる」
のほほんとした口調で師叔は止めに入る。見れば、確かに男達は雷震子の剣幕に震え上がり、一挙一足投をびくびく窺っている。
「……ふん!さっさと決着をつけろい!!」
渋々雷震子は引き下がる。そしてぎろりと男達を睨み据えれば、相手は顔を蒼白にした。……まあ当然かな。仙道でない一般の人間には、雷震子の奇怪な風体は恐怖の対象となるだろう。本人もあの性格だし。
見れば、男の一人は、頬に青痣が出来ており、乱闘の痕を窺わせる。
「何なんです?」
「おぬしの言っておった物資の盗難。輜重の任を帯びていながら故意に横流しして懐を潤わせていたグループのリーダー格だ」
「そんなっ!俺なんかは下っ端で……」
「何処がだよッッ!俺サマの目が節穴だとでも言う気か!?」
「ひえええぇっ」
身を乗り出した一人は、再び首を竦める。縛り終えた兵達は、彼らが逃亡を企てないように、一歩引いた場所で待機している。
「……状況は飲み込めてきました」
「そもそも俺たちがやったって証拠はあるのかよ!?」
「そうだそうだ!!」
一人が逆ギレすると、他も便乗する。
「近隣の市場に売られていたモモ。わしが城のモモの味を忘れるか。あのモモの産地と此処がどれだけ離れていると思っておる。他にも変な物が色々売られておるし……それに、昨日武吉が潜入捜査済みだ。闇取引の証拠書類も、ほれこの通り」
「お久しぶりです、皆さん!!」
場にそぐわない笑顔で、四不象の傍らに居た武吉君が明るく挨拶した。手には確かに書類らしき物が握られている。
「あのガキっっ」
「僕卸市場でバイトしてたことがあるんです!」
彼なら有りそうな話だ。これでも武吉君は周の中でも優秀なスパイで。
「ま、残りの詮議はおぬしらの仲間が到着してからだ。雷震子、助かった」
「おうよ!!俺サマに任せて正解だったろ!!!」
機嫌良く呵々大笑する雷震子とは対象に、がっくりと項垂れて男達は兵士に連行されていく。それと共に、見せ物の終わったことを察した見物人達は三々五々、散っていった。
「じゃあお師匠様!この書類は周公旦様のところに提出してきますね!!」
「うむ。よろしく頼む」
「あっ、僕も行くっス!!」
気を遣ってくれたのか、僕をちらりと見てから四不象は武吉君の後を追っていった。
「ま、わしらは少しサボっていくか」
急に踵を返す師叔に、僕は慌てて付いていく。
「……いつから気付いていたのですか」
昨日、僕が物資の確認が取れる前に武吉君が帰還していたのだから、昨日今日の疑いではなかったのだろう。
「慢性的ではなく定期的だったからな」
「は?」
何かと思えば、昨夜の僕の言葉に対する反論らしい。
「数人が出来心でちょろまかしたにしては数も多すぎる。組織的な犯行としか思えんし、大規模に組織が動いて兵達が気付かぬことは考え難い。……兵によるグループなら仲間の目を誤魔化すのも容易いであろうよ」
師叔は腕を伸ばすと、大きくのびをした。
いつもと同じ、その半歩後ろを僕は付いていく。
「取り敢えず一味は捕縛したが。売り捌くのに闇ブローカーとの接点もあるだろうし、一網打尽にするのはもう少し先だろうな」
首領格の者だけは雷震子が連行し、残りは数日後、兵の監視の元到着するらしい。
「言ってくだされば良かったのに……」
僕がどれ程やきもきしたか。
「平常なら放って置いても勝手に嗅ぎ付けて来るクセに。……何時正解に辿り着くのかと思っておれば、関係のないところでキレるしのう」
にやり、と人の悪い笑みを浮かべる太公望師叔。なんだかこの人らしくもあり、呆れてしまった。
「……全く。あなたは真性の詐欺師ですよ」
「今頃気付いたか」
身体ごと僕の方を振り返る。満面の笑み。だけど直前、いつもの空白の表情を見付けてしまう。
でももう僕は迷わない。
「だがのう。民が犯人だとしたらやはりわしは罰する気にはなれなかったよ。戦は一部の者だけの玩弄物ではない、と西岐の民や……おぬしらが教えてくれたからな。綺麗事かもしれぬが、民の不満が爆発するような戦なら起こすべきではない」
そう言って、誰よりも戦嫌いな軍師様は微笑んだ。この人の為にも、今度の事件が一部の私利私欲の為起こったことは不幸中の幸いだった。
「事務処理のお手伝いくらいは参加させて下さいね」
「通常の仕事もこなせよ」
「えー、勿論ですって」
 
僕は嘘吐きです。
誰よりも鮮やかに嘘を吐くこの人の傍に在りたいというのはほんとう。身体と同じく、この感情も偽物かもしれない。けど。
「…………おぬし」
ややあって、空白の後師叔は妙な表情をした。妙というのは僕の読みが足りないからで、でもそれもどうでもいいことなんだ。
「意外と分かり易い性格しておるのう……」
「余計なお世話です」
「感情が豊かなのだろうな」
………………。
それはあなたです、と答えようとして、止めた。
解っているようで解っていないようで。世界は謎に満ちている。
「師叔はさぞかし何でもよく理解していらっしゃるのでしょうよ」
半ば本気で嫌味を吐くと。
 
「解らないということは判っておるから安心しろ」
謎の答えが返ってきて、本当に僕は惑乱させられてしまったのだった……
 
 
僕も、この人には敵わない、ということだけ覚えておこう
……やっぱり酷い人だなぁ。
 
 
寝起きは爽快で、気分も爽やかだった
大好きなだいすきな太公望師叔。
『僕の』と心の中だけで追加して、とても幸せな気分になった。
 
 
 
 
 
 
 
 
〈了〉
裏封神に戻
 

なげえ!長すぎ!!しかも裏向きでねえ!!!(怒)
j ……読者さまの反応が手に取るように判ります(苦笑)。そしてこれは私の感想(死)
j いつもなら上下編に分ける長さなのですが(一太郎5〜6ページで一区切り基準)、もう自分でも読み返すのが苦痛なのとこんなのを分ける価値も見いだせず、更に章が3区切りなので半分ってどこよ?という現実的な理由もあってこんなんなりました……。途中で飽きてきましたよね……。
「雨宵」とか「はるいち」(←まるいち風)とか、(自己認識では)自分らしくない作品が続いたので、いっちょ初心に戻って『考えすぎてドツボにはまる根暗ストーカー楊ゼンの一人称』でも書くか!とか考えたのがそもそもの間違い。
一人称にしては客観的な描写過ぎで、そもそも回想か実況中継か判らない。うじうじと悩んでるかと思いきや、いきなり予定になかった『かもしれない』エロシーンに突入してしまい、「うわわわこれは裏用の話じゃないんだ―――!!!(涙)」との制止も聞かず暴走した挙げ句、「もうエロでいいよ……」とか諦めたら途端に駄々っ子のように泣き出し(てない)、ドタチュンどころでなく脱がせきってもいないような中途半端なブツに……。っていうか、時間はべらぼーに掛かるし、苦しかった。
テーマは表向きだし(?)、エロ自体ぬるい以前の問題なので(全然エロくないよ……)一応裏に置いときますが、「別に表でいーじゃん」とのご意見あれば、すぐにでも移動させます。裏に対する冒涜ですよ、この話……。
あ、勿論「絶対表に置くな。死んでも隠し通せ」とのご指令をいただけば、喜んでその通りにいたします(笑)

テーマ自体は以前から温めて腐りかけてた物なのですが、仮タイトルつけて書いてる途中に、宇多田の新曲をレンタルしてきて「あ、タイトルにええやん」とか即断。なので歌詞的には全くつながりなし。宇多田ヒ○ルにも謝れ自分。
出来は最悪ですが、このサイトを開く際に誓った譲れないお約束

1.「〜じゃ」と言わない師叔。(でも伏羲が一度言ってた……)
2.楊太といえどもスープーや武吉を蔑ろにしない。
周公旦を君付けする楊ゼン。

を完遂出来たので、それだけは満足です(笑)。もうこの為だけに楊ゼン一人称にしたに等しいやも(←殺)。これだけはコダワリですね!!あはは。

さ〜て、皆様に刺されない内に退散しましょうか……(こそこそ)。