不思議なものだと思う。
音だけの世界に、色彩が戻ってくる。
一定のリズムを繰り返す囁きは、潮騒であった。
闇一色に塗り潰されていた海岸は、徐々に朧気な色を取り戻し始めていた。濃紺から蒼へ。
薄闇の中、空気も蒼い。
漆黒は西の片隅、果てなく続くかと思われる大地の端へと押し遣られつつある。東の海上、口伝に依れば神仙も住まうという楽園から、光が生み出されているようにも見えた。つい、と紫に染まった雲の切れ端が一筋、たなびいた。
一瞬の空白の後、空の果てが茜色に染まるのも、そう先のことではない。
未だ夜の彩を留めているのは、光を孕んでいる筈の海。
そして、人気のない砂浜に佇む影。
ぽつんと、うす蒼の海岸に染みが零れているように、見えることだろう。
上から眺め遣るような存在でもあれば。
太公望、と名乗っている存在は、ふと笑った。
見上げようとも、彼を見張っている者など居らぬことは『識っている』。特別気を張らずとも、この世界の器に宿るには過ぎる力が、常に周囲の状況を知覚していた。
平和というものに慣れていないとは。この自分が未だ気負い過ぎている。
再びの微笑は、苦みを帯びていたかもしれない。
近隣に住まう者も、今時は祖廟にて祈りを捧げているだろう。
彼らを守護する神に、父祖の神霊に。
その神は彼の良く知る『神』とは違う存在であるが、であるからこそ声は届くだろう。人が、神と共に生きていた名残として。
人は神を忘れても、祭祀は執り行うのかもしれない。
その時、彼らは何に対して祈るのだろうか。
だから、自分は此処へ来た。
潮騒の音が一定のリズムで耳に届き、心音と重なる。
この存在は、数え切れない程の日の出を見て来た。
甲乙丙丁戊己庚辛壬癸。
十の太陽の兄弟は、羲和の胎から生まれ出たという。
父を同じくする十二の月は、常羲を母としている。
血の干満との関係か、月と母性とのイメージは容易く連鎖するが、太陽の神にまで注意は払われぬことが多いかもしれない。
今日見ずとも、明日も天空に光は輝いている。
そして、当然の顔をして太陽は死に、また生まれるのだ。
その陽を産み落とす母の苦痛を知らぬ気に、命のサイクルは連鎖する。
伏羲は日神である。
そのことが、長らく疑問だった。
彼にとっての太陽のイメージは、月神でもある女神の名を象っていた、最も近しい存在と結びついていたもので。
『釈然としない』
こぼしたことがある。
……女禍は、苛烈で、強く、輝いていた。
彼女を畏怖せぬ者はいなかったし、彼女自身萎縮する他者を当然と認識していた節がある。それ程までに能力は群を抜いていた。
圧倒的な力を振り翳しながらも、周囲の目を惹き付けて已まない魅力。
女王の風格すら漂わせた女禍に、松明に飛び込む羽虫の如き恍惚感を抱いていた者は、多かったと思う。そして哀れなむしけらは、灼熱の炎に身を焼き尽くすしかないのだ。
他ならぬ伏羲自身がそうであったし、そのような自己を彼女自身が持て余しているのを知っていたのも、伏羲一人だった。
その炎は破壊を生み、命を宿すことはない。
彼女は月になりたかったのかもしれない。
生み、育み、護る母に。
だから、創造神の名のままに、命を創ろうとしたのだ。
……不可能だと知りながら。
あの時と、イメージが重なった。
確か、二人で日の出を眺めた折。
『そなたこそが日神であろうに。
他者の力を吸収して威を振るう以外能のない我こそ、月の鏡に相応しかろう』
黄金の輝きが眩しくて目を細めれば、肩に僅かに重みが加わる。
『わらわは、そなたが伏羲で良かったと思うておるのに。
他の誰が知らぬとも、わらわにとって、そなたの輝きはどのような光にも勝ろうほどに』
甘えるのが下手であった。
僅かに頭を凭れ掛からせる、その仕草が彼女の矜持からすれば精一杯だったのであろう。
そして反論を諦めて、心なしか身を寄せた自分も。
甘えるのが随分と下手だった。
彼女の気持ちが、今では少し理解出来るのだ。
魂を分かち、暗闇の中光を求めて彷徨った虚無の日々がある故に。
そして、その憧れた光は、取るに足りない生き物によって育まれたと知る故に。
現在に、視線を戻す。
座り込んでいた。今は独り。
水平線は、今やくっきりと海と空とを分けていた。
靴の先に、飛沫が零れ落ちた。
指先で掬い取って唇に寄せれば、涙のように塩からい。
透明に見えるその涙が、深みを帯びた蒼になるのを知っている。
空の果ては紫。熱の紅みを帯びて、待ち望んでいる。
あの澄んだ眼差しの紫紺に抱かれ、太陽は生まれ落ちるのだ。
……何と、幸せなことであろう。
薄明の時間は長かったように思われたが、その時は一瞬だった。
頭の先が覗く。
海面を、一条の光が奔った。
するすると、その後は早送りのフィルムのように日輪が浮かび上がった。
空も、海も、一面が黄金色で、折角生じた境もすぐに解らなくなる。
きらきらと目を灼く炎、その一色に全てが塗り込められた。
眩しくて見ていられない。
いつの間にか、泣いていることに太公望は気付いた。
これは、生みの涙だ。
今、生まれたから、それが痛くて、嬉しくて、太陽である自分は涙を流すのだ。
太公望なら、こんなことで泣いたりはしない。
王奕も、伏羲も、泣いたりしない。
これは、今生まれたじぶんだからこそ、真っ新な水を零せるのだ。
果てなく続くような大海原を見て、草原のようだと思ったのはいつだったか。
今は、かれのことしか思い浮かばない。
今なら、女禍の気持ちが少し理解出来るのだ。
強烈な時間は過ぎて、黄金色は柔らかな光に取って代わる。
まだ赤みを残す世界も、今に本来の色彩を取り戻すだろう。
儀式は、終わったのだ。
「よっこらしょ」
寒さにかじかんだ腕を、大きく伸ばした。
さてこれからどうしよう。
この近隣は、お節介な王が『師尚父』の為に用意した領地である。久しぶりに代官に顔を見せても良いだろう。
立ち上がれば、黒い衣装の隙間から、砂がぱらぱらと零れ落ちる。
その行方を大切な物を見る眼差しで見送った太公望は、最後に一度だけ海を見た。
あの蒼に抱かれたのは、いつだったか。
来た道を振り返れば、寄せ返す波に浚われて。
足あとは一つも残っていなかった。
真っ新な道へと、一歩を踏み出す。
〈了〉
少し遅れてお正月楊太です。
……伏女に見えようとも、これは楊太です。
楊ゼンさん、名前すら出てこなくても、楊太のつもりでした……(T_T)
お年玉代わりにもなりゃしない、後日談ぶらぶら編でした。(^^;