少し肌寒さを感じて、僕は目を醒ました。
見ると、隣で眠っている筈の人の姿は寝台の中に無い。
――一体何処へ。
上体を起こす。灯火が燃え尽きてから既に数刻は経っている。現在光源と成り得る物は、窓から差し込む月光くらいのものか。
そう考えて窓の方に目を遣り、僕は捜し人の姿を其処に認める。
「――太公望師叔」
「ん、楊ゼン」
僕の想い人は、小さな躰を窓枠に腰掛けさせて外を眺めていた。
「すまぬ、起こしてしもうたか」
「結構ですよ。……でもこんな刻限に何をなさっているのです?」
「うむ。――月を観ておった」
そう言うと、再び師叔は僕の存在を忘れたかのように、再び外に目を遣る。
ここからでもわかる、強い月光に照らされた横顔は白く澄んで、まるで――美しい人形の様にも見える。
碧い瞳は、憂いに煙っていながらも、この世の何物をも映していないかのよう。
日光の元では決して見せない、幼い外見に不相応な表情はひどく艶を含んでいて……それでいて堪らなく僕を不安な気持ちにさせた。
「……師叔、御一緒しても構いませんか」
「………ああ」
寝台から降りると、床に落ちていた白い夜着を羽織り、僕も窓辺へと向かう。
「ほら、こんな夜中に薄着していると風邪を引きますよ」
来る途中で拾った僕の肩掛けを細い肩に掛けると、煩いのうおぬしはどうなのだ等とぶちぶち文句を言う。しかし此方を見た瞳は笑んでいて、僕の心は暖かくなる。
……ああ、この瞳は僕を見ていてくれる……
こんなにも、貴方に依存して生きている僕がいる。自分でも滑稽だとは思うけど。
「ん、どうした?」
「あ、いえ。……良い月夜ですね」
「うむ。そうだのう」
僕は手近にあった椅子を引きずって来て、師叔と向かい合う位置に座る。
煌々と輝く月は本当に綺麗で、暫し僕たちは無言で仄白く光る嫦娥の都を眺めていた。
「………師叔」
「ん?」
「ほんとはね、……月なんて嫌いなんです、僕」
「ほう……どうしてだ?」
こんな事言うつもりはなかったのに、どうしたというのだろう。僕も、月の持つ魔力に酔わされたか。
「いつも空の高い処で光っていて、決して此方に降りて来ない。
追い掛けても追いかけても、距離は縮まらない。決して手に入らない。
……まるで、醜い僕が一生涯懸けても掴めない物のイメージそのままで。腹が立ちます」
我ながらどうにかしているかも知れない。
――これは、貴方に対する気持ち、そのままだ。
「……とことん自虐的思考だのう……」
暫くして、太公望師叔は呆れたような溜息をついた。
「おぬし、普段からそんな事ばかり考えておったらハゲるぞ、しまいに」
「な……」
目の前の人はやれやれと肩を竦めると、びしいっ!…とやけに力強く此方を指差す。其処には先程までの色気の欠片も見当たらない。
……そうだ、この人はこーゆーヒトだっけ……。
脱力。
「いいか、良く聞け?」
「………はい?」
「おぬしはいっつもいっつも月を追い掛ける事ばかり考えておるな。確かに月というものはどれだけ移動しようと視覚的には距離感は変わらぬ物だ。それは月とこの大地との距離に比べればわしらの進んだ距離など無きに等しい事から来る現象だが……ええい科学的説明はよい!」
師叔は一人でべらべら喋って一人でキレた。
「では逆にだ!今度はおぬしが月から全速力で逃げたとしたらどうなる!?」
「えっ…と……月は追い掛けて………?」
え………?ああ、そうか………。
「そうだ!追い縋ってくるのは月とて同じよ。まあわしだからこそこのような発想の転換が可能なのだがのう!」
おぬしやはり頭が固いのう、そう言うと師叔は楽しそうにかかかかか!と哄笑した。
「全く……いつも貴方には負けますよ……」
僕も合わせてくすくす笑った。
本当に、いつもこの人は此方が思ってもみなかった新しい視点を取り出して、僕のちっぽけな世界観を打ち砕くのだ。適わないなあ……と、素直に思う。
それに、こんな子供騙しみたいな論理一つであっさり気鬱の霧散している自分が可笑しくて堪らない。
不意に、ぴたりと師叔は笑い止んだ。
うって変わって、今度は深い、でも優しい瞳の色をして此方を覗き込んでくる。
「……のう、楊ゼン。
月は冷たいものではないよ。寧ろ付かず離れず、いつも此方を見守りどんな時も側にいようとする、……健気で愛しい存在だよ」
その眼に溢れているのは、暖かな愛おしさ。
「わしはのう、そのような存在にひどく救われておる。
黙っておっても、振り返れば常に此方を見ていてくれる、理解してくれると思えるのは……心休まるものなのだ。自分は一人ではないと思えるのは……わしにとっての救いだよ」
だからわしは月が大好きだよ……、小さな、ちいさな囁き。
鈴の鳴るような音色に、僕はうっとりと聞き惚れてしまう。
「それにのう……月の白銀の光は、おぬしの髪の彩に似ておろう?」
それに…………は?
「あの……それって………」
見れば、師叔はふて腐れた表情で真っ赤になってそっぽを向いている。
「もしかしなくても……僕の半妖態の時の髪の色…の…事ですよね……?」
って事は……さっきの月が愛しい云々も……。
「だああああ!普段は鬱陶しいくらい気が回るクセに何故こんな時だけ鈍いのだ!?おぬしは!!」
照れが極致に達したのか逆恨み的な事を言いながら腕をぶんぶん振り回して暴れる小柄な躰を、僕は衝動的に抱き締めた。吃驚して動きを止めた躰を、そのまま力を込めて腕の中に閉じ込める。愛しさを込めて、しっかりと。
「………苦しいわ。ダアホ」
ぼそりと呟かれた一言で、いきなり僕は我に返った。
師叔は、ジト目で此方を睨み付ける。よっぽど僕の腕が痛かったらしい。
……まあ、加減を忘れてたかな……?
「師叔……嬉しいです……。僕は貴方に必要とされているんですね……」
「……今頃言うても遅いわ……折角のわしの一大決心の告白を……」
誰もが一発で陥落するような最上級の笑顔で微笑めば、顔を赤くしてまだぶちぶち文句を言っている。
こういう師叔も外見相応に可愛らしく見えて微笑ましい。結局、僕は師叔のどんな姿や表情にも一々どきどきしているという事で……それを認めるのにやぶさかではない。
「ねえ師叔。じゃあ偽物の月なんか観てないで僕の事じーっくり見ませんか?」
「……おぬし。なんかいきなり態度デカくなったのう……」
赤い顔をして、でも満更でもなさそうにちらっと僕の顔を一瞥する。
それだけで僕は察して、立ち上がると師叔を横抱きにして寝台へと歩む。
「……おい、暗くて顔が見えんぞ」
「視覚で見なくても触覚でよーく見えるでしょう?」
くすくす。二人の押し殺した笑いが寝台の中に籠もる。
このまま再びなだれ込みそうな雰囲気の中、ふと、師叔は真顔に戻る。
「――楊ゼン」
「はい?」
「忘れるな。雨が降っていようとな、雲の向こう側には月はいつでも照っておる。
わしはおぬしから決して瞳を離さないから……だから、おぬしもわしを見失わないでくれ……」
「師叔………」
誓いの証に深い口付けを一つ。
「解りました……この命に懸けても……永遠に僕は貴方の側にいます……」
それは僕の願いでもある事。
貴方を追い掛け、見つめ、護り続ける……。
たった一つ僕に残された、貴方を。
「太公望師叔?」
「我が名は伏羲!!始まりの人が一人である!!!」
――師叔――
「久しいな王奕」
「おまえが一緒に戦ってくれるとなると心強い!!」
――師叔、
……僕は貴方を見失ってはいませんよね……?
………太公望師叔………
<了>
なんだかやけにハンパな話な気がします……短いし。目指せさり気なくアダルティ、は玉砕、そして融合ネタである必然性無し(死)。時期は師叔が老子を探しに行く少し前ということで、師叔はしばらく留守にすることを念頭にこーゆーこと喋ってるんですけど(わかりづらーい…)。それがあんなコトになってしまったと。
こんなヘボ文をここまで読んで下さってありがとうございました
m(_ _)m