多分此処のことは嫌いなのだと思う。
だって高所恐怖症だし。
いつもの真っ黒な普段着の裾を引きずりながら太乙は歩く。
腕に抱えたガラクタの山――いや宝貝なんだけど――が一歩を踏み出す度にがちゃがちゃと音を立てるので、まるで自分自身からからと音のするオモチャのような気もしてくる。
どうせ中身も空っぽだし似たようなモノだけどね。
辺り一帯似たような岩山がふわふわ浮いてるだけの風景なのだが、ちゃんとしたもので大きく広い岩がまるで平地のようになって案外怖くなかったりする。草とか木とか生えてるし。太乙の住む乾元山なども手を加えたとはいえ元はそういった石ころの一つだった。
それにこの場所も自然に出来た庭園のような雰囲気がなかなか気に入っている。
そんなことを考えて、そしてさっきからずっと断崖ぎりぎりの処で膝を抱えて座り込んでいる少年に声を掛けた。
「やあ呂望、元気だった?」
声が聞こえないわけでもないだろうが、少年はぴくりとも反応しない。
まあそれはいつものことで。
毎日決まった時間にこの場所にやってきて少年は何もせず俯いている。
大体そう広くもない敷地内である。耳障りな音をさせながら背後から近付いてきて、気付かない奴などいるわけがない。
だったら毎回わざわざ背後から忍び寄ったりせず、堂々と少年の近くに黄巾力士を停車させればいいようなものだがこちらも習慣である。
それに、正面から向き合って、それこそ何の反応も返されなかったりして自分の存在を認識されてないと実感するのは怖い、かもしれない。
これでも意外と弱点が多いのかもね。うん、私ってカワイイ。
一人で完結すると、はっきり言って粗雑な動作で太乙は大量の宝貝を地面にばらまいた。
「えーとこれはね、一昨日仕上げた作品で宝貝電話なんだけど、なんと人工知能内蔵で勝手に出て応対した挙げ句電話を切ってくれるというスグレモノだよ。しかもコードレス!!それからね、これは……」
ガラクタを一つ一つ拾い上げては楽しそうに解説を加えるが、少年の方は一瞥もしていない。一方通行で太乙が喋り倒すだけである。
しかしお互いなんの違和感も持ってないらしい。
「………あーあ」
一通りの解説が終わると太乙はごろりと地面に横たわった。なかなか良い陽気の日である。ちょっと空が眩しい。
上空にある崑崙山に居ると見上げた蒼空が近い気がする。此処で暮らしていて唯一得をしたことである。地上から見た空がどんなであったかもう覚えていないけど。
その代わり下を見たら最悪だけどねえ。
足許に何もない感覚というのは不安定で非情に怖ろしい。こんなもん別に高所恐怖症でなくてもそうだと思うのだが、やはり自分は特別らしい。特別扱いは好きである。
足許さえ見なければ高所だと気付かないし怖くもないのだ。
「ねえ、さっきから何見てるんだい?」
「……………地上が見えない」
暇潰しに掛けた声に珍しく返事があった。
「なんだ?地上なんか見たかったの?」
「………さあ」
しかも会話が成立している。これは初対面の際の『キミ名前は?』『呂望』『ああ噂の。私が此処に居てもいいかい?』『うん』以来の快挙である。
「さあって………あ、そうか。キミ人間界に戻りたいんだね。故郷に帰りたい……」
そういえばすっかり忘れていたが、呂望は崑崙に昇山してまだ幾らも経っていない。そして彼の一族は、殷の人狩りで彼自身を除く全てを亡くしたのだった。
太乙には噂好きな友人が大層大勢いて、わざわざ集めようと思わなくても様々な風説が耳に入ってくる。それに平和ボケして退屈を弄んでいる仙人たちにとって、崑崙教主直々にスカウトしてきた逸材のドラマチックな過去などというのは堪らなく興味をそそられるものであるらしい。
そういえば太乙も、最初は何処か少年を哀れむ気持ちから声を掛けた気がする。とっくの昔に忘れていたが。
「帰りたくはない。懐かしいけど……」
しかし呂望の答えは太乙の想像とは違ったものだった。
「え?なんで」
「もう僕には故郷はない。今更帰ったところで会いたい人は誰もいないし。岳も僕を受け入れてはくれないだろう」
相変わらず斜め下を見下ろしながら呂望は淡々と話す。
俯き加減に見える姿勢からイメージされるような陰鬱さはそこにない。それどころか少年の瞳には強靱な光が宿っていた。身の内に抜き身の剣を抱えているような感覚。
太乙は瞠目して目の前の華奢な少年を見た。いや、剣を。
「……ただ此処はあまりにも人間界から遠すぎて不安になるんだ。一族の復讐を果たしたい、これ以上権力によって人々が脅かされることを無くしたい。その為の力を得る為に仙人界に来たのに、それを忘れたくない」
しっかりと一言一言を区切って話す呂望は太乙にとって驚嘆すべき存在であった。もしかしたら、彼が何千年と会わずにいた『人間』に、久しぶりに遇ったカルチャーショックなのかもしれない。
未来への強固な意志を持って突き進もうとする人間が其処にはいた。
「………そっか。キミなら絶対大丈夫だよ。私が保証するから」
「信用出来るわけ?」
「あーっ、酷いなあ、私はこれでも崑崙十二仙の一員なんだから」
「名前も聞いてないのに知ってるわけないでしょう」
そういえば名乗るのをうっかり忘れていた気がする。うっかり続きの人生である。
「あー、私は太乙真人。よろしくね?」
「………よろしくお願いします」
そう言って初めて呂望は太乙の方を向いて笑いかけた。
地上に目を向けていた時と同じくその瞳は非常に澄んでいて。
太乙は嬉しくなると同時に、根拠もなく『この子はこの心を保ったまま全てを可能にしてしまうに違いない』という確信が胸に沸き上がってくるのを感じたのだった。
それは予感。その夢に懸けてもいいかもしれない、ふと思った。
「……いつ、太乙、」
「………あっれー、太公望??」
誰かが自分を揺り起こす気配に、太乙は重い瞼を上げた。
少し不機嫌な表情で太乙を見下ろしているのは、外見だけはあの頃と全く変わっていない彼。
どうやら太乙は実験の途中で机に突っ伏して眠ってしまっていたらしい。
ぼんやりと周囲を見回しながら状況を確認する。
「眠たいならとっとと寝所で休まんかい」
「だいじょぶだいじょぶ。ちょっとうたた寝してただけだから。それより用事じゃなかったのかい?」
「いや……ナタクの様子を訊こうと思ったのだが。まだまだ時間がかかりそうだな」
「まあねー、人間界ではなかなか材料とか揃わないし。どうせ修理するならもっと改造したいと思ってねー」
ラボが残っていればもっと早く出来るのだと思うけど。
仙界をなくした後、崑崙の仙道の生き残りたちの為に与えられた西岐城の一室に、破損を免れた機材は運び込んだ。太乙のラボは宝貝合金を使って強化してあったし、他の洞府よりも残ったモノは多いと思う。
「…………すまん」
太乙の考えを読み取ったように太公望は謝った。
「やめてよ君の所為じゃないんだから」
「でも誰の所為かと決めるとしたらわしの所為だろう」
「だから君の所為じゃないんだって」
「わしだ」
相変わらず太公望は強情である。あの日太乙が思ったように、太公望はまっすぐな心のまま成長した。でもそれはこの子にとって消えない痛みを増やしていくだけのことで。
残酷なことではないだろうか。
太乙は腕を伸ばすと、傍らに立っていた太公望の頭を抱え込んで胸に押し当てる。
椅子に座っている太乙の位置の方が低いので、自然太公望の姿勢は体を折り曲げたものになった。
「…………わしは子供でも猫でもないぞ」
「やだねえこの子は。少しぐらい甘えたっていいんだよ」
太乙は腕に力を込める。
「君が私に遠慮することなんてないんだよ。私は何も失わなかったし……誰も君のことを責めたりなんかしない」
「……わかっておるよ」
太公望が、苦笑する気配がした。多分この子は誰の前でも泣いたりなんかしない。こっそりとでもいいから涙を流せる場所が彼にあれば、と思う。
せめて安らげる場所とか。
……まあそういうのはあの天才君にでも任せておこう、癪だけど。
今してるのはただの気まぐれ。
「で?いつまでこんなしんどい体勢させれば気が済むのだ?」
「ああごめんごめん」
太乙はぱっと手を離す。手品師が『種も仕掛けもございません』などと言うジェスチャーみたいに掌をひらひらと振った。
「……ったく、腰が曲がったらどうしてくれる」
「いいじゃない。見た目もジジイみたいになって」
にやにやしながら言うと、ダアホ、といつもの口癖が返ってきた。
「まあぶっちゃけた話、私はみんなみたいに、大切な人を誰も失ってないからね」
「ウソつけ」
あ、即答。
「おぬし自分の言ったことにくらい責任を持ったらどうだ?」
「やだよ面倒臭い」
太公望ははあやれやれ、と言いたそうな表情をして首を振ると、まっすぐ太乙の瞳を見つめた。太乙がその瞳に弱いということを知っているみたいな行動である。……いや、実際酔った時にでも話したかもしれない。本当に太公望には色んなことを話しすぎたから。
お手上げである。
「おぬし……、実はあの時一緒に玉砕したかったなどと思ってはおらぬだろうな……」
「………それはないよ」
ウソをつくのはやめようか。
「実はねー、ナタクの修理も応急で良ければもっと早く出来てたんだよ?駆け付けようと思えば出来てたかもしれない。
……でもね。もし私が死んだらナタクは誰に修理してもうのかなって、考えたらどうしようもなくなっちゃって、この子を置いて逝けないってずるずるとね……」
しんみりしたムードを払拭しようとしてあはははは、と笑ってみるが、我ながら乾いた声が響いただけだった。逆効果。
「…………良いのではないか?おぬしにも守りたいものが出来たということで」
「でもさあ、ふられて自棄になってアイツがいなけりゃ生きてけないとまで思い詰めたりしてて。で、結局ソイツ見捨てて今のほほんと生きてるわけだよ?」
「……いつの間にか大切なモノが出来てたのが不満か?」
「ううん。………あ、そっか」
ぽん、と手を打って納得ポーズ。
「忘れられないってのは納得出来ないのと紙一重だから。アイツの気持ちが解るようになって納得出来たから拘りはなくなってたのかもね」
ね?と同意を求めようとして傍らを見上げれば小柄な姿は其処になく。
「………ま、だからと言うてそれまでの気持ちまで否定するなよ」
背後から椅子の背越しに重みが加わった。
腕が首に回ったが、別に首を絞められたわけでもなく、甘えるように凭れ掛かられたのだと判る。
「キミがそーゆーことするのって珍しいね」
「わしは猫だからな」
それらしくてよかろう、と言う口調はやはりいつもの偉そうなモノだったから笑ってしまった。
「……まあ君にちょっかいかけてたのは猫を構うようなモノだったって言ったのは私だけどね。それまでは猫すら可愛がったことなかったんだから凄い進歩だよ。おかげでナタクのことは目一杯愛せるようになったし」
「わしは実験台か」
あ、暖かくていいかんじ。スキンシップってやつだね。
「あーあ、こんな処を君の天才君が見たら封神されちゃいそう」
「わしはされんから安心して逝け」
「………酷いや」
「人肌に触れると安心出来ると教えてくれたのはおぬしだったと思うが?」
自業自得だ、なんて。ああ非道い。
慰めてくれたつもりなのもよーぅく解ったけど。
ナタクじゃこうはいかないし。
「あ、忘れてた」
「なんだ、元十二仙サマは相変わらず痴呆症だのう」
そのままついでのように太公望は体を離した。ちょっと惜しかったかもしれない。
「君に起こされるまで、昔の夢見てたんだよ。君と出会った頃の」
太乙は嬉しそうに微笑んだ。
「……ふぅん、センチに浸っておるわしの元に性懲りもなくおぬしが現れては、ターゲットを決めると金を貰うまで離れない招き猫型貯金箱だの殺傷効果のある目覚まし時計だののアホみたいな宝貝を見せびらかしてたというアレか。子供心に病んだ奴だと気味悪がってたものだったが」
「……………酷いや」
ぼろくそに貶されて宝貝作りの匠は落ち込む。
「……でも私の話を聞いてたんなら相槌の一つくらい打ってくれても良かったのに」
「家の教育でのう、怪しい大人と口を利いてはならぬと教えられていたのだ」
………本当にひどい。
「ま、追い返さなかったわしも人恋しかったのかものう」
そう言って、太公望は喰えない笑みを浮かべた。可愛い内容とふてぶてしい態度がなんともミスマッチである。
……確かに応えがなくても毎日彼に話しかけていた太乙も人恋しかったのかもしれない。基本的に他人に興味なんてなかったつもりだったのに。
そう考えると、あれはあれなりに二人でコミュニケーションが取れていたとするべきか。
強い瞳をした子猫に出会ったのが始まり。
「ではのう。近いうちにわしはまた留守にするがナタクの修理頼んだぞ」
「へえ、どのくらいかかるんだい?」
「どこにいるともしれぬ者が目当てだからのう……期間はさっぱり判らぬよ」
「……目当てってひょっとして太上老君とか」
「うむ」
「…………楊ゼンには言ったのかい?彼の機嫌が悪くなって虐められるのは私なんだから」
苦い口調で言うと、太公望はあからさまに視線を泳がせて口笛を吹く。
……言ってなさそうだし。
「ま、君が帰ってくるまでにはナタクも戦線復帰出来るようにしておくよ」
「うむ」
生返事だけして、振り返りもせずに太公望は出ていった。
このくらいでも君の役に立てるならね、太乙は口に出さず思う。
汚れないあの瞳を守る為なら頑張ってみるのも悪くない。
それくらいしか出来ることもないのだけれど。
何かの為に命を懸けるなんて馬鹿らしいけど、太乙の好きなあの瞳が今歴史を動かしていることは単純に嬉しい。
潔く散って逝った同僚たちのことは少し羨ましくもあるけど。
「………安心してていいよ、みんな。見守るくらいなら私にもしてあげられるしね」
だから怨まないでね。怖いから……特に普賢。
結局のところ、高所に居なかろうが苦手なモノの多い太乙であった。
〈了〉