まわれ まわれ
手を叩いて 足を踏み鳴らし
拍子に合わせくるくると
野原には生贄の子羊
取り囲みながら
宴果てるまで踊りましょう
 
 
 
 
 
殺人幇助
 
 
 
 
 
 
取り立てて美しい場所でも珍しい場所でもない。
ただ、埃と歳月が幾重にも積み重なっているだけの物置場の一つである。
後宮に近いそこは、他の書簡や日常品を納めた倉庫と違い、瀟洒な細工の施された家具や嗜好品のような物が主な中身であることだけが、違いといえば違いだった。
美しいそれらの道具は、きちんと手入れされ整然と並べられておりながら、主を持たない物の持つ空虚さからは逃れられていないようだった。
昼でも暗いその場所に、楊ゼンの探し人は居た。
窓一つないその一室には明かりらしき明かりはなく。
たった今開いた両開きの扉から、顔を出したばかりの下弦の月が一筋の光の道を作るのを太公望は眩しそうに見詰める。
「全く……何してんですか」
床に座り込んだ太公望の白いズボンが埃を被って灰色に煤けているのに目を留めて、楊ゼンは溜息を吐いた。
その問いには答えず、太公望は唇の端を心なしか持ち上げる。
その腕には、楽器が立てかけられていた。棹の先端が馬の頭の形をしている。馬頭琴……というのだったか。楊ゼンは、見たことのない楽器を知識と照合して、そう判断した。
「探したんですよ。この書類ですが、裁可の印を頂きたくて」
先程の溜息などなかったかのように、楊ゼンは優雅に微笑んでみせた。背後から月の光が透けるように彼の輪郭を彩り、容姿の端麗さと相俟って一種夢幻的な雰囲気を醸し出している。
 
 
太公望の私室を訪れた際。いつもと違ってノックの音に反応しない室内を楊ゼンは訝しげに窺った。気配を探ると、部屋の持ち主が室内に居る様子は感じられない。
もしや、よっぽど巧妙に気配を消して隠れているのでは、と、無礼を承知で扉を開けて侵入してみても、やはり望む人はそこには居なかった。
手元の書類を意味もなくびらびらと泳がせて、楊ゼンは思案する。
彼の人の裁可印が欲しかったのだが、取り立てて急ぐ物ではない。元々時間外の残業を自室でしているのは、楊ゼンの勝手というものである。
しかし、太公望もまた、夜遅くまで書簡と睨めっこをしていることが多いということを知っていたからこそあえてやって来たのだが。……勿論、書類にかこつけた下心は、ばっちり所持していたりするにしても。
そのまま帰っても支障はない。太公望が既に就寝しているのなら、そうするつもりだった。
しかし、居ないというのは。
しばし逡巡した後、楊ゼンは踵を返す。想い人の姿を探し歩いて、ようやくこの場所に辿り着いたのだった。
 
 
「心当たりの場所を当たってみたんですが、何処にもいらっしゃらなくて」
埃の積もった床の上には、足跡が一人分。
その後をなぞるようにして、楊ゼンは太公望の眼前にまで近付く。しばし躊躇した後、膝を床の上について正面から顔を覗き込んだ。
「では、何故此処だと判ったのだ?」
楽器を降ろすでもなく、太公望はやや首を傾げて尋ねる。感情の起伏が激しくないのを除けば、平常通りの様子である。それとて、楊ゼンの前では珍しくない。
太公望を発見してから、楊ゼンは何とはなしに違和感を感じているのだが。その正体が掴めず、初めて訪れたこの部屋の所為だと思うことにする。
「それは……仙気を辿って来たんですよ」
至極当然の返答。それが気に入らなかったらしく、太公望は顎を突き出すようにして膨れてみせる。整った楊ゼンの頬をつまみ、軽く引っ張った。
「無粋な奴だのう……こういう時は、楽の音に惹かれてやって来たくらい言えんのか、その口は」
「ひぇ、ふぁの?」
口の端が伸びて上手く喋れない。混乱した楊ゼンの色男も形無しな様子に吹き出して、太公望は手を離した。
少し赤くなった頬をさすりつつ、途方に暮れた楊ゼンは改めて太公望の抱える楽器に目を遣った。
手入れは悪くない。やや黒ずんだ木目から年代物と知れるが、箱形の胴に張った皮はかなり新しいものである。太公望は愛おしげな手つきで長い棹に白い指先を這わしていた。
それに暫し見とれ、そして一瞬後、楊ゼンはますます困惑する羽目になる。
太公望の手袋を外した手には弓らしき物は握られていないし。
そもそも、その馬頭琴は。
弦が切れているのだ。
 
混乱する楊ゼンを後目に、太公望は大きな欠伸を一つした。
 
 
 
 
 
 
 
 
「こら」
机の上に並べられた薬品の壜。その一つに伸ばそうとした手を、即座に太公望は引っ込めた。
「死ぬんなら余所でやってよねー」
いつの間にか背後に立っていた黒衣の仙人――現在は白い袷の夜着を着ていたが――が、悪戯を咎めるように軽く太公望の頭を叩く。
「別にそういうつもりじゃない」
むっとした表情を隠しもせず、太公望は太乙を押し退けて元来た道を戻った。
住居兼研究室。
奥の、気怠い雰囲気を残す一室。寝台の上に、勢い良く腰を下ろした。
すぐに顔を顰めるのを面白そうに眺め遣りながら、太乙はぶかぶかの夜着の裾を直してやる。
「はい水。咽渇いてるでしょ」
今持ってきたばかりの水差しから、玻璃の器に冷水を注ぐ。手渡されたそれを、太公望は躊躇いなく飲み干す。実際咽はからからだった。
「呂望ってば、咽が渇いたから危険薬品が飲みたくなったって訳でもないよね?」
「太公望」
「ああそうだった太公望」
にこにこした、ちっとも済まながっていないと判る表情で太乙は訂正を受け入れた。その憎らしい程の平然さが、却って無言の圧力になっている。
「……別に死ぬ気はないよ」
そのまま仰向けに倒れ込む。その隣に太乙も腰を下ろした。
「ただ……」
「ただ?」
「楽だろうとは思うがな」
まだ人間の年齢でも五十歳には達していないというのに、疲れた老人の溜息を吐く。
そんな太公望の黒髪を、丁寧に太乙は梳いてやる。その手つきを、まるでペットの毛並みを撫でているようだと、太公望は密かに思う。
この男の人生にとって、太公望の存在は何の意味ももたらさない珍客の域を出ていない。一種の無関心が、無償の好意の源であるとやや疲れた頭で理解していた。一抹の寂しさを、見ない振りをしてやり過ごす。
「そういえばさぁ……この間元始天尊様に会った時に、君に仙人への昇格試験受けさせてあげるように頼んだんだけどね。能力的にも資格は充分にあるし」
「余計なお世話だな」
「うん……元始天尊様も難色を示してたみたいだったねぇ。私は、てっきり君を次の十二仙候補にするつもりだと思ってたんだけど」
これはあれかな?呟いた言葉をあえて無視する。崑崙教主や最高幹部たる十二仙たちが水面下で何事か動いているのは察知していたが、それが自分に関係あろうがなかろうが、基本的にどちらでも構わない。
大切なのは己の目的のみ。
「だったんだが……」
「え?」
両腕を顔の前で交差させた。自然の灯りではない、蛍光灯の光に違和感がなくなってどれくらいになるだろう。
「ねぇ呂望……」
「太公望」
「うんうん太公望」
したり顔で太乙は頷く。
「もうちょっと非行に走っても良いと思うよー?色々ネタには困らないんだし」
「なんじゃそりゃ」
太公望はごろりと身体を反転させた。太乙に背を向ける形である。
「他人を恨んだり憎んだりするのは原動力になるよー?楽だし。死んじゃいたいなんて思わなくなるよ?」
「……死にたい訳じゃないとゆーておろーが」
殷の皇后が憎い。
その気持ちが全ての根底にあって。
 
 
世の中全体を変えない限り、幸せは訪れない
 
 
皇后一人を殺したところで、殷は羌への迫害をやめないだろう。
殷の人間を皆殺しにしたら?新たな支配者が新たな被支配者に迫害を加えるだけだ。
大多数の殷人は、直接羌に危害を加えた訳ではない。喜びがあって哀しみがあり、日々を懸命に生きているだけの彼らに断罪を加える資格が己にはあるのか?
力が欲しかった。
だが、仙人界で力を付けた後、一体何処へ向かえば良いというのか。
 
「結局優しすぎるんだよねー、太公望は」
今度は名前を間違えずに、思考を見透かすように太乙は苦笑した。
「人間が大好きなら、仙人を憎んだらどうだい?崑崙にも嫌な奴はいっぱいいるよ?」
殷の皇后は妖怪仙人なのだという。
仙道が、その大きな力で人々を苦しめている。それは許せない。
崑崙へは、力が欲しくて来た。力を得る為に、人であることを捨ててまで。もうこの身は岳へと還ることが出来ない。『呂望』という少年は死んだのだ。
太公望がかつて己の中で殺してしまったその少年。復讐を成し遂げることは彼に対する責任を取ることにも繋がる。
交差していた太公望の左腕を太乙が取る。長い袖を捲ると、薄くなった刀傷の痕を指でなぞりながら含み笑う。顔を庇って出来たその傷が出来た時の事情を、太乙は知っている。
「ひがみ根性ばっかり発達したバカにこーんなことまでされちゃってさ。キズモノにもされちゃったし」
笑い。
「……良い奴も大勢おるよ」
おぬしは除くとしてだ。言い放つと、腕を掴む手を振り払って太公望は再び身を起こした。
「おぬしが色々と変な奴に引き合わせるから。わしは崑崙の仙人を憎めなくなってしもうたわ」
さり気なく傷を隠しながら、太公望は笑う。傷は一箇所だけでないのは、お互い知っているにしても。
「わしは何を原動力にすれば良いのだろうなぁ……」
しがみつく腕を探している。何処へ行けば。何を目指せば。
そっと、瞼を閉じ、また開く。
優しい村が炎に飲まれた光景を、覚えている。
黒い煙が流れてきて、噎せて。
それでも動けなかったのは、恐怖で身が竦んだ訳ではなく。
瞼に浮かんだ幻影は、火達磨になり、血飛沫を上げ、家畜のように縄を掛けられる家族。同胞。そして、身の危険を顧みず、おそらくは何も考えずに炎渦巻く村へと戻っていった一婦人。
それを、じっと見ていた自分は。
 
「ごめんねぇ……」
肩で切り揃えられた黒髪がはらり、と眼前に落ちてくる。耳元で、囁くように声がする。
「私は所詮君を死にたがらせる側だからねぇ、君の愚痴は聞けても救いにはなってあげられない」
突き放すようなその言葉を、当然として受け止める。
多分此処にいては、腐っていくばかりの自分。
無性に息が吸いたくなった。箱庭の中ではなく、広い大地の上で。
羽を持つ知り合いに見当を付け、買収の算段を練る。
鬱陶しい手に髪を撫でられている。意識は外へ向かいつつも、もう少し微睡んでいたい欲求に負けて、太公望は再び目を閉じた。
 
 
 
 
 
 
――そして。箱庭の外、太公望は救いに出逢ったのだ。
 
 
 
 
 
 
「どうしましたかな?」
我に返ると、老人が居た。
見覚えのある老人と思ったのは当然で、記憶にある若々しい様とはまるで違うが、脳裏に刻み込まれた姫昌その人である。
約20年前、彼の姿を見たことがあるというのは姫昌には秘密だった。隠すことではないが、彼にすら言わずに大切に取っておきたい部類の記憶なのだ、姫昌という人物に関しての思い出は。暗闇で藻掻く中、やっと見付けた彼の目映い太陽。
内緒の宝物を誰にも解らない場所へ仕舞っているように、わくわくしている。
「いや、少しぼーっとしておった」
「良い陽気ですからな」
つられて窓に視線を走らせると、降ろした簾の隙間から零れるように光が差し込んできている。
「よし、わしが簾を巻き上げてきてやろう」
「かたじけない」
案の定、外は快晴。一足早く春が来たかのような温かい日差しである。
寝台に休む人の顔に直接日光が差し込まないように、太公望は簾の高さを調節した。満足すると、そのままいそいそと寝台の傍らに設えてある腰掛けに座り直す。
「それとも、こんな老人の話し相手は退屈でしたかな」
「とんでもない」
「はは……お気持ちだけ受け取っておきましょう」
柔らかく笑むその姿が、どれ程心を温めることか。
朝議の前、こうして寝台に横たわる姫昌と取り留めなく語ったりするのがここのところの太公望の日課であった。
一日の内の寝台にいる時間が日に日に多くなっている老人の健康のことを、この時だけは忘れていられる。
それだけでない。この身に纏わる全ての物事が、忘れられるような気がした。
かつて、強く瞼に焼き付けた彼の人が、眼前で笑うのだ。不可能などあろう筈もない。
姫昌を王にすること、それだけが今の太公望の望みである。姫昌にこの天下全てを与えてやりたいと、狂おしい程に祈らずには居られない。
この度量の広い、この生まれながらの帝王に任せさえすれば、全てが上手くいくのだ。
ほぅ…、うっとりと微睡むような溜息を太公望は吐く。
羌の少年を殺して以来、初めて訪れたと言って良い程の安息の中に、太公望は居た。
「ほら、そのようにつまらなそうにする」
「だからそういう訳ではないのだ」
「遠慮せずに。そうですな、今度何か楽を奏してみましょうか。徒然の慰みになれば良いのですが」
「おお、それは是非聴きたいのう」
実際、楽の名手だという姫昌が腕前を披露したところを太公望はまだ見ていない。もし姫昌が平凡な奏者だったとしても、聴きたかったに違いないが。
「腕前は兎も角、一通り何の楽器でもこなせますからな。城には大抵の楽器は揃っています。お望みとあれば、どんなものでも」
謙遜混じりの姫昌の申し出。「何でも良い」と、応えようとして。
「……………馬頭琴はあるのかのう?」
ふと、零れた。
「祖母が嫁いできた時に、持参してきた物があったはずですな。楽器庫とは別に、今でもお祖母様の遺品と共に仕舞ってあるはずです」
「ああ、おぬしの祖母の太姜は羌の出であったな……」
会ったこともないその人を、思い描く。こんな風に温かい笑顔を持つ人だったのだろうか、その女性は。
「太公望殿の演奏も聴きたいものですな。楽の音は、奏者の心の内を映すと言いますから」
「こんなエセ楽師に怖ろしいことを言うのう」
顔を見合わせて笑う、こんな時はひどく満ち足りている感覚に陥って、怖ろしいことは全て悪い夢ではなかったのか、そんな気さえしてくるのだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
あの後は、暫くしてからやって来た周公旦を交えて政務についての方針を話し合い、姫昌を残し旦と共に文官達に指示を飛ばしているうちに日が暮れた。
姫昌から聞いた場所から件の楽器を持ち出し、調弦を始めたのはその後である。
姫昌と度々散歩した、彼のお気に入りの庭園。
太公望は小さな四阿に腰を落ち着かせ、質実な西岐においては珍しく華やかな印象を与える殷風の庭園を見渡す。携帯してきた灯火の届かない範囲は闇に塗り込められているが、日中に姿を見せる華やかさの中にも芯の通った落ち着いた雰囲気を感じるのは、やはり主の人柄によるのであろうか、などと考える。
二弦の糸の張り具合を、時々小さく爪弾いて確認しながら調節していった。
優しい音色が、紡ぎ出される。馬の尻尾で出来た弓を手に取ると、試しに一節を弾いてみた。幼い頃母に聴かされた子守唄。優しい、落ち着いた音色は懐かしい母の声で。
暫し、太公望の意識は西岐の庭園から遥かな草原へと遊離した。すうっと心身が遠く分離する感覚。
懐かしい風の予感を肌に感じかけて。太公望の意識を引き戻したのは人の気配と低く柔らかな声。
「お邪魔でしたかな」
「いや……姫昌。おぬし、こんな夜に」
闇を割って現れたのは、この庭の主。
「身体は大丈夫なのか。横になっておらねば……」
「心配はご無用。あなたの楽の音に惹かれて、ふらふらと彷徨い出てしまった」
軽薄に聞こえかねない台詞も、姫昌の口から発せられると途端に重々しく聞こえる。妙なところに感心しながら、太公望は闇の所為か、昼間より窶れて見える顔を眺め遣った。
傍らの椅子に姫昌は腰掛ける。
「いや、でもまことお上手だ。馬頭琴を扱ったことがあるので?」
「……本当のところ、何故来た?」
殊更明るく振る舞う姫昌の面を覆う憂愁に気付いてしまった太公望は、遮るようにして切り込んだ。錯覚であって欲しいと、祈りながら。
「――やはり太公望に隠し事は出来ないな」
だから、いつも背筋を真っ直ぐに伸ばしていた姫昌の背中がやや丸みを帯びていることを認めるのに時間が掛かった。頭の一部、どこか冴えたその部分でひどく納得している意識をねじ伏せる。
「よく眠れなくて。もう年ですかな。……色々なことを考えてしまって」
両腕で琴を抱え、まるでしがみつくようにして、それでも太公望は先を促した。
「……おぬしの息子のことか」
途端、絶望に歪んだ老人の顔を、呆然として太公望は見守った。
「私は……自分が生き延びる為に、息子の肉を喰らったのだ……」
彼の拒食症の原因。その身に纏う暗い闇を、何故ないものとしておれたのか。20年前の太陽のように輝いていた男と、目の前の哀れな老人は、最早別人のように見えた。
「おぬしは……伯邑考の犠牲は妲己の所為なのだぞ」
かつて自分に言い聞かせた。悪いのは殷の皇后だ。
「何度もそう思った。伯邑考が永らえさせてくれたこの命を使って、あの子の仇を取るのが唯一私に遺された罪滅ぼしだと」
仇を討つまでは死ぬことも許されない。
「その為ならどんな重圧にも耐える覚悟を決めたというのに……」
姫昌は、がくりと頭を垂れ、手で顔を覆った。
「憎いのは妲己でもなく殷でもなく、この卑しい私なのだ」
憎いのは自分自身。
彼の拒食症という形を取った自己破壊を、責める権利を持たない。
「積極的でなくとも、私は息子の死を利用した。私は殺人者の一味なのだ……」
溢れ出すように、懺悔。その堰を切ったのは、自分。
太公望は、眩暈に耐えた。
忘れたと思っていた自分。それにこんな形で対面する。
あまりの皮肉に、太公望は思わず笑い声をたてるところだった。
聖人など居ないのだ。何処にも。
この世には弱き人の子のみが住まわっている。
20年前の英雄。他民族の為に自国の民を餓えさせるのは、一歩間違えば非常に愚かな君主。
羌を助けて当たり前なのだ。彼にも羌の血が流れているのだから。他の全ての民族に寛容で在れるか?
そもそも自分自身、彼が他の民族を助けていたとして、ここまで心酔していただろうか。
馬頭琴、懐かしい音色を聞いて、涙が零れそうにはならなかったか?
『呂望』は死んだと言っておきながら、何故自分は此処で生きている?
癪に障るあの仙人が何時までも彼の名を間違い続けたのは。哀れむような目つきをしてみせたのは。
『呂望』は死んでいなかった。自分は少年殺しなどしていなかった。
自分が生き残る為に、少年は一族を見殺しにしたのだから。
目の前で炎が踊っている、幻覚を見た。燃え尽きた故郷。それをじっと見ていた過去の少年。
愕然と、太公望は罪が突きつけられるのを悟った。
本当に憎らしかったのは己。
復讐の対象であったのは己。
無様に這い蹲るちっぽけな己の存在。
「だが私には死ぬことは許されない……。伯邑考から奪った命を投げ出せない。無様に生き続けることしか私に贖罪の方法はないのだ」
血を吐くような懺悔は続いていた。
姫昌は死にたがっているのかもしれない。
自分は死にたがっていた?
重圧、太公望によって更にもたらされた重圧に、藻掻き苦しんでいる人の子。
 
『おぬしが次の王となるのだ!!』
 
哀れな老人を、贄に使って自らの重圧から逃れていた。
「…………姫昌」
太公望は、老いた男の背中に優しく手を置いた。祖父を労る孫、のように見えるだろうか。
「大丈夫だ。おぬしがやり残したことはわしが完成させる。絶対に」
少しは安心させられただろうか。
「気負わずとも良いよ……」
「太公望………」
同じ罪を負う罪人。贖罪に焼かれる哀れな同胞。
「……済まない……取り乱してしまったな……」
姫昌は、のろのろと顔を上げた。そこには、今までと同じ、温厚な長者の顔がある。しかし、太公望はもうそれを見ても生まれつきの王者とは見えなかった。
「気にするな。吐き出してすっきりしただろう」
さばさばと笑い飛ばしてやる。
「ああ、楽を奏でる約束をしたが……、反古にさせてはもらえまいか」
穏やかな笑みを、姫昌は見せた。
「楽の音は奏者の心を映す。私は……本当の自分を曝す勇気がない。資格もない……」
やや翳った表情。それに力強い笑みを返してやる。この老人が20年、太公望の生きる支えであったように、老人の残り少ない余生の支えになってやるのも良い。
笑顔のままで、懐から短刀を取り出した。片手で、鞘を抜き取る。
 
ぶつん。
 
大きな音を立てて、調弦したばかりの糸が、切断される。
「わしにだってそんな資格はないわ」
一面の闇を払うような、光。姫昌は、太公望の顔にそれを見た気がして、僅かに目を細めた。それに縋るようにして問い掛ける。
「太公望………私の罪を許してくれるか?」


「許す」


一言。
 
 
この瞬間、太公望は姫昌の贄になることを決意したのだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
どこからか、楽の音が聞こえた気がした。聞いたことのない、低く、柔らかい音色。
その幻聴を、楊ゼンは小さく首を振ることによってやり過ごす。
自分の世界に没頭しているような恋人にやや焦りを覚えて、楊ゼンはその肩を揺すった。
「ねぇ……師叔。もう戻りましょう。いい加減にしないと風邪を引きます」
「のう楊ゼン……」
不意に掛けられた声に戸惑う。
「はい?」
斜め上、自分の方を見上げた太公望の顔。特徴的な碧い大きな瞳に、楊ゼンの顔が映し出されている。引き込まれるような錯覚。
「おぬしはわしの罪を許すか?」
引きずり込まれる。
その強い視線に耐えきれずに、楊ゼンはやや狼狽して視線を一瞬外した。
そして、完璧な、慈愛に満ちた笑顔で再び恋人の顔を覗き込む。
「……あなたが何の罪を犯したのかは知りませんが。それがあなたのしたことなら、どんなことだって僕には許す自信がありますよ。
なかんずく、その罪を一緒に背負うことだって可能でしょう?」
それには答えずに、太公望は大きく息を吐いた。そのぶかぶかとした道服の上着越しにも、僅かに肩が下がったのが判る。
「………下手な嘘を吐きおって………」
「え?」
小さな呟きを、楊ゼンは聞き逃した。
「何でもない。行くとするか」
そのまま、乱暴に楽器を投げ捨てた。慌てて拾い上げる楊ゼンの傍らを擦り抜けて、立ち上がった太公望はずんずんと扉に向かって歩く。
「さてと。先は長いぞ」
言い聞かせるように、断言して。
大きく扉を広げる。
その先には。
一面の暗闇、灌木の先にはぽっかりと空いた穴。
 
下弦の月が、安っぽい出口のように、歪な切断面を見せていた。
 
 



 
 
 
 
 
 
まわれ まわれ
手を叩いて 足を踏み鳴らし
拍子に合わせくるくると
荒野には生贄の子羊
独り彷徨いながら
宴はまだまだ終わらない
 
 
 
 
 



 
 
 
 
 
 
 
〈了〉
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はあ……相変わらず暗いですねぇ……。
元々このタイトルで太太の遣り取りだけの予定だったのが、姫昌様熱に煽られた結果こんなものに。
私にはまだ重すぎたテーマだったようです。表現出来てない。
本当に、私の太公望観の根底にあるテーマなので、機会があればまたじっくり掘り下げてみたいものです。

途中から姫昌様の口調が変わったのは、わざとです。
45回では太公望に敬語使っていた姫昌様。48回では急にタメ口なんですねぇ。そして、その48回が料理バトルと姫昌様の拒食症がテーマの話。
この間になんかあったんじゃないかとの腐れ女の妄想発生。まあ、書き上がってみると48回と49回の間っぽい感じになっちゃいましたが。
あ、最初と最後の唄(?)は勝手に稚拙な創作。焚き火を囲んで踊っているような、祭囃子っぽいイメージでお願いします(苦笑)。

そして馬頭琴。
これは各方面に謝罪ですが。
ツッコまないでください、判っててやってます。
モンゴル民族と、チベット系の羌族を一緒にしちゃいかんですよね。
そして絶対この時代に馬頭琴なんか存在しないですがな。
音楽関係の方、歴史研究やってらっしゃる方。不快になられたらすみません……。
ですがそれを言っちゃえば琵琶だってなさそうなので、王貴人ちゃんは何者?とかいうことになるので、アバウトでいいのです(断言するなって…)。
そもそもこの時代の楽器って、つり下げて叩く鐘とか、太鼓とか、そんなものしかなさそうなのですが。
いつも愚痴ってますが、そもそも丼村屋がチェーン店経営しててピザまん売ってるような古代中国で何の時代考証をしろ、と?(^ ^;
紙は後漢の発明品なのでわざと出さないようにしてたら、竹簡も春秋時代の発明?(怒)←自分の無知に怒っても。
フジリュー封神の太公望や周公旦が金属の鼎とかに文字書いてお役所文書作成してる訳がないので、ちゃんとコミックス中で何枚も紙が出現してることを免罪符に開き直って紙の書類まで出してしまいました、今回。
まあこんなこと、大多数の読者様にはどうでも良い話だとは思いますが。文章が下手なだけに、こんなことにまで拘らずにはおれません……。
何故馬頭琴かと問われれば、遊牧民族的なイメージで、中国人にとっても異国情緒を感じるような楽器だったからです。ご了承を。
そして、広辞苑とアルトジンの台詞(『天○の血族』…)以外に参考資料がないというのがまた致命的。

久々の駄文更新がこんなので、申し訳ございませんでした……(-_-;;
次はもっとマシなのを書きたいです……。