天上では、夫婦星が年に一度の逢瀬を重ねる夜。
地上では、華々しく飾り付けられた街の其処此処に灯される、偽物の星。
浮かれ騒ぐ街頭には溢れんばかりの、天の河ならぬ人の波。

頬を赤く染めた子供達は一様に七夕の土人形の仮装姿、蓮の葉を手に波の隙間をかいくぐって走り行く。
 
日没を迎え、華やかさに加えた艶めいた表情を恐る恐る見せようとしているこの時刻、天の星と地の星の狭間にあって、その両者を楽しめる場所があった。
酒楼の二階、欄干から身を乗り出すようにして、店々の門口で豪奢さを競う乞巧の楼・供え物や、通りを行き交う人々を眺め遣っているのは流しの箚客(うたうたい)。宴席に侍るでもなく所在なげにしているのが、その少年めいた幼い面貌と相俟って、やや色街には不似合いな具合。
しかし、そんな短髪の少年に目を留める人間はそう多くない。黒い装束ではない、極一般的な麻の着物を纏う姿は、人中にあって人目を惹く存在ではなかった。
唯一違和感を覚えたかもしれないのは先刻少ない荷物を放り込んできた安宿の主人、記入された宿帳に
 
太公望、同行二人
 
と書かれてあるのを見て首を傾げた、それだけであろう。
 




 
 
「う〜〜、あつい、暑いのう……」
その太公望は、傍らに商売道具の阮咸を放り出したまま夕涼みと決め込んでいた。しかしあまり効果はないらしい。全く、どこが秋になったというのだ、などとぶちぶち文句を言いつつ瓜を齧っている。
『だったら暦変更させるなり雪降らせるなりなんだってしろよ……』
うんざりした声音で吐き捨てたのは、既に長い付き合いになってしまった同行者。ただし、その姿はない。
「ぬう、だがのう、王天君……」
半身相手に尚も愚痴が続くが、王天君は無視することに決めた。その存在を共有して早幾年。初めは口に出される言葉、それと裏腹な内心、その奥に隠された本心、ダイレクトに伝わってくる様々な情報にクソ真面目にも一々反応していたものだが、その全てを聞き流す術を覚えて久しい。
そもそも、人で溢れかえっている祭りの晩、通りに比べれば風の良く通るこの二階は随分と涼しい筈だ。太公望もそれを承知で、暇を持て余して口を動かしているだけである。それに、例えば新都洛邑、雲にも届きそうな大酒楼の楼閣の上で涼むことが出来たとしても(また彼には不可能ではないのだ)、この半身は行き交う人間の表情すらつぶさに見ること適う、この場所を選ぶに違いないのだ。
都市の祭日、十五日の中元節が明けるまでは暫くお祭り騒ぎも続く。それまで太公望はこのちょっとした規模の地方都市に居座り続けるつもりだった。
 
そんな人混みの中に、一際目立つ一団がいる。滅多に着られぬ晴れ着なのだろう、華やかな色彩も眩しい色とりどりの衣に身を包んだ娘達の集団は、お互いを小突き合いながら笑いさざめいていて、目にも耳にも賑々しい。箸が転がっても可笑しい年頃、というやつである。
瓜を食べ終わり、指先を猫のように舐めて拭うている姿が目を惹いたのか、中の一人が太公望の方を指差した。お互いでひそひそと、何やら言い交わしている。
半ば冗談で、太公望はにっこりと純真そうな笑みを浮かべると、一団に向けて小さく手を振ってみた。
娘達。ぽかんとした表情で数歩行き過ぎた後、突如「きゃ――――っ」などと黄色い歓声が上がった。
「可愛いーっ」「連れて帰りたーいっ」好き勝手なことを言い合いながら、太公望の方を振り返るでもなく、ますます騒々しく小走りに走り去っていく。通行人にぶつかったらしく、通りの向こうでまたちょっとした騒ぎを起こしていた。
「か、かしましいのう……」
予想以上の効果に、流石に呆れて呟けば。
『けっ、一文の得にもなんねー相手にコビ売ってんじゃねぇよ』
半身からの忌々しげな応え。
「……ほう、損得勘定で物を測るようになるとは、大分わしの影響を受けてきたようだな」
むしろそれに気を良くして、太公望は揶揄混じりの笑みを浮かべる。
「それとも嫉妬か?」
「――あら、そこまで落ちぶれちゃいませんけどねぇ」
ムキになった王天君が言い返す前に。
太公望の肩の上に手を置き、ひょいと欄干下を覗き込んだのは、紅の着物が目に鮮やかな女。
「いや、今のはわしの独り言だよ」
一瞬跳ね上がった心臓の音をすぐに静め、如才なくその場を言い繕う。太公望にしろ王天君にしろ、紅い爪をした繊手に思い出すのは一人の女で。それに関しては王天君の影響が太公望にも染み込んできたということか。
「あたしみたいな苦界の女が言うのもなんだけどね」
と、伎女が紅い爪で指し示すのは例の娘達。
「昔の若い娘はもっと嗜みがあったと思うんだけどねぇ。七夕になると織女星にあやかってお針の上達を祈ってね、娘達は皆小函の中に一匹の蜘蛛を入れとくんです」
粗暴な言葉と客用の言い回しをちゃんぽんに、伎は自分の若い頃を思い出すように目を遠くに向ける。
「朝起きて蜘蛛がきれいに糸を張っておれば裁縫上達間違いなし、というやつか」
後を引き取ると、伎はうふふと朱唇を綻ばせた。
呼ばれてもいないのに勝手に酒楼に入り込み、外から料理を持ち込んで代金を取ったり、声も掛けないのに宴席に侍って一曲謡っては駄賃をせしめる芸人などの存在はもはや常識であるが、今日この街に辿り着いたばかりの太公望がこのようなそこそこの格式の酒楼に上がり込めたのは、彼女の口利きによるところが大きい。
「ああ忌々しい。若い生娘に夜まで出張って来られちゃ、あたしなんて勝ち目ないじゃありませんの、ねぇ?」
伎女としてはもう若くない女は、故の母性本能か、幼い外見の太公望を気に入ったようだった。
「いや……小娘どもでは、己を美しく磨くことにかけては到底花魁に敵わんだろう?」
「……………いやぁだ。ガキのくせにいっちょまえの口きいて」
弛む頬を手で押さえ、そそくさと女は立ち上がる。
「ぼうや、お座敷へはいいの?」
「うむ、まだこの時間帯では大した客はおらんしの。わしは後からやって来る上客にターゲットを絞っておるのだ!」
「じゃあごゆっくり」
動揺を完璧に押し隠した伎女は、銀の食器を手にたまたま通りかかった大伯(ボーイ)と二言三言言葉を交わすと、裾捌きも鮮やかに客室へと引っ込む。太公望の方を胡散臭そうにちらりと見て、大伯も仕事へと戻っていった。
残り香だけが、その場に残された。
 
 




 
『………どっかの王子サマみてーにクサイ台詞吐いてんじゃねーよ、テメェ……』
「言うな………流石のわしもちょっぴり自己嫌悪なのだ………」
『……あれか?夫婦は似てくるってやつか?』
「ううぅ〜〜…、しかしアレは奴の好みではなかろう?むしろおぬしの……」
『黙れよ』
飄々とした態度を崩し、ややうんざりとした表情で太公望は欄干に凭れ掛かった。紅を履いた木目の上に顎を載せると、ややひんやりした感触が伝わる。
「ま……まあ、今日はおなごの祭りだし、リップサービスくらい妥当だろう……?」
自分で信じていないことを呟いてみても。その前の愛想笑いも何だったんだなどと突っ込みたい王天君の気分も、半ば意識を共有している身には言うまでもなく通じている、が。
『まあ、アンタがそれで良いんなら構わないけどよ』
口ではあっさり引き下がるのに、安心して太公望は目を閉じる。
目を閉じれば、喧噪はいっそ賑やか。人の存在を感じなければ生きていけない身体になってしまったらしい。
ゆっくりと身を起こし、やや逡巡した後、太公望は阮咸を引き寄せた。その際、指に引っかかった絃が濁った音をたてるのに、びくりと身を強張らせる。
「……予行演習だ、えんしゅう」
言い訳は誰に対してのものか。
意を決したように一つ息を吸い、絃に手を掛ける。先程とは全く違う、深みのある澄んだ音色が夜の空気を震わせた。
「―――迢迢たる牽牛星、」
絃の音に被さるように、高くも低くもない、朗々とした声が載せられる。


――迢迢たる牽牛星
                   (はるかに遠く光る牽牛星、)
   皎皎たる河漢の女
                     (白く光り輝く織女星。)
繊繊として素手を櫂げ
             (織女星は、細くしなやかな白い手をあげて、)
札札として機杼を弄す
           (カタッ、カタッと音を立てて機のひを動かしている。)
終日章を成さず
         (しかし、一日中かかっても、織物の模様が上手く織れない。)
泣涕零つること雨の如し
        (恋しい牽牛星のことを思うと、涙が雨のように流れ落ちる。)
河漢清く且つ浅し
                     (天の川は清く、浅く流れている。)
相去ること復た幾許ぞ
             (互いに隔たっている距離はどれくらいであろうか。)
盈盈として一水間て
  (互いの間はそれほど遠くはなく、水が満ち満ちている一筋の川を隔てて、)
脈脈として語るを得ず
       (互いに見つめ合うばかりで、語り合うことも出来ないのである。)
 

奏する間は、太公望は無心になっていた。
半身の存在も、その他の存在も、始祖としての自分も今は感じられない。
ただ、全てを飛翔させ感情さえ空っぽになった身の奥、蒼い光が小さく瞬くのが垣間見えた。……ただ、それだけ。
 





 
 
――最後の音が余韻を残して空に消え、急に全ての感覚が戻ってくる。それにやや圧倒されつつも、太公望はこきこきと肩を鳴らした。
『文選かなんかか。この時代はまだねぇだろーが』
「まあのう。……どうでも良いではないか」
くっと、喉の奥で引き攣れたような音を洩らす。『太公望』の発した筈の嗤いは、往年の王天君のものに酷似していて。
「いい気なものだな。公私の別を忘れた身で逢瀬を持つ恩情を得ておきながら、何が不満で泣くのやら。天帝とやらも、これでは立つ瀬がないであろうにのう?」
容赦ない言葉が、何故か自虐的に響く。
『アンタ……』
王天君が困惑したような声を出した。普段とは立場が逆である。
『後悔してるんじゃねぇか………?』
「まさか」
半身の心配を、一笑に付す。
「不本意な生を歩んでいるつもりはないよ。わしが勝算のない賭に出ると思うのか?」
『………………』
応えはない。
「実際、おぬしがおるおかげで救われとるのだ。どんな時でもひとりぼっちではないからのう……」
語り掛けるように、歌の続きのように抑揚をつけて紡がれる言葉。目を閉じて浮かべる笑みは、何を思い出してのものか。
しかし、その身体感覚を共有しながらも、それでも王天君は思う。
自分がずっと憧れていた光は何処に居ようと彼から損なわれることはないけれども、彼を“独りぼっち”にしてしまったのは、確実に自分を受け入れた所為なのだ。
だが、罪悪感と共に王天君の本心はまた別にあって。
『オレはアンタと“一人ぼっち”になりたかったんだけどな……』
王天君を気遣うのは、完全にその存在を自分自身だとは思えていないから。自分に厳しく他者にどこまでも甘い半身の、僅かな隔意が恨めしい。
 
お互いの思考はダダ漏れである。魂魄の分裂は可能な筈だが、何かを懼れるように必要ない、と斥けてきた。意識も溶け合い、時に彼我の区別などなくなってしまうこともあるのに。
全てを酌み、共有し、それでも太公望は遠い目で違う場所を見ている。ただ、それに寄り添う内に、混じり込めない自分の意識が消えてしまう日が早く来ればいい、と願う。
『チッ、さっさと来ればいいのによ』
「む、無理に言わんでも……っ」
げらげら笑うのにむすっとする、肉体を媒介にしないこんな遣り取りは確かに楽しいのだけれど。
 
 
 
「もうすぐか……のう?」
不敵に見上げた夜空。
 
 
――待ち人の姿はまだ見えない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 




〈了〉




駄文の間に戻る


〈補足、再録〉

阮咸は中国古代・近世の弦楽器。古代の琵琶の変形、四〜五弦で十二〜十四柱。竹林の七賢のひとり、阮咸にその名を因んでます。
何故阮咸かと言われると、楽器の形状が私好みだから(笑)だけでなく、竹林に集ってた奴らの、遊び暮らしてるんだかいじけて暮らしてるんだか半端な辺りが師叔の境遇を思わせるところがあって。
それとなんとなく師叔は弦楽器のイメージがあって、ですが私の書く師叔はもう二度と馬頭琴弾かないと思いますし。阮咸でも弾けるのは、色々あっても現在(この話時点)の師叔の存在の核は『楊ゼン』だからで、それに関しては恥じるところないから…とドリー夢(苦笑)。
多分周代にはありませんけど(お約束)、いいのです。導はなくなったのだから(免罪符)。

今回参考にしたのが『中国開封の生活と歳事』(伊原弘、山川出版社)な辺り、完全に開き直ってます。だからといって北宋時代が舞台なんじゃなくて、『封神演義』終了後精々10〜20年後くらいのつもり。あと資料としては『西王母と七夕伝承』(小南一郎、平凡社)とか。

あと。引用したあの詩の弾き語りは出来るんだか知りませんが(おいおい)。まあ古詩は歌謡に限りなく近いと思いますし、唐詩も伎女がよく歌ってたらしいので、多分いけるのではないかと。

ミャクの字が出なかったので脈で代用。女禍のカを禍で代用してるようなもんです。