僕はなんだかよく解らない場所に突っ立っていた。
なんだか解らないというのは誇張でもなんでもなくて、真っ暗な空間は文字通り右も左も解らない。光源は何もなく、けれど眼前に透かした僕たちの手がはっきりと輪郭を見せているのが不思議だった。
……そう、『僕たち』。
「父上は……通天教主は、キミが嫌いだから崑崙に預けたんじゃないよ」
思い付いてその場に膝をつき、目線を合わせる。
「逆に……キミをとても愛してた。崑崙に預けたのも、キミを守るためだったんだよ」
胸が詰まって途切れてしまいそうになるけれど、必死で言い聞かせる、あの時の師匠の言葉。いつの間にか、僕はそれを素直に受け取れなくなっていたのだけれど。
「ぼくを守るため?」
完全に人型を保つことも出来なかった頃の、幼い『ぼく』がそこにいる。
「うん、そうだよ」
何も知らなかった頃の『ぼく』が真実の、しかし気休めの言葉を聞いて表情を明るくする。
「じゃあ、言う事をを聞いていい子にしてたら、お父さまは迎えに来てくれるかなぁ?」
幸せな子供。不幸な子供。馬鹿な子供哀れな子供いくら待ってもキミの父上はキミを迎えに来ることなんて有り得ないんだ期待しても無駄なのに可哀想な子供。
無邪気な『ぼく』の言葉。
師匠と同じ言葉を掛けたかったけど、あの時師匠がなんと答えたのか、記憶はとっくに風化して思い出すことが出来ない。
喪って初めて、僕は愛されていたことに気付くんだ。
途方に暮れる僕を興味深そうに『ぼく』は観察していたけれど。
「でももういいんだ」
そうして、本当に嬉しそうににっこり笑った。
「あの人に会ったから」
呆然とする僕には興味を無くしたように、くるりと反転すると、駆け出していく。
「すーす!」
両手を広げて『ぼく』が向かった先には、いつの間にか太公望師叔が佇んでいた。
何も変わらない、以前通りの懐かしい姿で。
小さい『ぼく』は小柄なあの人の腰辺りまでしか背がなくて、でもその体に抱きついてぎゅうぎゅう締め付ける。
微笑ましい光景なんだけれど、不覚にもその時僕は『ぼく』に軽い嫉妬を覚えた。
もう僕には出来ないことだから。
「こらこら、いい加減離してはくれぬかのう」
師叔は笑顔で、膨れっ面をして『ぼく』が回していた腕を外すと、しゃがみこんでにっこり笑った。目を合わせるようにして、わしゃわしゃと『ぼく』の蒼い髪を掻き回す。
……そういえば、僕が子供相手に目線の高さを合わせることを覚えたのは、この人の影響だった。
「ねぇすーす、ずっと一緒に居てくださいねっ」
機嫌を直した『ぼく』が師叔の道服の裾を握りしめて、はしゃいでいる。
「………それは無理だのう」
だけどあの人は寂しそうに笑うと、ゆっくり『ぼく』の手を外した。
「わしの側におると、いつかおぬしを殺してしまうかもしれん」
「そんなのいいんです!ぼくはあなたのお役に立ちたいんですから!」
された筈のないやり取りが、胸の痛くなる懐かしさを伴って迫ってくる。
あの人は、いつも何も言わず、独りで喪失の予感に怯えていた。
「ねえ、いいですよね?」
懇願するぼくに、師叔はゆっくりと首を振ることによって拒絶を返す。
「……すまぬな。もうおぬしはわしがおらんくても大丈夫であろう」
残酷な言葉に僕は涙ぐむ。
そう、いつの間にか『ぼく』の姿はなく代わりにそこには僕が居て。
切なくて、小柄な体を掻き抱く。僕の腕の中にすっぽりと収まる体は、だけど『ぼく』が甘えた時と同じく、優しくて遠い。
「そんなこと言わないで下さいよ……」
応えはなく、師叔は黙って僕の髪を梳く。
「僕は、あなたがいないと何も出来ないんです………」
あなたさえいればいいんだ。
血を吐く叫びが、届いたかは解らない。
IN PARADISUM
がたん、というひときわ大きな音に、慌てて楊ゼンは顔を上げた。
風で、背後の窓が閉まった音らしい。
窓を開けっ放しにしたまま何時間もうたた寝していたらしく、記憶にある青空の代わりに、窓の外からはオレンジ色の光が射し込んでいた。
部屋の中は、既に薄暗い。
「ヤな夢…………」
げっそりとした表情で呟くと、椅子の背に体を投げ出し、のびをした。行儀悪い行動も、この秀麗な教主がやるとサマになって見える。
執務に一段落が付いて、ちょっとだけと眼を閉じていたら、いつの間にか何時間も寝込んでいたらしい。ここ数日、忙しくて夜もロクに眠っていなかったのでそのことはある意味当然だったが、自分ではそれ程までに疲れていたとは思ってもいなかった。このままでは過労死一直線かもしれない、と危機感が高まる。
そして寝たら寝たで、夢見は最悪だった。
楊ゼンは苦虫を噛み潰したような顔をする。
だが、この一刻一秒にも夢の余韻は薄れていき、今目の前に在るリアルには敵わない。そのことに対する苦みも、表情の中にほんの一部含まれているかもしれなかった。
教主専用のだだっ広い執務室内は、巨大な柱が立ち並ぶ他は今まで楊ゼンの突っ伏していた木製の机だけが存在を主張している。
燃燈や張奎といった補佐役たちの仕事部屋は他にあり、主に報告はデータ回線を経由して回されてくる。
といっても、急ぎの用や書類上のサインが必要な時など、四六時中彼らはここを訪れている。そして、教主への敬意など欠片も持ち合わせていないかつての仲間たちがしばしば仕事の妨害……いや、遊びに来たりするので、このように何時間も邪魔されることがなかったのは奇跡に近かった。
「仙人界も、やっと落ち着いてきたってことかな……」
ここ三年ばかりの苦労を顧みて、楊ゼンはしみじみと述懐した。
あえて、それ以前の出来事は思い出さない。
初めは部屋のあまりの広さに、これを作った太乙などに食ってかかったものだが。今ではすっかりこれが日常で。
色々の思い出も痛みも、こうして日常の中に埋没していけばいいと思う。
――思っている。
教主に就任して一ヶ月後のある日。
人間界の武王の元へ報告に向かわせた四不象と武吉の口から、思いも寄らない知らせがもたらされた。
太公望が生きている。
心当たりを捜し回り、結局見付けることの適わなかった二人は、当然の帰結として教主たる楊ゼンに太公望の捜索を要請した。正しくは、泣きついたと言って良い。
「楊ゼンさんが一喝すればご主人も出て来ざるを得ないっス!!」
「お願いします楊ゼンさん!!」
必死で懇願する二人に、一瞬冷ややかな視線を送り。
「―――それは出来ないな」
楊ゼンは、きっぱりと断った。
「僕は仙人界の教主だからね。仙人界・神界・人間界の相互不干渉の原則を取り締まる立場の僕が率先してそれを乱す訳にはいかないよ。
特殊な事態だし、君たちが捜すなら通行許可証は渡すけど、僕は行けない」
慰撫するような微笑みを交え説得すれば、二人は渋々頷いた。しかし、「僕のことは今まで通り楊ゼンでいい」と言った筈の仙界教主を見る眼は、奥底に失望を孕んでいる。
「解ったっス、ご主人は僕たちだけで捜すっスよ……」
四不象は傍目から見ても解るくらい落ち込んだ様子を隠そうともせずに、頭を下げると背を向ける。そんな様子を心配そうに武吉は見ていたが。
「……あの、楊ゼンさん」
「なんだい武吉くん?」
「楊ゼンさんはお師匠さまに会いたくないんですか?」
澄んだ眼差しが痛い程に見つめてくるのを受け止めて。
「……さあ、僕にも解らないんだ……」
楊ゼンは自嘲の笑みを浮かべた、それは大して過去の話ではない。
……一度思い出すと、様々な記憶が連鎖的に付随してくる。
殆ど毎月のように人間界に出掛けていた二人は、全く掴めない足取りに困惑し、嘆き、訪れる間隔は間遠になってきている。
しかし、泣きそうな顔で、それでも三ヶ月に一度は執務室に現れ、手形の発行を求めるのだ。
その時期がそろそろ近付いている。渡すこちらとしても、気が重い。
気分転換をしたくて、楊ゼンは席を立つ。
頭をすっきりさせたかった。
蓬莱島のかなりの部分を見広く渡せる場所に位置する岩山。
かつての崑崙山を思わせるその上に、楊ゼンは降り立った。
相変わらず風は強く、肩布が煽りをくらってばたばたとはためく音が大きく響く。
実を言えば、先刻まで彼の居た執務室を初め、新仙人界の主要機能は、この山を刳り貫いた下に在る。星まるまる一つを手に入れたというのに、山間に住もうとする仙人の習性はなかなか抜けないのが実情であるが。
その高みから見下ろす蓬莱島は、今まさに沈もうとする落日の光を浴びて、燃えるような光景を見せていた。
鳥型の妖怪仙人であろうか、小さく黒いシルエットがオレンジに染まった空に染みを落としている。
あくまでも、美しかった。
彼らのかつての故郷が喪われた日も、燃えるような夕焼けが辺りを照らしていた。
初めての喪失を思い出す、と言って切なそうに笑った人の顔は……もう思い出せない。
今となってはあの駆け足の日々の全てが遠く。
そう遠くない過去の自分のあの狂おしい感情すら、夕日に煽られた残滓が僅かに燻るのみ。
楊ゼンは、小さく嘆息する。
四不象が、武吉が自分に対して歯痒い気持ちを持つのは解るのだ。
結局、建前を振りかざしながら、ちっぽけなブライドにしがみついているだけなのだから。
あの人に出会って生まれ変わったと思ったのは錯覚で、依然として楊ゼンは優等生の天才道士のままであった、そういうことだ。
責任。
大義。
名目。
ご大層なお題目がいくらあっても、それは本当の自分ではない。
楊ゼンだって知っている。
日常に逃避したいだけなのだ。
居心地の良いこの箱庭の中で。
「……は、馬鹿馬鹿しい……」
憎んでも憎みきれない仇と一つになった愛する人は、知らない存在になって帰ってきた。
戦いの中、何度もあの人だと思い、違うと嘆き、また安心して。
現実を確かに受け止める前に、あの人は目の前で閃光と共に崩れていった。
決着を付けると、僕の方から言ったのに。
泣き崩れる仲間たちを呆然と眺めながら、ショックで何も考えられないながら。
最期に、こちらを振り返って微笑んだあの人の姿が瞼に焼き付いて離れなかったのに。
――何故か、ひとりほっとしていた。
もう考えなくて済むから。
何も考えなくて済むから。
もう何も考えたくないのに。
彼らは、純粋な仲間たちは、こんな本心を知ったら軽蔑するだろうか。仮にも、お前たちは恋人同士だったのだろう――。
惜しみない愛を。
燃えるような憎しみを。
そして、感情など持つことすら能わない巨きな存在へ。
全ての感情から目を背けて生きている。
この世界が好きかと訊かれたら、きっと答えられない。
あの人が遺してくれた物だと思えば愛着も湧くし、おぞましいあの生き物が造った物だと思えば嫌悪感が湧く。そして、あの人が彼女と同種の生き物であったという事実。
……まだ、目を背けていたいことが多すぎるのだ。
「ああ、余計落ち込んでどうするんだろ。やっぱり変に休憩するから駄目なのかな……」
眼差しを飛ばすと、落日は徐々に地平線の彼方へと倒れ伏していく。
背後から夜が忍び寄り、大きな手を広げようとしている。
空を見上げれば、楊ゼンの瞳と同じ、紫紺の色。
あくまでも蓬莱島は美しい。
緑が萌え、動物たちが豊かな楽園を築き、ヒトとヨウカイが手を携えて共に暮らす理想の世界が展開中。……そうなるように、楊ゼンは身を削って働いているのだ。
「何処にいても空で繋がっているって、言えたらいいんだけど」
この空は、地球と繋がっていない。
ここは擬似的天国。
独りの寂しい宇宙人のための、創り物の世界。
偽物の天地。
不自然な生物。
そして、あなたが居ない。
この星には、あなたがいない。
「会いたくないんです……」
でも会いたい。
会いたくない。
会いたい。
会いたい。
苦しい。
苦しい……。
蹲る。
今すぐ、何処かに戻りたい。今度は間違えないから。やり直せるから。
「師叔………」
ごうっ……と、
突風が吹き抜けた。
先程までの風とは比べ物にならないくらいの勢い。
下ろしたままの長い髪が宙を舞った。
唸りをあげる低い音に、驚いて楊ゼンは顔を上げる。眠りから覚めた時のように。
『楊ゼン………』
耳元で、微かに聞こえた。ちいさな、ちいさな声。
「すー、……!!」
思わず伸ばした手は、虚空を掴み、風を擦り抜けて何も掴めずに終わる。
いや。
開いた手の上には、一枚の花弁。
赤い花は、迫り来る夜に染められ、紫を帯びていた。
「ああ……………」
人目がなくて良かった。咄嗟にそう考える冷静で醜い自分はすぐに解けて消え。
楊ゼンは、目元を拭うこともなく、涙が零れるのに任せる。
溢れるこの感情は、きっとこの世界の中でたったひとつ本物。
「師叔………」
本当は、忘れたことなど一日もなかった。
覚えている。
あの声も。
あの笑顔も。
あの涙も。
……あの日々は、嘘じゃなかった筈なのに。
いつの間にか、見失っていた。
……惜しみない愛を。
燃えるような憎しみを。
今はまだ渦を巻く感情に整理は付かないけれど。
何よりも、『大切だ』と、いつか告げる勇気を。
失ったものや手に入れたもの。
自分は………確かに変わっていたと信じる勇気を。
切に……欲するのだ。
「待ってて、くださいね………」
大丈夫、この声はきっと届く。
『ね?すーすがいないと駄目なんでしょう?』
無邪気な子供が、首を傾げていた。
〈了〉
さて、書きたくて堪らなかった後日談第1弾です。
……らぶらぶしてません。
あまつさえ楊ゼンさんが過去を無かったことにしようとしています。
とうとう楊ゼンファンだけでなく師叔ファンの皆様まで敵に回してしまった予感。……あ、五寸釘で既に怒りを買っているとの噂も(死)。
一筋縄ではらぶらぶハッピーエンドになって欲しくないなぁ、と思うのです。
歩み寄り歩み寄り(主に楊ゼンさんから希望)。
タイトルはラテン語(多分)、意味は『楽園にて』。こういうレクイエムがあるのです。聖書の「金持ちとラザロ」のたとえ話がモチーフで……といってもこの話には全く関係ありませんが(^_^;
別に仙道達は死んでませんが、選ばれた者たちが平和の中、永遠に暮らす楽園……ということで蓬莱=天国。実はあんまり良い意味込めてませんが(オイ)。
楽園で、一見幸せに暮らしてても、楊ゼンが本当にしあわせなのかどうか。師叔を忘れるのが一番楽だとは思いますけどねぇ、実際(太公望ファンの立場を抜きにして語れば)。
一段落ついたところで。
次は、リクものか書きかけのギャグか、どちらかがお目見えするかと思います。
今度こそそんなに時間をかけたくないんですが……どうなることやら。あ、速く書きたいというのとリクの手を抜こうというのは同義語じゃありませんから!そこのところ、誤解無きよう……。