突っ込んだ鼻面が草を揺らすと、驚いた天道虫がその中から躍り上がった。
ぶぶぶ、と微かな羽音が脇を行き過ぎる。
視線を上げると、鮮やかな赤い虫が空へ舞い上がっていく軌跡が見える。
空は青くて、本当に青くて、四不象の目を眩ませたから、小さすぎる虫の姿はすぐにわからなくなった。
冬の空の持つ暴力的な青さではなくて、蓬莱島の空は日差しに彩られた柔らかみを帯びているような気がする。ぽつんと、絵に描いたみたいな雲がひとつ、浮かんでいた。
そのまま虫の後を追いかけて、澄み切った宙へ舞い上がりたい欲求が浮かんだのだけれど、まだ腹は膨れていなかったので食事を続けることにする。
食い意地が張った、と評されることが多い。
拒食症とは無縁のカバ、と影で失礼なことを言われていたらしい。
僅かに苦みの感じられる草の青味を咀嚼しつつ、ぼんやりと思う。
最近は、あまり食事が楽しくない。
もう一度空を見上げたけれど、天道虫は何処へ行ったのかわからない。
冬だというのに、柔らかい春の空からは雪など降りそうになかった。
I’m dreaming of a White...
「雪を?」
四不象の声はひっくり返った。
「うん、天祥君が雪遊びをしたいって言うからさー」
ゴーグルをずり上げた太乙真人はにこやかに微笑む。
珍しく昼間から起きていた十二仙の生き残りは、学芸会で子供が付けるような羽根――いわゆる天使に付いているような――を片手でぶら下げている。
根元の部分にはベルトが二つ付いていて、背中に背負うようになっているらしい。その部分からコードがいくつも伸びていて、ラボの中心にある大きな機械に繋がっていた。
今し方創り上げたばかりなのか、工具や四不象には何なのか良く解らない金属片が床の上に散らばっているので、来客が宙に浮いているスープー以外ならば、この庵の主の立つ場所まで辿り着けなかっただろうと思われた。なにしろ入り口を開けた所からしてこうなのだから。悪いが庵丸々がごみためのようにしか見えない。
「ここの羽根の部分は形状記憶宝貝合金で出来てるんだけどね、あ、動くのは私の趣味さー」
大した用事もなく、暫くぶりに知り合いを訪ねただけなのに、四不象はさっきから延々と理解出来ない宝貝の原理やら何やらを聞かされ続けていた。それでも話を遮ったりせずに相槌を打って聞いているのは、この霊獣の気の良い所であろう。
暇を持て余していたのだから丁度良くもあった。いつも一緒に行動している武吉が用事を頼まれていて不在なのだ。元々戦闘の役に立たない彼らはかつての仲間達のようにパトロール職にも就くことが出来ず、普段から二人で暇をかこっている。
オタクは説明好きっていうのは本当っスねぇ……。
こっそりと、だが口が大きいのでどうしても目立ってしまう欠伸を噛み殺そうとしつつ、四不象は独白した。
「雪、降らないっスもんねぇ……」
何故宝貝が羽根の形なのだろうとは口にしないが。
「うん、崑崙では降らなくて当たり前だったから気付かなかったんだけどねー」
蓬莱島は常春の島だ。むしろ常夏かもしれない。
「それで、わざわざ」
いくら発明好きの宝貝オタクと言っても、子供の要望を聞いて自然環境すら変えてしまおうというのだからただ事ではない。
初孫の出来たおじいさん、というのはこんなものなのだろうか。ナタクに対して過保護にも過ぎるくらいに甘い仙人は、近頃は愛弟子の弟分にも愛情を注いでいるらしかった。
「だあってさ、天祥君が喜ぶとナタクも喜ぶしー」
宝貝を掴み上げていない方の手を頬に当て、太乙真人は嬉しそうに身をくねらせる。……あまり以前と変わっていなくもある。
「本当は蓬莱島の動力をいじって気温の設定を変えられれば良かったんだけど、まだまだメカニズムの研究も不十分だしねぇ」
手術台のような形状の(普段はナタク用なのだろう)工作机の上に宝貝を置いて、近くのノートパソコンを引き寄せた。
色々な数値が乱舞するのを横からスープーも覗き込んでみたが、さっぱりわからない。
「間違って地熱が消えたりオゾン層なくなっちゃったりしたら死んじゃうしねえ」
あはははは、と何でもないことのように言って、太乙は笑う。
この科学者に、いわば仙人界全体の命運を委ねているという現実に四不象はとてつもなく怖ろしいものを感じた。
「下手にいじって取り返しのつかないことになったら困るって、天才君にもダメ出しくらっちゃってさ」
だが、次の言葉を聞いて、ひどく苦いものを感じる。
「四不象?」
顔を俯けてしまった霊獣を案じるように、齢を経た仙人はそっと声を掛けた。
普段は自分が喋るばかりで人の話を全然聞かないのに、と四不象は詰りたくなる。今の声の響きが思い出したくない人に似ていたが故。
「楊ゼン君がそう言うことも当然だと思うよ?彼はみんなの命を背負ってるんだし、天祥君や私の為に危険を許容する訳にはいかないよね」
ちら、と視線を上げると心得たように微笑んでいる。普段は大層仲が悪いというのに、こういう時ばかり物分かりが良くなる。
「そんなのは解ってるっスよ。教主さんが大変なのも知ってるっス」
「まだ『教主さん』って呼んでるんだ」
苦笑の気配を感じた。
彼のことを話題にする時、四不象はいつも心がくしゃくしゃになって、くずかごに捨てる時の反古紙のように堅く小さくなるのを感じる。
そんな時は、じっと丸まって黙っていると、元のように笑えるようになるのだ。考えるのが苦手だから。
「楊ゼン君のことが嫌い?」
「……嫌いじゃないっスよ」
「ああそうなんだ。私はとっても嫌いだよー?」
馬鹿にされているのだろうか。四不象は頭痛を堪えた。
楊ゼンのことは嫌いではない。
だけど、昔はもっともっと好きだったから、存在が遠くなってしまった今が悲しくて仕方ないのだ。
――太公望が生きていたと知った時。
スープー達ではあの逃げ足の素早いアホ道士を捕まえることは出来なさそうだったから、連れ戻してくれるように頼んだのだ。
前から、いつもぐうたらと仕事をサボったり四不象に心配をかけたりする困った御主人を連れ戻して叱ってくれるのは、主人の副官をしていた彼だった。
スープーがいくら怒ってものらりくらりと聞き流してしまう太公望も、楊ゼンの言うことなら一応は神妙に聞いているのを知っていたから、いつも頼ってきたし、楊ゼンがその期待を裏切ったことは一度もなかった、のに。
ある意味、四不象は主人である太公望よりもその傍らにある楊ゼンこそを頼ってきたのかもしれない。
だから、初めてそれを拒絶された時、裏切られたような気がした。
他の誰が拒絶しても、楊ゼンだけは太公望のことを捜してくれると思っていたから。
反発したり、時には怒ってみたりしても、根っこの所ではどうしようもなく信頼している。四不象を除けば楊ゼンは一番太公望に近い所にいたし、太公望に対する二人の気持ちはとてもよく似通っていると四不象は思っていた。
なのに。
決して捜しに行ってくれない。
四不象や武吉が人間界に行くのを止めたりしないが、本心ではそれを望んでいないように見えた。時々、うんざりしたように溜息を吐くことがある。
彼は太公望のことを、忘れようと思っているのだろうか。
「教主さんは、御主人のことを怨んでるっス」
「……さあ、どうなんだろねえ」
「玉鼎さんや通天教主さんを殺したのが御主人だって、あの人はそう思ってるから、御主人のことなんてどうでもいいと思ってるんスよ!」
悔しい。
「そんなのは御主人がやった訳じゃないっス、全部王天君がやったことっスよ!!」
太乙真人は答えなかった。
そして、そんなことを言ってしまった四不象は自己嫌悪に襲われる。
楊ゼンが悪い訳でもないのだ。
父を、師を殺された悲しみは深いものだったろう。玉鼎真人はとてもいいひとだったし、その封神の時に、楊ゼンが流した涙を見ている。
だけど、太公望も、泣いていたのだ。
膝を抱えて。
四不象だけの前で。
食事にも飽きて、四不象はその場に寝ころんだ。
太乙のラボを逃げるように辞してきた後は、本当に暇にしていた。
食欲が満たされるままに別の欲が取って代わる。微風が産毛をくすぐり、うとうとと眠くなる。
「本当に、雪なんか降るんスかねぇ……」
宝貝の原理はよくわからないから、そうと思う他ないが。
天候を左右する宝貝はとても力が要るから、太乙は自分では操作出来ないらしい。
「だからナタクに付けてもらおうと思ってねっ!ほら、きっと可愛いよっっ」
自分の背中にあてがって、嬉しそうにはしゃいでいた。羽根は太乙真人の趣味なのか。
スープーは背中に可愛い白い羽根をつけた宝貝人間の姿を想像してみる。似合うような可笑しいような。
ナタクは嫌がるだろうが、天祥の為ならと不承不承宝貝を背負うのだろう。その様子がありありと想像出来て、笑いが込み上げた。
「ナタクがダメなら天才君だね」
などと言っていたが。あの秀麗な姿の教主は、もっと大きく美しい翼を身に纏う方が似合うだろう。
雪、と聞いて四不象が真っ先に思い出すのは、真っ白い重みに全てを閉ざされて、身動き取れないまま一冬を家の中で過ごさなくてはならないスープー谷の風景ではなく。
豊邑で、天祥や武吉と共に西岐城の中庭を転がった――天祥が懐かしく思うのも当然だ、あの時だけは悲しいことなんて何もなかった――楽しい雪遊びの記憶でもない。
『深深と溶けるがいい』
恐ろしい、雪の記憶。
目の前で、確かに魂魄が飛んでいくのを見たのだけれど、どうしても御主人が死んだとは思えなかった。認めたくない気持ちがその理由の殆どだったのだけれど、だからこそもう一度会えた時、役に立てると思った時の嬉しさは、強いものだった。
『ただしわしだけは空間移動で地球へ帰らせてもらうが』
怖ろしい、雪の記憶。
……スープー族の大人は、戦闘形態に姿を変えることが出来る。
その時に、性格も多少変化する。
能力からか自分に自信を持つことが出来て、普段は言えないようなことも言えるようになる。心の重みが外れたような開放感を味わうことも出来る。斜に構えた物言いをしてしまうから、素直に御主人に甘えることも出来ないのだけれど。
二重人格とは違うと思う。
いつもと全然違ったことを考えている訳ではないし、復活の玉の力で成体になった時の消えた記憶も、完全におとなになった時に甦った。
だから、誰よりも、スープーが解ってあげなくてはならなかったのだ。
『本当に あの 太公望か……?』
女禍との戦いの時。
付き合いが長かったから、誰よりも近くにいて理解していると思っていたからこそ、見失った。
その傷付いてきた姿を見ていたから、あまりにも違う姿に驚いた。
武吉のように魂のニオイで判別出来れば迷うことなどなかったのに、と思っても仕方ない。
「御主人ん〜…」
閉じた目から、涙が零れた。
泣いて泣いて泣いて、ようやく最近は泣き虫も治ったと思っていたのに。
楊ゼンを責めることは出来ないのだ。
四不象も、太公望を信じてあげられなかったのだから。
同じような体験をしていた筈なのに、自分ときたら。
自分ときたら。
「御主人が僕に会ってくれないのも、その所為っスか……?」
涙は止まらない。
……棘は、いつまでも刺さっている。
他の誰が忘れても、四不象だけは御主人を忘れられそうになかった。
瞼の裏を、雪がひとひら舞い落ちた気がした。
慌てて目を開けると、鼻先に天道虫が止まっている。一番高い場所を目指して毛の隙間を大儀そうに歩き、殻の下に隠した薄羽をちらりと見せた。
会いたいのだ。
どうしても会いたいのに。
四不象も、雪が見たかった。
あの怖ろしい雪をもう一度。
あの優しい人と共に。
空は、どこまでも柔らかく霊獣を包み込んでいた。
〈了〉
クリスマス用に、と急遽。
暗いですか、暗いですね。済みません…。
そして何がクリスマスなんだか。だってまだキリスト生まれてないし。
私の中で、連載中のスープーは楊ゼンさん大好きなんですけど、後日談のスープーは教主さん大嫌いです。
近親憎悪的な、かんじなんですけど。