夕景
 
 
 
 
一陣の風が、耳元を過ぎていった。
それに紛れて懐かしい声がしないかと耳を澄ませたのは愚かしい願望の為せる業で、現実には風は何の意思も持っていない。その風も二度とは吹かず、再び辺りは静寂に支配された。
どこか歳月の流れを忘れた空気を、枯れ草を踏みしだく音だけが掻き回している。
「いや……」
秋になれば、刻一刻と近付く冬の足音に急かされ、草木は枯れ果てる。その根は冬の間中地下で目覚めの時を待っているにしても、地上を支配するのは死の静寂だ。
それは、この地にすら同様に訪れる自然の摂理。
摂理から反しているのは、この身唯一つ。
埒もないことを考えた、その仮面を貼り付かせた貌に、珍しく苦笑の影が過ぎった。
「聞仲様……」
長き歳月を共に渡る、忠実な霊獣が様子を窺うようにして此方を向く。
「黒麒麟。お前は暫く待て」
「はっ……」
最早一心同体であるこの霊獣すら、今は遠ざけたい気分だった。
僅かな間でも、唯の人間だった己を回顧したいからかもしれない。
墓守は務めを疎かにしているのかもしれない。所々雑草に浸食され、自然と溶け込みかけている石畳に、足を掛けた。
紅い、血の色が空には滲む。
幾つもの石造りの墓標が立ち並ぶ。生の臭いは、此処では異端であり。
代々の王や后達が永の眠りにつく、殷王家の墓地であった。
 




 
 
 
 
小山のような白く輝く塚。
その隣に慎ましく寄り添うようにして、幾つかの黒石の墓標が立ち並んでいた。
同じような風景が延々と続く、その一角。最早目を瞑っていても辿り着ける程通い慣れた道を、聞仲は歩む。
小さな一つの墓標。
いつもの場所で立ち止まり、定まった儀式のようにして花を捧げる。
此処で眠る人がどんな花を愛していたのか、聞仲は知らない。そもそも、男達に立ち混じり剣を振り回していた彼女が、人並みの女のように花を愛でる気持ちを持っていたのかすら、知らなかった。
ただ、自分を納得させる為だけに、定期的に此処を訪れては同じ花を捧げる。
朗らかで気性の激しかった彼女には、朱氏の名前が表す通り赤い花が似合うかもしれない。しかし、聞仲の記憶の中の彼女は、いつも白い花だった。
部下に用意させた、一重の花弁が揺れるその花を、寧ろ素っ気ない仕草で墓前に供える。
名前も知らないその花の純白は、死を前に最期の足掻きを見せる太陽の残照を浴びて、朱く染められている。
煙。炎。血。
それらに彩られた彼女と共に、聞仲も人間として生を終えた。そう認識している。
残された屍は、一つは此処で眠り、もう一つは亡霊となって永遠に血を彷徨うばかり。
彼の亡霊が愛した子供達を何人もこの場所に送り続けながら、聞仲はこの地を何度も立ち去らねばならない。
第一、王家の人間でない彼は、土に還ることが可能だとしてもこの地では眠れない。
途は、彼女が自分の手の届かない場所へ去っていったあの日から隔てられており、その距離は遠くなることがあれど、狭まることは永久にないのだ。
その証拠に、彼女は何も言ってくれない。
 
 
『殷を……この子を…たのむ…よ…』
 
 
残酷な、唯一つの言葉を残して逝ってしまった彼女。新しい命令が下るまで延々と同じ動作を繰り返すロボットのように、ただ、遺された自分はその言葉を守るだけ。
制止の言葉が欲しいのか、労いの言葉が欲しいのか。自分でも解らない。
ただ、切実に彼女の言葉が聞きたくて、いつも墓前を訪れる。しかし、頭の奥で響くのは、何度も何度も思い出す一つの言葉。
 
 
『殷を頼むよ』
 
 




 
 
 
 
 
「おや、先客か」
現実の空間を震わせ、声がした。
女にしては低く、男にしては高すぎる、捕らえ所のない声。
警戒と、どうしようもない期待を込めて聞仲は振り返った。
西。断末魔の毒々しい夕陽。逆光で、その姿は黒い影法師。
ただ、だぶついた短い上着・弾力ある黒髪には見覚えがあった。
「おお聞仲!久しぶりだのう」
仇敵に対して、まるで友に対するかのように気さくに声を掛けるのは。
「……何用だ。太公望」
一瞬期待してしまった自分を振り払うかのように、聞仲は殊更強く相手を睨み付けた。
「此処は神聖なる王の眠る場所。お前如きと戦って汚す訳にはゆかん」
言外に立ち去れとの意味を込めたが、太公望は何処吹く風。
「それはそうだのう」
明るく同意すると、何事もなかったかのように飄々としている。それには面食らったが、確かに太公望からは敵意や戦意といったものは感じられない。
いや、戦場で相対した時すら、この雄敵からはそういった負の感情を向けてきたことはなかった。
「……何用だ」
もう一度、低く問い掛ける。
記憶にある彼女より、更に小柄であるかもしれない少年道士が、にやりと笑った。力尽きた夕陽が沈んでいくにつれ、相手の細かい表情すら読み取れるようになる。一見穏やかな空の色は、しかし刻一刻と全てを闇に閉じこめるべく、支度を始めている。
「わしも、おぬしと同じ」
敷石をひょいと踏み越え。
「墓参りだよ」
林立する墓石に、その姿は消えてしまう。
再び戻った静寂に、ふと今の出来事は幻ではないかとの疑いが浮かぶが。それを打ち消し、聞仲は敵の消えた方向に向かった。
 
 
 




 
 
……追いかけてなんとするか。
殷王家の墓地に敵を入れる訳にはいかないと追い出すのか。それとも、唯の好奇心の為せる業か。
そもそも何故彼が殷王家の墓に詣でるのか。
黄昏を振り払いながらようやく見付けた姿は、塚の中でも一際大きい、小山のようなそれの傍らに在った。
「帝丁……」
その持ち主の名を、聞仲は呟いた。
そして、その名が意味する様々な情報が頭を過ぎる。
気配に気付いているであろうに、太公望は振り向きもせず立ち尽くしている。
傷を庇うに似たその様子は、見ている者に僅かな狼狽を引き起こす。無言で死者の声に耳を傾けるのが、先程までの自分を連想させた。
「……何も供えなくとも良いのか」
自分と重ね合わせた結果、出てきたのはそんな言葉。
「……殷の王の首を捧げるまでは、何も供えんつもりだったが」
言われた内容にぎょっとする。
「今はもう良いよ」
やっと振り向いたその笑顔は、僅かに疲れた老人の貌をしていた。
「供人は、お前の一族の者か?」
いつの間にか宮中に潜り込んでいた妲己――当時は王氏と名乗っていた――が、王の死後の付き人にと、膨大な数の羌を連行した。その中には、剽悍で知られた、羌全体を取り纏める頭領の一族も含まれていたと聞く。
太公望の一族もその中にいたのだろう。頭領の一族、とも考えられるが。
「なりたくて供になった訳ではないだろうよ」
その言葉に咎める気配は感じられないが。
「女狐のしたこととはいえ、すまなかっ……」
「謝るでないわ」
ぴしりと跳ね返された声。大きな瞳は、その一瞬だけ激しい憎悪を宿したように見えたが。感情はすぐに消失し、代わって清冽で強い眼差しが臆することなく聞仲を見詰める。
……その瞳が、朱氏によく似ていた。
圧倒的な力の差を顧みず、懼れもなく真っ直ぐに此方を見据えるその視線が、遠い昔のライバルを思い出させたから。一度、聞仲は彼を倒すチャンスを手に入れたにも関わらず、それを放棄したのだった。
敵として憎めない相手として、太公望は存在している。
それが相手にも当て嵌まるのかどうかは、知らないが。
「悪いと思っておらぬのなら、謝ってくれるな。未だおぬしは羌を許す気がないのだろう?」
ぎくり、としたのが表情に出ただろうか。仮面の下の皮膚が、強張るのを感じる。
「……何故そう思う」
自分と彼女のことを、朱氏が羌族の手に掛かったことを、太公望は知らない筈だ。道化が吹聴した可能性を鑑みて、無性に怒りを掻き立てられた。
確かにその出来事を聞いた当時の自分は、女狐の暴虐に怒りながらも、心の何処かで快哉を叫んでいた。
王氏が人狩りを行う以前から、殷族は民族的復讐の念から羌族を奴隷化し、その首を刎ねていた。それに対して何の措置も執らなかった自分を、聞仲は自覚している。
怒りを忘れられない自分が、確かに存在している。
「崑崙で歴史を学んだ。殷族と羌族の泥沼の歴史をな。若手の仙道には殷族出身が多いからのう、教科書は殷を擁護する論調だったぞ」
聞仲の疑惑を打ち消すように、歌うような調子で太公望は続ける。
「正義は一つではないと学んだ。……しかし、怒りを忘れない自分が此処に居る」
大きな手袋が、胸に当てられた。
「崑崙と金鰲の争いがなかったとしても、わしらは敵同士になっただろうよ……」
吐息混じりに滑り出た言葉に、しかし憎しみは感じられない。
「太公望………」
意味もなく、名を呼んだ。
二人を、王達を、包み隠すように夜の帷が降りてくる。空は様々な色を宿し、やがて藍から漆黒へ。暗がりが迫り、太公望の表情は窺い難い。
確かめるように、数歩近付いた。そうして、初めて彼我の目線の違いを感じる。
「……のう聞仲。どうしても手を組めぬか?」
切実な声で驚くべき内容が語られる。その目は、真剣。
「……出来ると思うのか。私たちは憎しみを捨てることが出来ない」
動揺しているのが、不思議だ。
一つのことだけを守ってきた、この提案は明らかにそれに反するもの。
「捨てても構わんのだ。天ではなく、地にある人間が未来を勝ち取る為に。殷と羌の歴史の流れを変えられるとまでは自惚れたりせんが、人間達の手で解決する為にも、わしらはいがみ合ってはならんのだ」
強い言葉。
「捨てても構わないのだ」
もう一度。
世界が闇に閉ざされる一瞬前。心地よい声に酔わされるまま、僅かな輪郭を頼りに、小さな頬を両手で包み込んだ。
暗がりに紛れるように。
 
 
『聞仲くん……』
 



 
新しい言葉を聞いた気がした。
もう良いのだと、許す声が聞こえた気がした。
此処にいるのが彼女なら。
ああ、どんなに……。
 
 
 
「……話にならんな」
冷たく、聞仲は断言した。
何事もなかったかのように、その手は外されている。数歩後退したその距離が、消えない距離を示している。
「妲己も仙人界も私がこの手で葬り去れば良い話だ。それと、お前達が西岐を担いで地に乱を起こしていることとは関係がない。
人間が人間の為に作る歴史は、今のままでも可能だ。殷の旗印の下に、私が平和な人間界を造り上げよう」
滔々と語る聞仲を、太公望は溜息を吐いて遮った。
「……流石にそうほいほいとは騙されんか」
「当たり前だ!」
自信に溢れた殷の太師の姿。
苦笑が聞こえてきて、聞仲は不快になった。
そもそも、思わぬ処で敵に遭った、その驚きに付け込まれてうかうかと策士の口車に惑わされそうになった。この、殷に絶対の忠誠を誓う自分が。
「先刻も言ったが、王家の墓所を逆賊の血で汚す気はない。大人しく立ち去れ」
何が可笑しいのか、敵はくすくすと忍び笑いを漏らしている。
「……っ、言われなくとも。スープーを近くに待たせておるからのう」
心配しておるだろうよ、と暗に黒麒麟のことも指して揶揄する。
「……ふん」
鼻で嗤う聞仲の態度も気にならないのか、太公望はそのまま敵に背を向けると、すたすたと気負いなく歩いていく、音がする。同じような道を歩いていながら、枯れ草を踏む陰鬱な音はせず、どことなく軽快な足取りに聞こえるのが、不思議だった。
「さらばだ太公望。次は戦場で会おう」
「その時までお互い壮健でのう」
雄敵への敬意を込めれば、向こうも同質量のものを返してくる。どうしても、憎しみを抱き難い敵だ。
影法師がひょいと墓石の向こうに消え、それっきり。
既視感に襲われつつも、聞仲は霊獣の待つ野へと踵を返した。
 
 




 
 
 
「ごしゅじ〜ん!!遅かったっスよ!心配したっスよ!!」
先程から延々と愚痴を並べ続ける霊獣を持て余しつつ、その背の上で太公望はあやすように機嫌を取っていた。
「もう!いつもならもっと早くに帰って来るのにどうしたっスか!!!夜は飛び難いって言ってたじゃないっスか!!?」
ぷりぷり怒る姿も、心配の裏返しと思えば可愛いものだ。
「すまんのう……それが面白いモノを見付けて、つついて遊んでおったのだ」
もう一押しだったのにのう!その口調からも、彼の主人の機嫌が頗る良いことが、四不象には解った。
「何を拾ったっスか?お墓に落ちている物を持って帰ったら駄目っスよ!!」
「おぬし、意外と迷信深いのう……。ま、確かにそうだったか」
一人でウケている太公望に、置いてけぼり感を持った四不象はとっておきの水を向ける。
「帰ったら残業があるっスよ!楊ゼンさんへの言い訳を今の内に考えておくっス!!!」
「げっ……」
心底厭そうな声を聞いて、四不象も気分良くなる。心配性なあの人にうんと太公望の勝手を叱って貰おう、と主人の副官にチクる…いや、泣きつくことを決心する。


自分の考えに夢中になった四不象が気付かなかった呟きがあった。
或いは、その言葉は風に流されて、夜空を越えてあらぬ方へと運ばれていったのかもしれない。
「あやつ、自分が既に人ではないのを忘れておったな。……いや、解っておるだろうに。
おぬしも、わしも。懐かしい人達の元へは還れぬのにのう……」
 
 
 
その声が届いたかは、定かではない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 








〈了〉

駄文の間に戻る


はい、2000ヒットされた御津祇園様のリクエスト、お題は『聞仲×太公望、甘々v』でした!!
……なんつーか……、またハズしてます(死)。
元々聞仲×太公望でこのネタを考えていて、彼女のリクに「よっしゃあ!!」と意気込んだはずが、書き上がってから『甘々vv』などではなかったことに気付いた次第です……(ダメじゃん)。ひょっとして&程度で括れる物でしょうか?うう、困った……(-_-;;
まあでも楊太サイトだし!!(笑)二人ともストイックなイメージがあるので甘々は難しいですってば……(^_^;;

聞太を考えると、自動的に朱氏が思い出されます。朱氏と師叔、外見似てるし(笑)
それでこんな話をこさえた訳なんですけど(苦笑)。
っていうか、意図した以上に師叔が色仕掛けを使ってきてびびりました(死)。朱氏はこんなことしなーいしなーい(>_<)
墓地で物を拾ってきてはいけませんよ。私も小学生の時、墓地で火打ち石になりそうな白石パクろうとして、大目玉を喰らいました(笑)。

御津嬢……。こんなのしか書けなかったけどこれからも仲良くしてやってくれ!!
すみませなんだ…………m(_ _)m 伏して陳謝。