2.山信仰


『史記』の「斉太公世家」を見ると、
太公望呂尚は、東海のほとりの人である。その先祖は、かつて四嶽として禹をたすけ、治水にはなはだ功労があった。
との記述が見えます。出身地が東方というのは後に彼が斉に封ぜられたことからの連想で、遊牧生活を営んでいた羌族の出身地を云々しても不毛だと思いますけど。

四嶽とは何か。官職名もしくは神の名なんでしょうが、素直に考えればの山岳のことを指している(少なくとも象っている)ように見えます。

四つ、または五つの、中国を代表する名山(私の知る限りでは五つのがメジャーですが)。四岳(嶽)、または五岳。

東岳――泰山
南岳――衡山
中岳――嵩山
北岳――恒山
西岳――華山

『封神演義』中では黄飛虎が泰山の神になり、崇黒虎が衡山の神になるんですけど(笑)。唐代から明代までは太公望が「武成王」とか呼ばれて祀られていたらしいので、飛虎と太公望の縁は意外に深いようにも思えます…(笑)。そういや楊ゼン(二郎神)は崋山に住んでるらしいです。元々蜀の神様だったのかもしれませんねぇ。

それはそうとして、しかし、あくまでも『封神演義』はフィクション小説です。後世、泰山の神は泰山府君とか呼ばれ、部下に十王(閻羅王とか)がいたりして、官僚機構の投影やら仏教の影響やらで段々と込み入った話になってくるんですけど。当初の信仰形態としては、むしろアニミズム的な自然神信仰だったのではないかと思います。

そして、先刻の『史記』から何が解るかと言えば、太公望を始めとする彼の氏族は、山岳神信仰を持っており、また山岳神を祖先神とも見なしていた、ということ。

『詩経』大雅の「ッ高篇」には、
ッ高 維れ嶽 駿天に極る 維れ嶽神を降し 甫及び申を生む
  (高く天に聳える嶽神の霊験が降って、甫侯と申侯を生んだ。)
と、あります。言うまでもなく甫侯も申侯も姜性の氏族、つまり羌族なんですが…。彼らの始祖神が嶽神だったと、かなり明記してますね。そういえば、『史記』にも呂氏と申氏はかなり血縁関係として近いとか書いてるし、絶対申公豹って羌族、しかも太公望の祖先の親戚だったとか思ってるんですが(笑)。



しつもん。何で羌族が山の神サンを祀ってるんですか?

こたえ。山には羊に食べさせる草がたくさん生えているからです。

ま、単純な話ですな(笑)。

さっきは遊牧民の出身地を云々と言いましたが。北・西・南のかなり広範囲に分布していた羌族(大きい山の下には必ず羌がいるのさ、みたいな)ですが、中心地、のようなものはあります。つまり、大集団が居住していた場所ですが。

黄河中流域のやや北辺寄りの地(姫昌さまのお祖母様の出身地だと思います)、そして黄河中流下辺の、嵩山周辺地。

殷と羌の血で血を洗う歴史は、嵩山に端を発している、というのがかのフジリューも読んで参考にしたという『中国古代王朝消滅の謎』での基本路線でした。

どうやら、殷族も嵩山に対して神霊を感じていたらしく。そして、殷人も犠牲や食料用に羊を飼っていたので。……つまり、両族にとって格好の牧草地であった嵩山の所有を巡って、対立していたみたいなんですね。

しかも、一度は負けた殷。リベンジなった暁には、やりすぎっつーくらい羌を迫害するする。

嶽を追われ、生活に困り、人狩りにも遭うし。――そんな羌の怒りが、太公望という世紀の英雄を生み出し、殷周革命のエネルギーの遠因ともなった。そういうことみたいです。

……最近ふと気付いたのですが。

そうして殷を滅ぼし、斉は春秋時代にもなると姫姓族の国をも上回る発展を遂げて、初の覇者(斉の桓侯)なんかも出したりしたビッグな国になって正に姜ウハウハで。しかし斉は部下の田氏に乗っ取りにあって、呂氏の国じゃなくなっちゃうんですよね。……田氏って、子姓族じゃん。つまり、殷の生き残り。

因果は巡る、というかいついつまでも祟る敵対関係です。田氏としてはそのつもりあったのか知りませんが、……怖いなぁ。



あと山岳信仰に関してもうちょっと。

現在の、山岳信仰のメッカと言えば泰山です。これは太公望が大勢羌族率いて斉まで行ったので、その地にあった高い山泰山に信仰の拠点が移ったというのが真相らしいですが。

さて、泰山と言えば冥府信仰。前述の泰山府君とかも地獄の裁判官ですね、いわば。

中国の死生観にも何パターンかあって、仏教の影響で地下に地獄が出来たり、もう色々なんですが。北斗と南斗が人の生き死にを握っているというパターンは、天上の神々に魂が帰属する、という概念なんじゃないですかね?

別のパターンで、まあメジャーなのが、死者の魂が泰山に集まってくるんだよー、というもの。崋山に行く例もありますが、本山は泰山。

これの古いパターンとして、泰山の南にある蒿里なる山に死者の霊が集まってくる、というものがあります。蒿とはヨモギのこと。

「蒿里」というタイトルの挽歌が、『古今注』(『文選』の注に引用)では「薤露」なる挽歌と共に漢代の挽歌の元歌だとか載ってます。嘘らしいですが(笑)。
蒿里ハ誰ガ家ノ地ゾ、
魂魄ヲ聚斂スル(駆り集める)ニ賢モ愚モ無シ、
鬼伯ハ一エニ何ゾ相催促スルヤ、
人ノ命ハシバラクモ タチモドルヲ得ザルニ。
どうも、鬼伯とは鬼(死者)の総親分さんらしく(エンマさんみたいな?)。蒿里とは鬼伯の治める地、死者の集まる冥界な訳です。

しかし何故ヨモギな訳よ。

伊藤清司著『死者の住む楽園』では、「草葉の陰」なんつー使い古された言葉なども見据えつつ、死体を人里遠く離れた荒野に棄てていた大昔の葬俗の面影を伝えているのではないかーっなどと言ってます。成る程納得。

元々、「葬」という漢字からして、「艸」(草)の間に「死」(白骨死体)が挟まってる形ですから。←白川静『字統』←確かこの間学校の授業でも言ってた。

……どの辺で羌に繋がってくるんだ、と首を傾げておられる皆様。

野辺送りの歌、なんて全国津々浦々、どこにだって存在します。何故「蒿里」、泰山ばかりがクローズアップされるのかというと孔子の出身地である魯が近所にあったからなんでしょうが。

「蒿里」・「薤露」。東斉のおうたです。

斉の歌なんですよ、これが。

泰山信仰が斉に移住した羌の皆さんから発生したものなら、死者の魂が蒿里or泰山に行くのだという信仰、ひいては死体遺棄の風習も、なんらかの関わりがあるんじゃないでしょーか、というのが私の至極勝手な憶測。

この辺をつなぎ合わせると、「元は定住地を持たず遊牧生活をしていた羌族は、一族の墓なんか持ってる訳が無く自然葬に近い状態だった。しかし何処に打ち捨てられようともその魂は必ず嶽へと戻り、祖先たる嶽神の庇護の元、皆再会出来るのだ(あるいは嶽神の一部に戻るのかもしれない)」みたいな信仰形態は見えてこないでしょうか?……く、苦しい??(笑)

生活に必要なところから発生した山岳信仰。

ちりぢりとなっていた羌族にとっての精神的な団結力の源として、「嶽の子孫だ」「神農の子孫だ」という来歴によるものがあったというのは言われてますが、それに「死んだら嶽に還るんだ」というのがあっても可笑しくはない……でしょう?(^^;



とか言いつつ、既にどなたかが言ってたら恥ずかしいこと極まりないですね(笑)。しかし、そういう著作があったら是非読みたいですわ(^^) 心当たりがあったら紹介してください(笑)。





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