徒然再録(単に数合わせ) 十二国同性愛事情考察。

初出は徒然日記2005年02月06日の条。
その時点では十二国創作する気もなく、まあ載せる場所がないので徒然にでも、といったかんじだったのですが折角なので。
実は読み返さないまま書いてるので所々オカシイかもしれない……(-_-;;)




同人やネット小説を読む中で、意外にこの辺の意識に触れたものを見ないなという気がしてるのですよ。
いえ普通に雁の官吏が驚いたり応援したりすれば良いと思ってるんですけれど(雁限定かよ)。どうせ捏造だし(禁句)。
しかし世界が違えば精神構造も違うもので、折角小野主上が緻密な作品世界を考えてくれたことですし、どうせならある程度それに則って尚六を例に暫し妄想を巡らせたいと思います。尚六なのは趣味(笑)ですけど、この人らは二重にパラドクスがあるから個人的には一番面白い。



で、まずは尚六自身の意識問題を云々したいのですが、奴らはそもそも戦国時代の人間です。僧侶が稚児を愛で、武士が小姓を侍らす世界の人です。
話を聞いてたら、戦国の初期くらいですかねぇ。村上水軍が何処に帰属するなんて考えず順調に勢力圏を伸ばしてた時期。
尚隆の父が貴族保護してる事情や六太くんが「細川や山名」発言してるとこ見ると、おそらく応仁の乱が一応収束した位の時代でしょうか。執権細川政元が妖魔の法を極める為に女人には触れない!とか言いながら風呂場で小姓とにゃんにゃんしてる現場を襲撃されて暗殺された頃。
タブーとか言う前に寧ろ真の恋愛は男性間にしか芽生えないという葉隠的武士道が生じる男色黄金期の前夜。戦国初期というより室町末期と捉えるならば、逆に中世的な感覚で成人前の稚児は男でも女でもない第三の性みたいな意識なのかもしれぬ。
つまり何が言いたいかと言えば、戦国人の尚隆や六太にすれば体を重ねるのは自然な流れですらあるよね、という……(^_^;)
生まれた時から武士な尚隆からすれば、目の前に丁度小姓適齢期の少年がやってきて「お前の僕で所有物」だと言われたら、ふーんそうなのってなもんで抵抗感なく頂いちゃうんではないか。

男色は江戸期まではどっちかというと庶民の文化じゃないし、六太くんの場合はそれまで身近に接したこともなかったでしょうが、上つ方の風俗としてまあ耳にはしてるだろうし。
子供の頃捨てられて蓬山行きなら性教育なんて皆無かと思わせて、あの頃の貧農は四畳半一間くらいのあばら家(ワンルーム)で子供らが雑魚寝してる隣で夫婦が普通に媾ってたりするわけで。
眼の毒!なんて隠す意図なく目の前でやられてると、物心つく頃には知ってるらしいですよね。ましてや六太くん麒麟で人並み以上に知能の発達早かった訳だし。
何の説明もなくのしかかられても、これはあれだな、雲上人の嗜みって奴か、とすぐに了解したと思いますよ。感情はともかく。そこまでは知らん(普通やおいって感情だけ考えるのでは…)。
まあ六太くんは権力者に対する強い嫌悪感と「王」に対する本能的な渇仰とを併せ持ってるから、拒みたいの半分嬉しいの半分、態度としては渋々を装うといったとこですか。

尚隆の方は侍女に手ぇ付けるようなもんで、特に感慨はないですわな。
ただこの男、性分的に女の方が好きそうではある。
出来ないことないけど遠慮しとくわで通してきて、十二国連れてこられた後の草創期に妓楼なんてないし行ってる暇ないから手近で、みたいな経緯が尚六に至る道筋には存在するんじゃないでしょうか。わぁ夢も希望もない。
しかし西洋の「罪とは知っているが何と甘美な…!」感覚や、中国の「まあ嗜好の問題じゃねーの」感覚とは違う、「衆道こそ真の恋!女より男!」文化が一時期の日本に蔓延してたというのは、非常に面白い現象だと思います。
※この辺の男色史については、後日の徒然でもちょろっと言及しましたが。



で、一方の十二国ワールドですが、こちらはこちらで意外と同性愛に寛容なんじゃないかと思われます。別にあちらが中国ベースの東洋的価値観の世界だからというだけでもなく、婚姻と生殖の形態から推測すれば。
遠甫が陽子相手のレクチャーに、十二国では婚姻に対する概念がユルユルだという話をしてましたが。
希望の地方に田地を貰いたいが故に籍だけ入れてすぐ離婚、とか。子供さえ要らないなら好き合ってても野合で済ます、とか。
籍の有無って子供を欲しがる場面でしか関わって来なくて、しかも女性が腹痛めて出産する訳でなく、しかし肉体的快楽を追う為の妓楼は存在する。つまり性行動と生殖が完全に別物になってる世界ですわな。
こうなると男性同士のパートナーって、男女の野合と子供が出来ないという一点において全く同じ立場でないかと思うのですよ。それこそ後は嗜好の問題だけじゃないですかねぇ……。
あそこって個人主義の世界だし、周囲の反応としては「誉められたものではないが、まあ本人の勝手だし」程度?
そういえば「龍陽の寵」つまり尚隆のホモ愛人呼ばわりされて朱衡達が嫌がってましたが(いや嫌がってたのは帷湍か)、あれは色仕掛けで取り入ったと思われるコトへの不快感+好みでない相手と誤解される「やめてよ」感?
そーゆー発想が先代からの古参官吏に出てくることからして、そう珍しい概念でもなさそうですし、龍陽。
良かったね公認いけるよ!(笑)

ただ戦国日本と十二国ワールドでは同じホモ寛容でも前提条件が違う訳で、認識のギャップはありそうな予感です。
十二国人の官吏らからすれば、王と関係があるならば、それは麒麟であると同時に王の野合の妃ですよね。大体、王の即位後は正式な結婚出来ないんだし。パートナーの性別によっての貴賤が存在しないなら余計に。
麒麟自体が尊い生き物で台輔の位が高いのとは別に、その関係に対しても尊重すべきものがあると感じる訳ですよ。もうワタクシ勝手に推測。思い込み爆走。
しかし、戦国人的発想だと前提にあるのは主従関係で、対等な恋愛感情じゃないですやね。いや実際の当人らの感情じゃなく、こーゆーものだという固定観念が。
だから尚隆は六太とどうにかなってたとしても平気で妓楼に遊びにいっちゃうだろうし、周囲からすれば妃を蔑ろにして的な憤慨を呼び起こすかもしれないし、台輔が甘い顔するから!と諫められてもだって俺はやめてと言える立場じゃないしと六太くんは言い淀むと思います。
もし十二国小説書くことがあるとすれば、こーゆー認識のズレについて書きたい……。
←失敗しました(死)

あと普通に現代人感覚で仰天して「だって男同士ですよ!?」「え、だから?」みたいな扱い受ける陽子さん(笑)。
多分十二国男性同士の恋愛って、本当に何も悩まないライトBLのような世界ではないかとも思います(笑)。なんかそれもいいなぁ(笑)。
戴は十二国で一番男臭いアニキ国ですが(笑)、なんか小さい泰麒だとショタショタして抵抗あるよなぁ…と思うのは読者が勝手に日本中世的な関係を想起するだけで、内実そんなに一方的な関係ではなかったのでしょうけれど。






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