「ま――又市さん」
放っておけぬと来たまでは良いが、小股潜りならぬ滑りの悪い口では掛ける言葉も見付からず、結果口籠もった百介は弱った御行を前に哨然途方に暮れた。
「先生。悪いことは謂わねエ、帰って下さいやせンか」
頑なに拒絶を見せる背中が何故だか傷付いているように見え、如何して良いのか解らずとも、謂われる儘に唯々諾々と立ち去る気にはなれない。
「でも、あの――心配なんです」
我ながら烏滸がましい台詞を吐けば、帷子の背中は小さく哂った。
「奴は先生に心配なぞして頂けるような、上等の人間じゃありませんや」
「そんな……」
立ち竦んでいた足を一歩踏み出す。
「近寄っちゃなんねエ」
見透かすように叱咤され、百介は再び竦んだ。
又市は上体を捻って、初めて此等に顔を向けた。少々顔色の悪いだけで、一見して平生――百介の識る限り、と変わり無く見える。
しかし何処か異様なものを感じて、目にした百介はぞ――、と背中が総毛立った。
「行きずりの京女なら食い散らかして済むことですがね、先生だけはいけねエや」
口振りは軽いものでありながら、色めいた意味でなく言葉通りの野犬が死体を食い荒らすような、凄惨な響きが感じられる。
「そんな、人間を食べるのは化物だけと相場が決まっていますよ」
言い様に恐怖より哀しさを感じて、百介は更に一歩彼我の距離を詰めた。
「それなら、奴は――妖物でやンしょう」
近寄る百介を待ち構えるように、又市は完全に向き直っていた。
昏い眼差しは人の世の裏側を呑み込んだ、深淵の色をしている。
「匣に」
呟きは譫言の熱を帯びていて、絡み付く視線に知らず百介の躰も熱くなった。
誘惑しているようでありながら幼子の縋る眼にも見えて、引き摺り込まれるのを自覚した百介は、一歩――後退した。
「ま、又市さん」
自分で決めたことながら強い喪失感に襲われて、百介は途方に暮れた。
「――百介さんは賢いお人だ」
肩を竦めた又市は、百介と同じで少々残念そうな表情をしていた。