「お前はいつわたしのところに引っ越して来るつもりかね、サム?」
書斎の机に頬杖をつき、出来るだけ気軽な口調を装ってフロドは言いました。
人間達によるみっともないあばら屋や砂坑のあった場所はすっかり元の通りに直されて、南向きの窓の外ではやわらかな早春の光が芽吹きの時を待つ庭に降り注いでいます。
窓ガラスはぴかぴかに磨かれて、その美しいホビット庄をくっきりと映していました。それだけでなく、床もどこも掃除の行き届いた袋小路屋敷はすっかり往時の居心地の良さを取り戻していましたが、それは全てサムの献身によるものだということをフロドは充分に承知していました。
今まで口にこそしませんでしたが、サムとの同居はとても魅力的な、フロドの中では既に確定事項のようになっていた思いつきでした。なので、返答を待ちきれず振り返った先でサムがばつの悪そうな表情をしていたことは、正直にいって予想外でした。
「来たくなきゃ、まだ来なくてもいいんだよ」
慌ててフロドは言い直しました。どちらにせよ財産はいずれサムへと譲渡する心づもりでしたが、同居などは全部フロドの独りよがりでサムがちっともそんなことを望んでいないのなら、我ながら随分と情けないことでした。
しかし奇妙なことに、サムはその申し出にも首を左右に振りました。
「ロージーです。ローズ・コトンです」
その名前を聞いて、フロドは一切を合点しました。そして、むかむかと猛烈な怒りに襲われました。
このフロドが、旅の空で運命を同じくし、滅びの山では命を懸けた絆を結んだ自分が、サムの心中で農家の小娘と同等の天秤にかけられているというのです!
内心の腹立ちを表に出さぬように努めつつ、フロドはロージーのふわふわとした長い巻き毛を思い出し、朗らかで芯の強そうな笑顔を思い出しました。
ロージーはホビットらしく、そして可愛らしい娘でした。そしてサムが以前から彼女に好意を抱いていることも知っていましたが、それでもフロドにとっては、彼女が自分と互角の存在だとは到底思えませんでした。顔立ち一つとっても、明らかに自分の方が上だとも自負しておりましたし。
「おらは、いってみれば二つに引き裂かれるような思いですだ」
しかし、つっかえつっかえサムは言うのです。純朴なサムは彼なりに申し訳なく思い、そんな自分を恥じて俯いているようで、フロドには感情のまま不機嫌に責め立てることなどとても出来ませんでした。
今強く利害を説き情に訴え仮病を使ってでも(実際この後フロドは度々体調を崩すことになるのですが)、サムを自分の望むように動かすのはいとも簡単なように思われましたが、フロドは実行に移すのを躊躇いました。後々サムが後悔をしてフロドを恨んだりしない保証はありませんし、万一考えを改めたサムがロージーと所帯を構える為に出ていってしまえば、フロドは袋小路に一人残されることになってしまいます。
彼の自負するところであった若さと美貌も、あの指輪の魔力を当てに出来なくなった今では何時まで保てるか分かりません。フロドの眼前に裂け谷で見た、見る影もなく老い窶れたビルボの姿が甦りました。フロドが考えを巡らしているこの瞬間にも、自分の姿が年相応のおっさんになってしまうかもしれません。
「わかったよ」
と、フロドは言いました。
この間、客観的にはほんの一瞬きの時間に、フロドは光の速さで考えを巡らせ、大急ぎで結論を出したのです。
「お前は結婚したいんだね。それでいて袋小路でわたしと一緒に暮らしたいとも思ってるんだろ?だけど、お前、そんなこととても簡単じゃないか!」
同居を言い出した時と同じく気軽な調子で、心底なんでもないと思っているようにフロドは声を上げました。珍しく弾んだ主人の声に、俯き加減のサムの顎も釣られたように上げられました。忠実な庭師は、フロドの考えを絶対のように思っていましたから、この難題にも必ずや良い方法を見付けてくれると固く信じていたのです。
「できるだけ早く結婚して、それからロージーと一緒に引っ越しておいで。袋小路にはお前が欲しいと思うだけの大家族が住める場所が充分あるんだから」
なんて素晴らしい提案なのだろうとサムは思い、慈悲深いフロドに深く感謝を捧げ、それを口にしました。
「さすが旦那ですだ!おらが三日三晩寝ないで悩んだことに一瞬でけりを付けちまうなんて、頭の造りが違うといってもこれ程だったとはなあ。ああ、これで八方丸く収まるってもんですだ!」
無邪気に喜ぶサムを満足して眺め、フロドは唇を微笑みの形に変えました。
その様子を注意深く観察する者が書斎にいれば、その紺碧色の瞳が全く暖かみを欠いた、まさにモルドールの赤の目、オロドルインの火口、灼熱に燃える暗黒の炎を映していたと分かったでしょう。しかしそれは、純朴で愛すべきサムワイズ・ギャムジーには見えない光景でした。
「ふふ、ふふふ……」
今や、フロドの心中はローズ・コトンへの八つ当たり的な怒りのみで占められていました。
今のところはサムの為にも譲歩してやることにします。
ごうつくの親戚どもが咽から手を出して欲しがった袋小路の一等地を労せずして手中にする小娘へと、呪詛を心の中で撒き散らしながらフロドは微笑みました。
――このままにしておくものか。
帰郷以来、久方ぶりに身の内から枯渇していた活力が湧き上がるように感じていた、……フロドは元指輪所持者の宿業を背負っているのでした。
なんか怖い怖いと言いながら姑フロドの嫁いびりが脳裏を去ってくれないので、いっそ吐き出すことにしました。これで安眠出来ます(苦笑)。
何故か心の中に住むフロドさんが物凄い暗黒属性なんですが多数派ではないのでしょうなあ。
映画で「ロージーと結婚したかった」と滅びの山で男泣きするサムに「お前が一緒で良かった(訳:ふふふお前には僕がいるじゃないかサム)」とか言いつつ肩を抱きにかかるフロド様はもう暗黒とか通り越してフロサムめいた心地で私を震え上がらせてくださいました。
なんとなく指輪モノはパロディっぽいタイトル付ける気なんですが、小説揃えで「黒い家」よりも内容的にはこっちかなあ、と。
往年の、恐怖の嫁姑バトルドラマ。