少年が眠れなかったのは悲しみが原因ではなかった。
子供の小さな世界にとって、その一角が崩れることは世界観の根本を揺るがす衝撃だ。が、葬儀を経て尚、実感が湧かないのである。明日朝食の席に何食わぬ顔で母が姿を現しそうな気がする。感情が麻痺しているだけかもしれない。この目で死顔を見ていないのも、母の死を信じきれない理由かも。
敵組織の手で、自動車に爆薬が仕掛けられていたのだという。
幼い子供に詳しい話は伏されていたが、同時に子供と侮って目の前で木っ端微塵になった奥方の悲劇を噂する参列者も多かった。実際は九つともなれば、大人の話す大半の内容を理解出来ている。最後の別れの時間になっても柩の蓋は閉じられたままだった。
しんと真夜中の屋敷は寝静まっている。少なくとも乳母の姿は部屋の中に見えない。自分と同じように起きている者と考え、――涙を零す父親の姿が脳裏に浮かんだ。
現実では泣き顔を見たことはない。憔悴はしていたが、昼間の父は涙ひとつ見せず弔問客の接待をしていた。だからといって冷たい人ではない。
名誉と責任ある立場にある父は母や自分に優しい人であるが、兎に角仕事が忙しく顔を合わせない日もざらにある。母と比べれば遠慮のある相手だが、今やたった二人きりの家族である。父に会えば落ち着くなり共に悲しむなり出来そうだと思い直した。
そっと上掛けの端を捲り、子供用の寝台から抜け出した。真夜中の冒険は軽い高揚すら感じさせる。次代のファミリーを担うボンゴレの嫡子だ。暗闇を恐れたりはしない。
ボスとその家族の寝室は屋敷の中でも最も警備の厳しいエリアだ。奥方を喪ったばかりの今は特に。不寝番の黒服に見つかった場合、怒られることはなくとも問答無用で子供部屋に連れ戻されると承知していたので、少年は細心の注意を払って廊下の暗がりを進んだ。
あとは最後の難関、父の寝室へは簡単な軽食を摂ったり部下の待機に使用される控え部屋からしか入り口が通じていない。珍しく小さく開いていた扉が音を立てないように注意して、中を覗き込む。
――夜着姿の父がいた。両手で顔を覆っていたが、ふわふわの綿毛のような見慣れた髪は父特有のものだ。寝室に通じる扉に寄り掛かるその背を、もう一方の人間が割れ物を扱う手つきで引き寄せる。誰だか判らない男の胸に抱き込まれ、やはり父の顔は見えないが、小さく震える肩は嗚咽を堪えているようだった。窺う自分の位置からは相手の背中しか見えない。
「……十代目」
肩に近い位置で跳ねる、男にしては長めの銀髪。低く擦れた声は父に負けぬ程に震えている。頭一つ低い父の髪に頬を押し付けるような仕草をすれば、ちらと横顔が垣間見えた。確か幹部の一人だ。ボスの私生活には関わらない役職のため言葉を交わしたことはないが、それでも目立つ容姿が記憶に留まっている。
「……どーしよ?」
まるで自分と年の変わらぬ子供のような、そんな弱々しい父の声を初めて聞いた。
マフィアらしからぬ物腰柔らかい人であるが、鷹揚な挙措の中に自然と他を従わせる風格を纏う父親を尊敬していた少年は失望に似た気分を味わう。悲しみを共有しようと来たのに、既に父が別の人間を相手に選んでいたことにも。
「すいません」
何故かは知らないが、それを聞いた部下は呻くように謝罪した。
「獄寺くん」
「すいません。でも俺、これ以上」
無理矢理絞り出すような声は、発音する度に咽喉が痛みを覚えているように聞こえた。半ばで途切れた言葉の代わり、背中に回した腕に力を込めたらしい。胴を絞められ、今度は父が苦痛の声を洩らす番だった。
「ううん、ごめん。……最低なのは俺なんだ」
それまで力なく垂らされていた父の腕が男の背中に回された。ゆるゆると、それこそ我が子を慰撫するような手つきで撫でられて、男の肩の強ばりが溶けていくのが夜目にも見て取れた。
「ホントに最低だ……。君のことはすっかり諦めた筈なのに、愛してた彼女が死んで嬉しいと思ってしまうなんて、」
気が狂ってる――。父の悲鳴が聞こえた気がしたが、獄寺は最後まで言わせなかった。顔を押し付けるように上体を屈め、やがて沈黙の中に小さな吐息が混じり始める。子供の目を阻むような背中の向こうで何が行われているのか、想像出来なかったが理解出来る気はした。引き寄せる仕草で髪を掻き回す父の腕をそのままに、男は寝室のドアノブを片手で回し、
「……おっと、ここから先は年齢制限だ」
すぅ、と目元を塞いだ大きな手からは微かに硝煙の匂いがする。洗っても落ちない程に染み付いてしまっているのだ。
目隠しされたまま、数歩後退させられた。手を離され、見れば控え室の扉は閉められている。本人の気配はおろか、ドアの閉まる音すら聞こえなかった。
子供相手にわざわざ屈み込むような真似はせず、見上げてくるのは把握しているとばかりに歪めた唇の前に人差し指を立ててみせる。茶目っ気に溢れた仕草もこの男がすれば気障に映る。
敵わないまでも足音を殺し、踵を返した後をついて歩けば、一つ角を曲がった辺りで黒衣は立ち止まった。
「……ったく、ガキの気配にも気付けないなんざボンクラにも程があるぞ、アイツら鍛え直してやる」
「リボーン」
闇に溶け込むように廊下の暗がりに佇んでいるのは、ボンゴレファミリー随一のヒットマン、そして少年にとっては第二の父とも言うべき家庭教師である。独言ともつかないボヤきに、当人達はそれどころでなさそうだったから仕方ないと思ったが、自分が弁解するのも怪訝しい気がして口にしない。と、フンと鼻で哂うようにされて思い出した。彼は読心術が使えるのだ。
「あの馬鹿共は放っとくとして、テメーもグレるんじゃねーぞ」
言い聞かせるにしては投げ遣りな調子だが、これは常から変わらない。それでいて要求してくることは結構なスパルタなのだが、父に聞いたところでは年齢の問題かこれでもかなり手加減されているらしい。本格的な教育はミドルスクールに入ってからとリボーン本人にも言われている。
「あいつらを引き離したのは俺だが、全然後悔しちゃいねーよ。お前の母親には重要な役目があった。それを覚えとけ」
「……役目を果たしたから殺したの?」
何となく思いついたままを口にする。正しかろうと間違っていようと、親切に回答を教えてくれる相手ではない。だが、母親を殺害したのは敵組織ではなく目の前の男であると勘が告げていた。自分の血筋には超直感なるものが宿っていると、教えたのは家庭教師当人だ。
「リボーンはパパンが好きなんだね」
「……長生きしたかったら、何でもかんでも口にする癖は直すんだぞ」
苦虫を噛み潰したような忠告からは、この男に珍しく本心が赤裸々だ。母親の役割とは後継者、即ち自分を産むことだろう。それが果たされたから母はリボーンにとって用済みとなったのだ。
「でも何で今頃?」
万一に備えもう一人くらい子供がいた方が確実であるし、自分が生まれてすぐに始末しても良かった筈だ。
「子供には母親が必要なんだろう?」
疑問形で言われて首を傾げる。ひょっとしてリボーンには母親がいないのだろうか。
「九つにもなれば充分一人前だろ、俺がアイツを抱きたいと思ったのはお前の年だったからな」
……比較対象が間違っていないだろうか。自分も大人びていると言われるが、いくら何でもそれは早熟過ぎだろう。この仏頂面の男が恋愛してるイメージなど浮かべ難いが、例えばさっき獄寺がしていたように、リボーンも力一杯父を抱き締めたいと思っていたのだろうか。
「……あぁ、知んねーのか」
「何が?」
「年齢制限かかんない範囲で今度教えてやる」
見上げれば、楽し気に片目を瞑られた。全く悪怯れない様子だ。殺した相手の子に見破られて尚、生粋の殺し屋は罪悪感を抱いていない。一番得をした父とその恋人の方が、感情的になっている分まだしも罪悪感や悲しみの念は強いだろう。
誰からも惜しまれない母が可哀想だ。しかし何故かリボーンを恨む気も起きない。父に対しても同じだが、ただ今まで通り家族として無条件に信じることは二度と出来ないとも思う。
自分が独りぼっちだと感じるのが大人になることなら、確かにリボーンの言う通り九つにして自分は大人になったのかもしれなかった。