漂白された紙が目に痛い。窓から差し込む西日の照り返しが原因で、俺は眉間を摘んで眼精疲労をやり過ごした。
そういや入浴中に鼻の付け根をマッサージすれば鼻が高くなると聞いたこともあるが、結局少年の切実な努力は報われず、見事に陰影の存在しない日本人顔は未だ俺のコンプレックスであり続けている。
この話の教訓は実に単純だ。
誰にも何も期待されず、或いは過剰な期待を押し付けられ散々振り回された結果、ある程度自分の能力と限界の見えるようになった俺は妥協なんて言葉を会得した。何箇所かの要点さえ押さえておけば大半のことは何とでもなるし、だけど少ないその要点すら見落とすことが有り得るなんて、随分と惨めな現実だ。
今目を通してる決算報告書だって、実際は上納金の額に下駄を履かせてる部署と予算をあっちこっちにプールさせてる部署の思惑が絡まり合って、一応それらしき数字が提出されてるに過ぎない。闇社会の更に暗闇へと消えた一部の金は、碌でもない私事や、下手すると敵対組織に流れてる分さえあるのかもしれないけど。
といって、ウチ程の規模でしかも業種がアレな組織が不正の根絶なんて画策するなら、秘密警察と内部告発の横行する恐怖政治を敷く以外にないだろう。こういう黒社会では雲雀さんみたいな暴君型の上司にカリスマを見出だす向きも確かに存在するが、大半の連中は俺に物分かりの良いボスを期待している。組織の隅から隅まで一人で監視するなんて土台無理な話だ。
但し、扱い易いボスと舐められることだけは御法度。許せない境界を自分に科すことを忘れたら、瞬く間に堕落と腐敗に飲み込まれてお終いになる。黙認はしても目を離してはならない、任用した相手を信じてはならない。
そういう意味では、俺が芯から信用してるのは彼一人だけかもしれない。
そう思った矢先に、予め内線で来訪が告げられていた通り、彼からの控えめなノックの音が聞こえた。
「いいよ、入って」
「失礼します」
大きな音を立てぬよう扉を開け放って、一歩を前に踏み出し、きっちりと頭を折って、扉を閉め、再び一礼する。相も変わらず彼らしい。
「お帰り、お疲れさまだったね」
アルバニアでの商談を終え帰国したばかりの彼を労えば、
「恐縮っス!」
満面の笑みが返ってきた。躍るような足取りで部屋を横切り、彼は執務机の前に立つ。座った俺からは必然的にやや見上げる角度になる、この距離を許す相手は少ない。約一ヵ月ぶりの顔が、ちょっとだけ懐かしい。
「急な出張で悪かったね。部署の引継ぎも大変だったでしょう?」
短期間に資料を集めた彼自身も、それまでの担当を引継いだ山本も相当苦労しただろう。
「でも、君に頼んで良かった」
この取引は彼にしか頼めなかった。申し分ない結果を出してくれたことは既にメールで報告を受け取っている。彼の仕事は完璧だ。
「はい……!」
俺に褒められた彼はいつだって、こっちが恥ずかしくなるくらい嬉しそうな笑顔になる。
硬質な美貌が小さい子供のようにくしゃくしゃに歪められ、顔全体で開けっ広げな喜びを表現する。折角の二枚目が台無しになる、この表情を目にすると、俺はいつだって胸が疼くような心地になった。
「この一ヵ月はお会い出来なくて寂しかったですけど……、十代目のお役に立てたのなら本望です!」
「彼女にも逢えなかったしね?」
「なっ……」
頬杖ついて見上げれば、判りやすく狼狽える。彼は純情なのだ。
彼が今恋しているお相手は、普通の商社に勤めてる一般の女性だ。茶色の髪で清楚な印象の、笑顔が可愛いそこそこの美人。仕事の途中で立ち寄ったカフェで知り合い、彼は自分の職業を隠したまま交際を続けている。前の恋人とは彼の薄汚い仕事が原因で別れることになったから、らしい。
語尾が曖昧なのは全部山本から聞いた話だからで、彼は一緒に飲みに行った時に惚気みたいなことを口にしたり、持ち歩いてる写真を見せたりしてるらしいけど、俺が知ってるのはそこからの又聞きだけ。
中学からの友達って立場は同じでも、上司と部下の関係が長くなると遠慮が先に立つのか、俺にはあまり気軽な話をしてくれない。彼が俺を崇拝しすぎるような傾向は昔からだけど、少し寂しいとも思う。
「あ、あんな女はどーでもいいんですよ。海外行くっつったら、土産買って来いとか煩せーし。俺は十代目の御為に働いてるんであって、遊びに行ってんじゃねーのに!」
憎まれ口は彼特有の照れ隠しだ。身近な人に対するほど、彼の言いぶりは粗雑になる。そうでない人間には極端に無関心になってしまう性格だから、彼の内弁慶はとても解りやすい。
ふうん、山本にもこんな風にいつも惚気てたのかな。
「でも、お土産買ってきたんでしょ」
「……文句言われんのも面倒臭えから、空港の免税店でテキトーに香水買いました」
渋々白状するみたいな言い方が可笑しくて噴き出してしまう。唇を尖らして目線をうろうろさせて、なんだか小さい子が拗ねてるみたいで可愛い。
俺が笑う所為で彼は益々恥ずかしくなるようで、それを誤魔化すように妙に膨れっ面になって、でも最後は眉尻を下げた情けない表情で笑ってくれる。
「じゃあ早く渡したげれば良いのに。彼女可哀相じゃん」
本来ならば、彼は帰国早々本部に立ち寄らずとも良いのだ。簡単な経過報告はメールや現地の支部から既に貰ってるし、急ぎの用事は別段ない。飛行機は午後の便だったから、帰参報告も明日の朝で構わない。
「……って、」
「え?」
「だって、十代目のお顔を真っ先に見たくて。寂しくて、このひと月、何度もオトラント海峡泳いで帰りそうになってました……」
――ああ全く。
ホントごめん。ごめんね。
「……流石の君でも溺れちゃうだろ」
懺悔の言葉は辛うじて心の中だけに留めて、俺は彼の見たかったであろう笑顔を作る。
「一ヵ月会ってないのは一緒じゃん。俺と同じようにあっちだって待ってるよ」
「この後で会いに行きますよ。そんで充分です!」
それでも隠しきれない期待を唇の端に浮かべ、明日以降の段取りもそこそこに彼は執務室を後にした。これからは毎日俺に会えると喜んで、最後に
「女ってホントうぜーっスよね!」
浮かれた調子でそう言い残して。今から連絡を取れば、夕食を共に出来ると考えているのだろう。
ごめんね。彼女は君の帰りを待ってないんだ、獄寺君。
「……苦労してんな、ボス。いつまでアレを右腕に据えとく気だ?」
「聞いてたなら判るだろ、出国してから一回も連絡を取ってないみたいだよ」
神出鬼没なこいつが何の前触れもなく机に寄り掛かってたって、俺はちっとも驚かない。
ニヤリと嘲笑を浮かべたリボーンは、取り出した愛銃の先端に色っぽく口付け、眼差しを険しくした俺を見て一層笑みを深くした。
先に目を逸らしたのは俺の方で、机上の書類をのろのろと確認する。獄寺君がここに来るのを知ってたから、見られても不都合のない内容のものしか置いてない。こいつにも、多分。
「幸せの絶頂から不幸のどん底へ、だな。アイツにとっちゃ粛清よかタチ悪ぃかもしんねーぞ」
「獄寺君だけなんだ、俺が信じてるの」
何の弁明にもならないけど、それしか言い様がない。
これから、彼は恋人の事故死を知ることになる。
最初に疑いを抱いたのは写真を見た山本で、彼と寄り添って淡い微笑みを浮かべる印画紙の中の女性を、以前某ファミリー主催のパーティーで見かけたことがあると気付いたのだ。
山本が偶々その顔を覚えていたお陰で、報告を受けた俺はすぐに彼女の素性を調べるように手を回し、判明したのは件のパーティーの招待客だった、とある一家のボスが囲う愛人の一人だという女の正体だった。
丁度彼の担当していたシマがそのファミリーと小競り合いを繰り返している最中で、先方の目論みは容易に想像が付く。寝返らせるか、こちらの情報を盗み出すか。
彼は絶対に喋らなかっただろう。相手を堅気と信じて、しかも自分の職業まで告白出来なかったんだから。
一番簡単なやり方は、裏切り者の可能性がある彼を断罪することだったけど、どうしても俺は彼を信じることしか出来なかった。
他の幹部に任せる筈だった海外の取引に急遽送り出し、彼がイタリアを離れている間に案件を引き継いだ山本が全部の始末を付けた。女は山本の部下が自動車事故に見せ掛けて処理したし、暗にそれをちらつかせて先方のファミリーともボンゴレに有利な形で一応の手打ちを行えた。使い捨ての女一人死んだくらいでは、先方の面子も傷付かない。
「何でテメエで処理させねーんだ。甘やかすと同じバカ何度だって繰り返すぞ、あれは」
「いいんだ」
何度失敗しようと陥れられようと、俺は彼の忠誠を疑わない。それよりも、真直ぐに人を好きになる彼の純真さが失われてしまうことの方がずっと怖いんだ。
人を疑う術を覚え、敵の間諜を逆に利用するようになった彼を、俺は二度と信用出来なくなってしまう。
彼女が優しく可愛い恋人であったと信じたまま、その眠る墓標の前に跪き、花の匂いのする香水を捧げる彼の姿が目に浮かぶ。空の色はどこまでも青く、彼の流す涙はとても透明で、風はきっと穏やかに彼の慟哭を見守る。
出来れば彼の隣で、俺はその光景を眺めてみたいと思う。
「……ハッ、何だかんだ言い訳して、テメエはその歪んだ性根を獄寺に知られたくないだけなんだよ」
「あー…そうかもなぁ」
確かに俺の言動は、獄寺君に失望されたくないってだけの誤魔化しに過ぎないのかもしれない。彼の過剰で美しい理想に応える為の、切実で悲惨な努力だ。
「ったく、面倒なガキどもだな」
呟くリボーンの声は苦虫を噛み潰したみたいな不機嫌さで、内容とは逆に物凄く子供っぽく感じた俺はつい笑ってしまった。勿論殴られたけど。
勢い余って机に額を打ち付け、それでも暫らくの間、俺は肩を震わせていた。