力を込めて蹴り付ければ、みしみしと音を立てて腐りかけの板塀は向こう側に倒れ込んだ。いざという時の為に取っておいた侵入路だが今更だ、露見しても構うまい。
大勢いる家人は大半が来客を迎える為に表の方に集まっている。これを逃せば二度と機会は巡ってこないことを、誰に言われた訳でもなく、獄寺は直感的に悟っていた。
玉砂利を蹴散らしながら人気のない庭園を駆け抜け、いつもの濡れ縁に身を乗り上げれば、あまり待つこともなく曇り硝子にほっそりとした影が映った。螺旋式の鍵を外す小さな金属音の後、焦れったくなる速度で引き戸がからからと開いていく。白昼に幽霊を見たような顔色をして、その人が顔を出した。
「大丈夫ですか、十代目……!?」
いっそ切ないほどに、綱吉は変わらないままでいた。あまり日に当たらない肌は一層白さを増したかもしれない。柔らかな色を乗せた暖色の瞳にひたと見凝められ、獄寺の胸には蜜の海に溺れるような苦しさと甘やかさが同じ強さで込み上げる。
「ご、獄寺……くん……?」
思わず獄寺の差し出した手に同じく無意識といった風に掌を重ね、そんな自分の所作に怯んだように、我に返った綱吉は指先に緊張と躊躇いを見せる。一瞬離れかけた二つの手は、獄寺が綱吉の手首をぎゅうと渾身の力で捕まえたことで、再びしっかりと絡み合った。獄寺の骨張った手の感触を確かめるように、綱吉の指先が遠慮がちに動く。同時に心臓を撫でられる。眉根に深い皺を刻み、苦しいまでの衝動に従って、獄寺は囚われた人を己の側へと引き摺り出した。
「えっ……」
着物の袖をひらめかせ、非力な綱吉は転がり出るように沓脱ぎ石へと足を着く。一段高いその場所からすら引き摺り落とされ、足袋の汚れを気にする暇すらなく獄寺の腕の中にすっぽりと抱き込まれた。狼藉に対する驚きか異なる感情によるものか、綱吉の小さく息を呑む音が密着する獄寺の耳にも届いた。
「十代目……」
逢えない間に呟き続けた言の葉は、千にも万にも重なって胸に降り積もっていた筈だった。しかし夢にまで見た柔らかな体を腕に抱き、今この時何を口にすれば良いというのだろうか。震える咽喉が紡ぎだすのは愛しい人を呼ばう声だけだ。幾千万の睦言を重ねるよりも、想いを伝えるにはそちらの方が相応しいに違いない。
「ごく、……」
何故なら、自分を呼ぶ綱吉の声が変わらぬまことを伝えてくるのだ。半ばで途切れた囁きが、どんな言葉を弄するよりも甘やかに、獄寺への想いを肯定しているのだ。
あまりの幸福に獄寺の頭はびりびりと痺れた。俺と一緒に逃げてください。告げる筈だった言葉は宙に放り出されたまま、阿呆のように掻き抱く力を強めるしか出来ない。
上がっていくばかりの体の熱は、しかし、
 
「なにしてるの?」
 
――氷の温度を持つ声によって、一瞬で冷やされた。
「……ッ!」
じゃりっ、と獄寺の下駄が玉砂利を踏みしだく音が響いた。
いつの間に忍び寄っていたものか、庭の青松の影から忽然と生まれ出たような静謐な佇まいで、長身の男が二人を真っ直ぐに見据えている。信じられないことに、獄寺の聡い耳にすら足音が全く聞こえなかった。
飾り気のない黒の着流し姿を獄寺も知っている。今頃は遠く離れた正面玄関で大勢の人間に取り囲まれている筈であり、人気のない離れの庭にいるべき人間ではない。余人の姿が見えないことに心の片隅で安堵して、その臆病さに獄寺は自らを嫌悪した。
「雲雀さん……」
力任せではなく、だが確かな意思を持って綱吉は獄寺の胸に手を当て、その体を後ろへ押し遣った。そういえば抱き締めている間も綱吉の腕はだらりと垂れたままで、最後まで獄寺の背に回されることはなかった。
獄寺から身を離した綱吉は、着崩れかけた裾や襟元、帯の位置を簡単に直している。鶯の地色に裾が淡い浅黄蘗をした着物には、地味ながら肩と裾部分に丁寧な手刺繍が施されている。明らかに普段着ではないそれが目の前の男からの贈り物であると悟ってしまったのは、恋する男の不幸な直感だろうか。
「来なよ」
「……はい、よろしくお願いします」
他の男との逢引を目撃した人間らしからぬ淡々とした口調と顔色とで黒髪の男は告げ、綱吉の側でも一言の弁解もなく、履き物にも足を通さぬままに従容と一歩を踏み出した。……獄寺の堪忍袋もここまでだった。
「おい待て雲雀!!」
或いは、最後の機会すら潰えたこの現状に、自棄を起こしているのかもしれない。
「テメエ……」
行かすまいと、荒い手付きで綱吉の肩を掴んだ。憎い男をぎりぎりと睨み付ければ、白々とした眼差しを返される。雲雀の冷静さに漣すら立てられぬ口惜しさに、獄寺は奥歯を噛み締めた。
「十代目に、なんてことを……!!」
凶暴な男。独特の価値観と美意識を持つ、強い男。気に入らないとは思っていたが、認めてもいたのだ。まさか、身に纏う権力をこのような卑劣な手段に使うような男だったとは。
「獄寺君……」
答えを返さない雲雀の代わりのように、綱吉が柔らかく呼び掛けた。嗚呼、あなたの瞳には未だ変わらぬ情愛が滲んでるというのに!
そこに浮かぶ光に魅せられて、獄寺は愛しい人の瞳を一心に覗き込んだ。この瞬間だけは、雲雀の存在は脳裏から消えていた。
「ありがとう。でも、これは俺が決めたことだから」
「十代目……」
「家のみんなを守るために……俺は責任を果たさなきゃいけない、だから」
微笑む綱吉に、獄寺が忍んできた当初に見せた戸惑いは最早、ない。
何故あなたが家の犠牲にならなくてはならない。喉元まで出かかった言葉は、綱吉の責任感をよく知るからこそ口に出せなかった。
実家への経済援助の代償として、今日綱吉は人質のようにして雲雀の家へと赴く。無理矢理行われることなら、今すぐにだって連れて逃げる。綱吉自身が決めたことだから、獄寺に口を出す余地はなかった。
ゆっくりと獄寺の手を肩から外し、綱吉は無言で二人の遣り取りを見守っていた雲雀に向かって歩き出した。凍てついた刃物のような鋭い眼差しが、綱吉を視界に入れた途端、雪が溶けるのにも似た穏やかさを宿す。嫉妬に獄寺の腸は焦げ付きそうだ。
射殺さんばかりに睨み付けてくる負け犬をどう思ったのか、ふと路傍の石に気付いたといった顔付きで雲雀が口を開いた。
「……君はそこで何をしてるの、獄寺隼人」
「――ッ!!」
そうだ。俺はこんなところで何をしている。十代目の為だというなら、絶望に膝を着くのではなく、より十代目の力になれる強い男に。そう、こんな男よりも。
「十代目……ッ」
遠ざかる、ぴんと伸びた背中に誓う。俺は絶対に強くなります。腕力だけでなく、権力、財力、いや覚悟の強さ。
そして、いつかあなたを―――、
 
 
 
 
「……って夢を見ちまったんです十代目ぇえええええ!!!!」
「散々引っ張ってそのオチ!?いや、わかってたけど!夢以外の何物でもないけど!!」
いつもの屋上でのランチタイムである。
口から焼きうどんパンの欠片を飛ばしながら昨夜見た夢を熱弁する獄寺隼人に、綱吉はツッコミを入れ山本は爆笑する。いつもの三人組の日常だ。
「はははは獄寺おもしれぇー!」
「うっせー野球馬鹿!政略結婚によって引き離される恋人達!なんたる悲劇!!」
「あー……」
話の途中から既に爆笑していた山本は既に抱腹絶倒の域でしきりに床を叩きまくっているが、勝手に出演者にされている綱吉には大して笑えるネタでもない。
「十代目……!!俺を置いて絶対に結婚しないでくださいね!!」
そして勿論獄寺本人は大マジである。
「ええ〜〜…それって俺に一生結婚するなってこと?」
「特に雲雀の野郎とは!!絶対に駄目ですからね!!!」
「そもそも男同士は結婚出来ないって……」
「十代目ぇぇ〜〜〜!!!」
……聞いちゃいない。
しまいには自分の想像でおいおいと号泣し始めた友人に溜息を吐きつつ、綱吉は転んで膝を擦り剥いたランボを宥める時と同じ手付きで自分より高い位置にある獄寺の頭を撫でてやった。
「あ〜うんうん、獄寺君以外の人と結婚しないから安心してね〜〜」
幼児のような同級生をいいこいいこしながら適当に放った言葉が数年後自分の首を締めることになるとは、今の綱吉は夢にも思っていない。
 
 
 
 
 
Allora.

……アニメ117話が衝撃的すぎました。