十代目は数学の補習がおありになるらしい。山本の野郎も一緒ってのがムカつくところだ。お優しい十代目は先に帰って良いと仰って下さったが、俺は十代目とご一緒出来ない放課後に耐えられそうもないという個人的な理由から、一人音楽室で時間を潰している。十代目のご本心が山本と二人で下校したかったことにあるなんて、可能性においてすら想像したくない。俺の心は張り裂け、今この場で死んでしまうだろう。
手慰みに弾くのはテンペスタの第三楽章。難聴の音楽家が作曲したピアノソナタ。音楽室の額縁越しに、音楽家は気難しい顔つきで俺の滅茶苦茶な演奏を見下ろしている。どーせ聞こえないんだろ?なら黙って好きに弾かせろよ。
pの代わりにff。思う通りの滑らかさで動かない指への苛立ちを込めて、叩きつけるように鍵盤を鳴らす。クレッシェンドなんて関係なく、常に最大の音量で、俺の心の嵐は常に鳴り響いている。
俺の心を揺り動かすのは、いつだって十代目だけだ。あの方の穏やかさに触れ、俺はことあるごとに自分の惨めさを自覚する。第91小節、指の運びがもたつくのに自分でも苛立つ。繊細なパートは苦手なのだ。自分の腑甲斐なさを意識する度に、俺はあの方の傍を離れられなくなっている自分を自覚する。
城に居た頃は四六時中ピアノの前に座っていたってのに、近頃は随分と弾いていなかった所為で指先の感覚が鈍っている。今の俺にはピアノよりも大事なものが出来たからだ。しかし溢れる感情をこれ以外で形にする術を知らない。
十代目は今何をされているのだろうか。先公の野郎に理不尽な虐めを受けていないだろうか。fではなくfffで和音の連なりを。sfはそれ以上の大きさで。それとも山本と相談しながら楽しく課題を解いているのかもしれない。首を振る。乱暴に指を叩きつける。汚い音だ。もし俺が美術の才能に優れていたなら、渋くてお優しくあどけない風情の、十代目の肖像画を見事に描いてみせるのに。
俺に美しい絵は描けない。俺は美しい絵を描けない。俺の弾くピアノもちっとも美しくない。それは俺の心が美しくないからだ。俺の心が生み出す感情はいつだってひどく汚い。テンペスタ、心の嵐。
十代目!十代目!十代目!!
お慕いしています、告げるつもりはありません、一生墓場まで持っていく覚悟です。
ただ、ここで待たせてください。置いて行かないでください。どうか俺を捨てないで!!
レ――――。最後の一音が余韻を残して空気に消える。
全三章ぶっ通しで弾いても、たかが20分やそこら。大した時間潰しにもならなかった。何かしていれば気が紛れるかと思ったが、逆に余計なことばかり考えてしまう。
時計を確認しようと顔を上げ、俺は防音扉に凭れるように立っている人に漸く気が付いた。
「…………え?」
「あ、ご、ごめんね。声も掛けないで……」
一瞬目の錯覚かと思ったが、放課後の薄暗がりでも俺がこの方を見間違う筈がない。
少々気まずそうに、十代目は俺から視線を外された。俺が間抜けな声を上げるまで、じっと此方を凝視しておられたのだ。何処となく奇妙なご様子の、その頬には涙の伝った跡がある。
「どっ、どーしたんですか!?誰かに何かされたんですか!?」
許せねえ…!激昂して無意識にブレザーの懐からダイナマイトを取り出す俺に驚かれて、十代目は「違うよ!」などと仰りつつピアノの前まで駆け寄って来られた。
「補習が早めに終わったから、獄寺君探しに来たんだ。そしたら君はピアノを弾いてて……何かわかんないんだけど聴いてたら涙が出ちゃったんだよ」
俺の腕を掴む手は慰撫するような緩い力で、照れ臭そうに十代目は笑みを零される。
「こんなの俺も初めて。俺馬鹿だから上手い言葉が見付からないけど、うん、感動したんだよ」
「……恐縮っス」
衒いのない称賛の言葉に、喜ぶより先に茫然としてしまう。まさかそんな、こんな俺の演奏なんかが、十代目のお心を動かしただって?
「獄寺君、やっぱりピアノ上手いんだね。あれ、何て曲?」
「ベートーベンのピアノソナタ第17番、通称テンペストです」
「へえー、俺音楽はさっぱりだけど、ベートーベンってあの人でしょ?確か。獄寺君に何だか髪型が似てる……」
「ええー?似てますかぁ?」
額縁の肖像画を指差す十代目に抗議してみるが、笑って受け流される。あんな藪睨みのオッサンと一緒にされるなんて心外です!
憤慨するポーズを取っていれば、本当の嵐がいつの間にか過ぎ去っていることに気付く。俺の心あらずの受け答えも、感動したと仰る十代目のぎこちなさも既になく、漂うのはすっかり馴染んだ日常の気配だけだ。
人付き合いが苦手だと仰る割に、十代目のこういった雰囲気作りの上手さは俺には到底真似出来ない。山本なんかの計算ずくの話運びと違って、十代目のは元々のお人柄に寄与するところが大きいのに違いない。
「……そういえば野球野郎は?ご一緒じゃなかったんスか」
「山本は部活だよ。俺は獄寺君と一緒に帰ろうと思って。……待っててくれて有難う」
揃って音楽室を後にする。十代目がにっこりと微笑まれるのに、俺の方こそ泣きたくなる。幸福でも人は死ねるんじゃないだろーか。
この瞬間巻き起こった嵐は、先程と違って甘やかな痛みを胸に呼び起こした。