新市街にあるそのオステリアは有名ではないが味も客筋もそこそこ良く、落ち着いた雰囲気でアルコールを楽しむのに適した店であると一部の情報通には定評があった。
暗い色合いの調度、照明を落とし気味にした店内で特に目を引くのは、中央に堂々と座す大型のグランドピアノである。音楽好きの店主の趣味で、夜間はセミプロによる生演奏や歌唱を聴けることも多い。
運ばれてきた料理を一口含み、綱吉は微妙に顔を顰めた。不味かったからではなく、その反対の理由で。
突然執務室に押し入ってきた元家庭教師が「晩飯食いに行くぞ」とだけ告げ、ここまで引き摺ってきたのだ。何の説明もされぬまま書類仕事を中断して、手際良く用意されていた車の後部座席に乗り込んだ綱吉は、この男の気紛れにも横暴さにもいい加減慣れきっている。
そのリボーンは、綱吉の対面の席でひたすらワインを消費している。零歳児の時分からアルコール摂取していたような無茶苦茶な男は、酒に滅法強く、加えて味にも頻る煩い。
綱吉も同じようにワイングラスを傾ける。きりりとした口当たりの赤だ。この男の選んだ店に間違いのある筈もないが、酒を飲む時はしっかりと食事も摂りたい綱吉の好みに合わせての選択である気もしないでもない。
疑わし気に対面のリボーンを睨めば、ニヤニヤと食えない笑みを浮かべ、綱吉の表情の変化を具に観察している男と視線が交錯する。全く、何が面白いのだか。
「気に入ったか?」
「………お陰様で」
憮然と返せば、可笑しくてならないとでもいうように、くつくつと喉を鳴らして低く笑う。今夜のリボーンは随分と機嫌が良い。
アルコールの所為ではない頬の紅潮を隠して、綱吉は顔を逸らした。そして店内の照明を反射して鈍く光る、黒いグランドピアノへと目が留まる。今夜はピアニストの手配が付かなかったのか、ピアノの傍らで若い女が一人歌っているだけで、鍵盤の蓋は閉じられたままだった。
この国に住む声楽家は多い。プリマドンナを目指す駆け出し歌手や音大生が、生活の為飲食店でアルバイトに歌うこともよくある事だ。
彼女もそのような数多いる歌手志望の一人なのだろう。耳を傾けてみれば澄んだ声質、一定の声量もあって、決して下手な部類ではない。ただ個性に乏しく、極端に印象が薄いのが難点。
綱吉も店内を見渡すまで、全くその存在を意識していなかった。各々のテーブルで低い談笑の聞こえる店内の様子は喧騒というには程遠かったが、他の客にとっても綱吉と同様、向き合う相手以外に注意を傾ける者は皆無である。
求められているのは店内のBGMとしての役割であり、此処はコンサート会場ではない。その扱いも当然ではあるが、一曲を歌い終えた女の、長い黒髪を掻き上げる仕草が疲れているように見えた綱吉は、ふと彼女に同情を覚えた。
ちらと眉を顰めつつも、気を取り直した綱吉が再び顔と意識を料理へと戻そうとしたその時。
対面の男がすっと席を立った。
「?」
瞬きする綱吉には何も告げず、ただ唇の端を僅かに上げてみせる。テーブルの間を縫うように歩くリボーンは職業柄か故意に気配を消して、あんな目立つ風貌の男が全く他者の注意を引いていない。相も変わらず大したものだと眺めていれば、グランドピアノの前まで来て足を止めた。
声を掛けられ、初めて傍近くまで来ていた男に気付いた歌手は驚いたように見えた。綱吉の席からは聞こえないが、鍵盤の蓋を開けつつ二言三言、リボーンは打ち合わせめいた言葉を寄越している。フェルト地のキーカバーをさっと畳み、椅子を大きく後ろに引くと、リボーンは蠱惑的な微笑みを乗せ歌手に流し目を送った。女が頷くのを見届け、そして流れるように滑る指。
ぎょっとしたように、途端店中の関心がピアノの音に吸い寄せられるのを、綱吉は肌で感じ取った。
客だけでなく、よく訓練された給仕までもが一瞬動きを止め、そちらを凝視している。
曲はスタンダード過ぎるくらいのジャズ。店の雰囲気によく似合っている。
決して出しゃばり過ぎない、しかし洗練された高級酒のような伴奏に合わせ、女は歌う。私を月に連れてって、星の狭間で遊ばせて……。
先程までと同じ歌い手である。実際には大きな違いもないというのに、声音はより精彩を放ち、歌う姿は別人のように美しく見える。
――つまりは真実を話してってこと。つまり、あなたを愛してるってことよ。
綱吉が演奏に耳を傾けていると、時折伴奏の中に主旋律の音を交えてフォローまでしている。昔から女にだけは優しいのだ、あのイタリア男は。
一言で表すなら流暢。ごく端正でいながら、秘めた情熱と甘やかさを感じさせる音だ。初めて聴くが、非常にリボーンらしい演奏である。自在に聴衆の印象を操作し演出する所などが特に。
その一曲を弾き終えると、リボーンはあっさりと鍵盤を閉じた。腰を上げる飛び入りピアニストに対し、歌手から感謝と憧憬の籠もった接吻が頬に贈られる。
ピアノに近いテーブルの客からリクエストが寄越された。歌手は笑顔で頷き、明るい調子のカンツォーネを披露し始める。一曲の間にすっかり彼女は店に溶け込み、存在感を確立したようだった。
……流石、凄腕家庭教師の面目躍如である。
何食わぬ顔で席に舞い戻ったリボーンを、綱吉はグラスを掲げて出迎えた。
「お疲れ。ピアノ弾けたんだな」
「ん、惚れ直したか?」
しゃあしゃあと口にする厚顔さが、また堂に入っているものだから手に負えない。何処か得意顔のリボーンによる軽口に、綱吉は肩を竦めて応えてみせた。
「……お前ってホント嫌味な奴だよ!」
呆れたと言わんばかりの口調に反し、綱吉の表情は至極柔らかい。万能の才を持つ男は、満腹の猫のように眼を細めた。