雲雀が幼い時分、一番のお気に入りだった兎のぬいぐるみがある。
タオル地の表面はとても柔らかく、歯を立てればふわりと中綿の弾力を感じた。何でも口に入れる幼児だった雲雀は、そのぬいぐるみの口触りを最も好んでいたので、いつでも兎は涎でべとべとしていた。
二本の足で歩くことを覚えてから、常に兎は雲雀と行動を共にした。部屋を移動する時は長い耳や前足を掴み、引き摺りながら歩いたので、兎の尻から足にかけての部分は擦り切れて白から薄汚れた灰色へと変色していた。近所の公園まで連れて行った時は泥だらけになり、見かねた母親が洗濯した。幼い雲雀は兎が目の前から姿を消したことにショックを受け、泣き喚いて行方を探したらしい。流石に小さ過ぎて記憶には残っていないが。
雲雀を男の子と知らなかった親戚が、出生祝いにくれた物だったと聞いたことがある。そんな情報も後年のもので、当時の雲雀はその存在をあって当然のものだと考え、そこに疑問を差し挟む余地は微塵もなかった。物心ついた時、いや生まれた時から自分の傍にそれはあったのだ。
「君、何してるの」
「ひっ、ヒバリさん……!!」
よりによって並中の制服を着たままゲームセンターのような悪所に入るとは、風紀委員を馬鹿にしているのか。
不届きな草食動物を、雲雀は問答無用で殴り付けた。拳を使ったのは咄嗟に手が出たからだが、トンファーよりは痛くあるまい。
ガキィと派手な音がしたが雲雀は一切反省せず、殴られた当人の沢田綱吉もゲームセンターの汚い床に頭から突っ込んだにも関わらず、割合平気そうな様子ですぐに起き上がってきた。涙目で、殴られた頬を手で押さえているが。
見るからに弱々しい姿形に反し、この後輩の打たれ強さだけは大したものだ。滅多に反撃して来ないのはやや物足りないが、丈夫な沢田は叩きのめし甲斐のある獲物である。手加減無しに痛め付けても、救急車を呼ぶまでもなく自力で帰って行くのが便利だ。見方を変えれば従順な態度も望ましいと言えなくもない。
「下校途中の寄り道は禁止だからね。次からは気を付けなよ」
「ハイ!ごめんなさい!」
一発殴って取り敢えず満足した雲雀は、素直に謝罪する沢田に鷹揚に頷いた。雲雀の機嫌の上昇を察知して、沢田も愛想笑いのような、多分に引きつった笑みを浮かべる。
「いつもの金魚の糞どもは?一緒じゃないの」
「糞て……う、獄寺君は千円札を崩しに行ってて、山本はトイレです」
「ふぅん」
雲雀は沢田の腹に蹴りを入れた。軽く小突いた程度の力しか入れていないにも関わらず、沢田は見事なまでにバランスを崩し、その場に尻餅をつく。
「ふぎゃ!群れててすいません!!」
「全くだね、反省しなよ」
沢田綱吉の趣味がゲームであることは委員を使って調査済みだが、ゲームセンターで風紀の指導を受けた前歴はない。弱々しい沢田の容姿はカツアゲを企むような輩にとって絶好の獲物と映るだろう。弱者ほど自分より弱い生き物の匂いに敏感だ。
現に雲雀が沢田の特徴的な癖毛に気付いた時、柄の悪そうなのが数人、にやにや下卑た薄笑いを浮かべながら沢田の方へと近付きつつあるところだった。ターゲットの沢田自身は、生存本能が欠けているのか全く気付いていない様子であったが。そのドブネズミ連中は雲雀が沢田への制裁を行った辺りから焦った顔で後退を始め、今は何処かと店内を睥睨してみれば、店の奥の方でこそこそと顔を突き合わせている。
やだな。弱い奴に限って、群れた途端に気が大きくなるんだからさ。
雲雀が睨めば、沢田はぶるぶると小動物らしく震えている。取り巻きが出来た途端に普段行かないような場所へ赴く沢田に腹が立つのか、雲雀を恐れているにも関わらず雲雀の縄張りで治安を乱そうとするドブネズミの群に腹を立てているのか。小動物めいた沢田を一人置いて、その場を離れた取り巻きどもの迂闊さが気に入らないのか。雲雀当人にも正確なところは解らない。
「ところで雲雀さんは何故このような場所に……?」
「ああ、活動費の取り立てだよ。普段は下っ端にやらせる仕事だけど、偶には僕自ら顔を見せないと舐められるから」
「うえーー…知りたくもない町の暗部を垣間見ちゃったかんじ……」
問われるまま素直に答えてやれば、何やらぶつぶつと暗い顔で呟いている。雲雀が目の前にいるのに独り言とは礼儀を知らない子だ。
「こういった類の店は揉め事も頻繁だから、風紀委員が出向することも多くてね。日頃から渡りを付けておくのは双方にとって損じゃないんだよ」
「そうなんですか。……マフィアのこともそんな風に考えたらいいのかなぁ……必要悪?」
「何か言った?」
「いいえ何でもありません!!」
「変な子だね、君」
他の草食動物達と同じように雲雀のことを恐れているようで、その権威を全く意に介していないように見える時もある。
家庭教師だとかいう赤ん坊のことは、風紀委員の調査網でいくら洗っても正体も前歴も、一切のデータを掴めなかった。しかし半端無く強いということだけは判る。沢田綱吉は隠すべきデータも持たない一般人だ。調査報告を読むだけでなく直接会話し、幾度となく拳を交えているにも関わらず、正体が掴めないと感じることがある。だからだろう、苛々としつつも目が離せないのは。
「……あのさ。本当なら今すぐ店内から摘み出したいんだけどね」
何となく手持ち無沙汰なので、沢田の頭に手を置いてみる。髪のボリュームの視覚効果か、思ったよりも低い場所まで手が沈む。誰にも気取られぬ程ごく僅か、雲雀は眼元を緩めた。
「はぁ、でも二人が帰って来るまでは……って、こういうのも駄目ですか?」
「別に」
沢田は嫌がったり抵抗したりしないが、落ち着かなさげに頻りと目線を上へ遣っている。弾力のある独特の手触りがあって、沢田の髪を触るのは面白い。ふわふわとして、意外に柔らかい。反発に逆らわず手を上げたり、押さえ付けたりを数度繰り返して、仕舞いには髪の一束を鷲掴んで引っ張ってみた。
「あイタタタタ!痛い、痛いですヒバリさん!!」
「君の髪どうなってるの?面白いね」
「気にしてるんだから言わないで下さいー!!」
流石に嫌がり始めた沢田が左右に大きく首を振る。放すまいと咄嗟に力を込めた所為で、ぶちぶちと茶色の髪が何本か抜けてしまう。毛根の方は見た目ほど丈夫ではなかったらしい。
「いったーーーーー!!」
「ワオ、自分は剣道部主将の髪を全部本抜いといて僕には文句を言うのかい?」
「それはそうですけどぉ〜〜」
殴られた時より痛そうに、恨めしげに睨み上げてくる。目尻に涙を浮かべていては、勿論のこと迫力などない。手の中に残る色素の薄い毛髪を指先で弄びつつ、雲雀は鼻を鳴らした。
やはり何だか物足りない。このまま表に引き摺り出して、トンファーで遊んでみようか。沢田が反撃してくれば、叩きのめし甲斐も二倍で楽しさも倍増だろう。
「あ、そうだ。これどうぞ!」
無言で眼をぎらつかせる雲雀の不穏な気配を察知したのか、唐突に話題を変えて、沢田は慌てた手付きでごそごそと学生鞄を漁り始めた。これ、と言いつつ雲雀へと差し出したのは。
「…………何?」
間抜けな顔をした兎の人形である。大きさは沢田の掌と同じくらいで、一瞥するだけで安物と判る雑な作りをしている。
「きっきクレーンゲームで取ったんです」
「だから、何でそれを僕に。賄賂のつもり?」
「えっと……お礼です、ね。さっき不良が絡んで来そうだったの、助けてくれたでしょう?」
目線を雲雀から逸らしつつ、言い辛そうに沢田は理由を告げた。全くそのような素振りは見せていなかったが、ドブネズミに気付いていたのか。道理で殴られても泣き言一つ洩らさなかった筈である。
別に雲雀は沢田を助けるつもりで殴った訳ではない。自校の生徒が風紀違反をしていれば、腕に物を言わせて規律を教え込むのが雲雀の義務であり、権利でもある。
そんな本音とは裏腹に、雲雀は欲しくもない不細工な人形を沢田の手から奪い取った。
沢田は少し気圧されたように一歩後退した。延々とデモムービーを流し続ける背後のゲーム機に凭れ掛かって、雲雀の手の中の兎を視界に収め、表情と共に体全体の力を緩める。
沢田の手と同程度のサイズに見えた人形は、雲雀の掌の上では指の関節一つ分だけ小さい。沢田と雲雀の手がそれだけ違う大きさをしていることに、雲雀は初めて気付いた。握り込むように力を入れれば、長い耳を残して手の中にすっぽりと納まった。
ふと、これではない兎のぬいぐるみのことを数年ぶりに思い出す。もっと大きいものだ。両手を使って一抱えもしたが、雲雀自身小さかったので感覚は当てにならないかもしれない。幼い頃の雲雀はそれをわけもなく偏愛していた。
その長い耳を引きちぎってしまった時のことを、雲雀は思い出した。
幼児の常として、普段から手荒に扱っていた所為で縫い目が所々ほつれていたのだが、その日は何かで気分のむしゃくしゃしていた雲雀は片方の耳を掴んで兎を床に叩き付けた。何度もそれを繰り返し、再び持ち上げようと力を入れて引っ張れば、ぶつりという音と共に耳が引きちぎれていた。雲雀の手には耳だったものだけが残され、兎の本体は死んだようにくたりと床に伏していた。
その時感じた一瞬の昂揚と、次いで訪れた背筋の震えが、ありありと甦った。よくも覚えていたものだ。何か取り返しの付かないことをしてしまった錯覚で、耳をきつく握り締めたまま、片時も離れたことのなかった兎を置いて雲雀はその場から走り去ったのだ。
「………雲雀さん?」
「!」
我に返れば、沢田から受け取った兎の人形を、輪郭の変形するくらい強く握り締めている。虐待めいた扱いを見て無くしていた緊張感を再度取り戻し、びくびくと怯えながらも沢田は逃げず雲雀の目の前にいる。
その左頬が赤く腫れている。先程雲雀が殴ったからだ。
「気に入りませんよね。ごめんなさい、やっぱり要らないですか?」
「……うん」
頷いた途端、見るからに消沈した沢田を何故か直視出来ず、店内を監視するフリで視線を周囲に走らせる。と、出入り口の自動扉が開いて、入ってきたのは見覚えのある銀髪だ。
煙草の包装を剥がし新たに一本を取り出している。両替を兼ねて、店外へ煙草を買いに行っていたから戻るのが遅かったのか。ブレザーの内ポケットに煙草の箱を仕舞いつつ、沢田の姿を探して顔を動かしていた獄寺は、雲雀と二人きりでいる沢田を見た瞬間顔つきを険しいものに変えた。
「ほら、糞犬が来たよ。あれ連れてさっさと帰りな」
「えっ、な、なにっ!?うわっ……」
獄寺の帰還に気付いていない沢田の髪をむんずと掴み、店の出入り口まで引き摺っていく。目を白黒させながらも頭皮の痛さから逃れる為か、沢田も自分の足を動かして付いてきた。二人が脇を通り過ぎる度、ゲームに齧り付く草食動物達は一様にびくりと肩を竦め、しかし誰も背後を振り返らない。雲雀の恐怖支配がこの町全体に行き届いている証拠だ。
「ヒバリ…!テメェ十代目に何しやがる!!」
「あれ?獄寺君帰ってたの!?」
結局出口に到達する前に血相変えて駆け付けた獄寺と鉢合わせたので、雲雀は掴んでいた髪を放すと、その手で力一杯沢田の背を押した。足を縺れさせながら転がるように沢田は獄寺にぶつかり、流石に危なげなく肩を抱いて支えた獄寺は、何故か突然硬直したかと思いきや、熱いものに触れたように沢田から勢い良く手を放した。
「十秒以内に僕の前から消えないと咬み殺す」
「ええっ、でも山本がまだ……」
「死にたいなら僕は構わないけど?」
「あ゛ぁ?望むところだ、今度こそ地べた這いつくばらせてやらぁ」
「ヒィ!わかりました、すぐ帰ります!いこ、獄寺君!!」
殺気立ったのも束の間、沢田に抱き付かれるように動きを封じられた獄寺はへらへらと意見を翻し、雲雀の存在ごと忘れた風で「はい!」などと元気良く返事している。馬鹿馬鹿しい。喫煙は今回に限って見逃してやるが、苛々することには変わりがない。
そんな獄寺の背を店外に向かって押し出すようにしながら、沢田は首を捻って雲雀を顧みた。
「それでは、失礼します」
「じゃあね。これは没収品として預かっておくよ」
この間もずっと握っていた人形を掲げたが、すぐに踵を返した雲雀は沢田の反応を見ていない。店の奥へと足を進めれば、カウンター脇にある便所の方角から来た山本武と擦れ違う。
「サンキューな、俺達のいない間ずっとツナを守ってくれて」
「は?何のこと?」
かなり前に便所を出て、遠くから雲雀の様子を観察しているようだったが。沢田の元に近付きもせず、何を企んでいるかと思えば……下らない。
立ち止まりもしない雲雀の態度をどう解釈したか、快活な笑い声が店内の騒音に紛れて聞こえてきたが確認する気も起きない。沢田の兎はズボンのポケットに捻込み、学ランの袖口から愛用のトンファーを取り出す。未だ店内の隅で群れていたドブネズミどもを駆除するべく、雲雀は獲物の方へと足を向ける。
散々体を動かし爽快な気分で帰宅した後、雲雀は押し入れから懐かしいものを取り出してみた。
年月による作用か足と言わず、全身がくすんだ色になっている。ちぎれた耳があれからどうなったのか記憶になかったが、母親が縫い付けてくれたらしい。ちゃんと両耳は健在で、片方の付け根だけ、よく見れば糸の色が違っている。
そういえば、その後も兎は変わらず雲雀の傍にあり、耳のことなど思い出しもせず雲雀もそれで遊んでいたのだから、幼児とは現金なものだ。雲雀が薄汚れたぬいぐるみに興味を持たなくなったのは、小学校に上がる少し前くらいである。
今日手に入れたばかりの人形をその傍らに置いてみた。共通点は兎をモチーフとしていることだけで、似たところは皆無である。何故これで過去の些細な出来事を思い出したのか、自分でも解らず雲雀は首を傾げた。
沢田の兎はプラスチックで出来た黒い眼が付いている。白兎なのに何故か黒なことに引っ掛かりを覚えるが、ひとまずそれは脇に置く。古い方の兎といえば、木で出来たボタンが眼の位置に二つ縫い付けられている。そういえばこの眼も何度か取れて、その度によく似たものに付け替えられていた気もする。
柔らかい茶色の木目は、沢田の髪の色に似ている気がする。
ふと浮かんだその想念に、雲雀は我ながら呆気に取られた。所有物を観察して共通点を探しているのであって、沢田のことなど今は関係ない。確かに、小動物めいた沢田は兎に似た印象もあるが。
「馬鹿馬鹿しい。本当に兎みたいな生き物なら、僕が殴ったら――」
死んでしまうじゃない。
雲雀は口元を押さえた。何故だか酷く気分が悪い。すぐに押し入れの元の場所にぼろ人形を放り込んだ。
今日手に入れた方は、暫らく考えて、結局学習机の上に置いておくことにした。