鬱蒼と繁る木々の枝葉が始終サイドミラーやルーフに体当たりし、車内に響くぴしぴしという軽い音が絶えず神経を苛立たせる。優秀な筈のサスペンションは衝撃を吸収しきれず、舗装されていない森の道を走る自動車は上下に揺れ続けている。
汚れの目立ちやすい黒の外装は、今頃すっかり土埃で灰色に染まってしまっているだろう。あまりにもみっともないと、往路ではアスファルトの公道に出た後で一時停車し、濡れたタオルで汚れを拭ってから改めて出発したのだ。名門マフィアのトップを乗せた御用車を立派に見せる為ならどんな労力も惜しむまいとその時は考えていた。何故そんな下らない面子に拘っていたのか、今のγには理解出来ない。
土地勘のある者だけが踏み固めてきた細い道は獣道とでも称した方が現状に近しい。交通の便が悪すぎるからこそ奥にあるアジトの手入れを長年怠ってきたのだが、そのおかげで外部に知る者のいない屋敷にこっそりと逃れ、ファミリーは全滅を免れることが出来た。
三ヶ月前、主の身を霧の盟友に任せたγは囮となって敵の只中に突っ込んで散々に暴れ、追っ手を振り切った後は義弟と共に馬で森の中に逃げ込んだ。そんなアナログな交通手段の似合う小径であって、間違っても自動車の通るべき場所ではない。
感じている酷い苛立ちや怒り、居心地悪さの理由を、γは必死で揺れすぎる車の所為だと思い込もうとした。当然ながら、無意味な逃避である。
車酔いを何倍にも強めた酷い気分は、木立の間から古い石造りの建物が覗いたことで一層高まった。今にも森に飲み込まれそうな、壁面に蔦を這わせた陰鬱な屋敷。
前庭のようになっている空き地には辛気臭い顔を突き合わせた黒服の男達が、見送りの時から時間を凍り付かせてしまったかのように動きを止め、身の置き所もないと言わんばかりに肩を縮めて立ち竦んでいる。車のエンジン音を聞き付けた彼らは弾かれたように顔を上げ、時を止める呪いから復活した。
何対もの視線が一斉に注がれたことで、γは下車早々に目眩を起こしかけた。
「……兄貴!」
「γ、交渉はどうなったんだ!?」
「ユニ様は……!!」
後部座席から降りてきたのは彼らの幼い主……ではなく、その護衛として同行していた組織の幹部である。彫りの深い端正な顔を憔悴で歪ませた長身の青年と、そんなγへと気遣いを込めた視線を投げかける巨躯の男。
出ていった時は車は二台で、ボスと守護者四人とが乗っていた。しかし、帰ってきたのは一台きりで、主の姿はない。ファミリーが最悪の想像をしてパニックに陥るのも当然の反応と言える。
「…………姫は、」
その沈痛な響きに、幾人かは悪い確信を深めたに違いない。しかしγが続けた報告に、大半の者は愁眉を開く結果となった。
「姫は停戦交渉を見事に成立させた。ジェッソファミリーは以後我々に対する武力行使を一切行わない」
葬儀の空気が一変し、前庭は歓声に包まれた。流石ユニ様、俺達のボスだと褒め称える声が次々に上がる。
「調印式までに、俺達もフィレンツェのアジトへ移ることになった。俺達が一足早く戻ったのはその報告と、……姫の荷物を纏めて持っていく為にな。ジェッソのアジトから直接あちらに移動するらしい」
今もって暗い顔をしているのは、皆に朗報をもたらした筈のγだけである。その不自然さにγの義弟である太猿が眉を顰めたが、彼が疑問の声を上げる前にγと共に戻った鬼熊ニゲラが太猿に話しかけた。わざとなのだろう。
無骨な外見に似合わぬ友の察しの良さと気遣いとに感謝しながら、肩を叩き合って喜んでいる仲間達の間を縫い、γは逃げるような早足で屋敷の中へと飛び込んだ。
皆が外で待機していただけのことはあり、屋内は静かなものだった。行き来する人間がいないと、少々の掃除では如何ともし難い古びた屋敷は廃屋めいた印象がますます強くなる。奥の一室ではボンゴレの剣士に手傷を負わされた幻騎士が療養している筈だが、静かな広間からはその気配も感じられない。
この場所から一番目に付くのは部屋の右端にある階段だ。玄関を潜ってすぐの部屋は吹き抜けの広間となっていて、奥の部屋へ続くいくつかのドアと二階廊下とを結ぶ大階段によって他の部屋と繋がっていた。これから向かう主の私室は、階段を上った先、二階廊下の突き当たりにある。
一歩を踏み出す前に、γは暗く陰った階上を見上げた。記憶の中では、黒髪の少女が手摺りに手を掛け、あと二三段を上れば階上に着くという中途半端な所で足を止めている。
見上げた主の顔は年齢に相応しからぬ力強さを湛え、穏やかに凪いだ海のような微笑みを浮かべている。そんな、ファミリーの行く末を探し虚空を彷徨っていた鮮やかな蒼色の眼差しは、己を仰ぎ見るγへと向けられた途端に一変し、異能のボスは僅かに頬を染めて普通の子供と変わらぬ無邪気な笑顔を零し……。その先を甦らせまいと、γは激しく首を振って脳裏に残る残像を追い払った。
あれから三日も経っていないというのに、彼女が階段の中途に佇み見せかけの希望を告げたあの日から、百年以上の月日が流れたように感じてしまう。
それほどまでに、今は何もかもが遠くへ過ぎ去った。
眉間に力を込めたγは感傷の沼から何とか這い上がると、重い足を階段へとかけた。無論、現実の彼女はこの先にいない。γは、もうこのアジトには二度と戻らない彼女の代わりに、ここに残した私物を片付けなければならない。
***
ボスの私室といっても、他の部下達が寝起きしている部屋と広さも質素さでも大きな違いはない。流石に一人部屋ではあるが、彼女はファミリー唯一の少女でもあったから、仮にボスの身分などなくとも必然的に個室が与えられただろう。
扉の前までは頻々に足を運んだが、実のところ、γがその部屋に足を踏み入れるのは初めてのことだった。女性の部屋、しかも年端もいかない少女の暮らす部屋という未知の領域に、気後れにも似た苦手意識を抱いていたからである。彼女をここへ迎え入れたのは幻騎士で、その時γはジェッソの追っ手と戦っている最中であったから、引っ越し風景すら見ていない。
……初めてであったからこそ、中に入ったγは目を見張った。
中央に年代物の寝台が置いてあるだけの、ひどくがらんとした印象の部屋である。よく見れば壁際に寝台と揃いのクローゼットが置かれているが他に調度や飾りの一つとてなく、広い面積が余計に殺風景さを際立たせている。
閉じられた厚いカーテンの隙間から一条の光が差し込み、空気中に充満する埃に反射してきらきらと光の粒子が舞っている。それだけが煤けた昏い部屋に存在する、唯一の美しいものと言えなくもなかった。本当にこんな場所で、姫は生活していたのだろうか。
γの知る主……ユニは、いつも白やピンク色を基調とした服を着て、ふわふわとしたレースに縁取られたスカートの裾を翻して走り寄ってくる、そんな少女だった。
快活で愛らしい、よく笑う娘だった。ユニに似合うのは花や人形や猫足の白い家具や太陽の光で、こんな寂しげなものでは断じてない。
考えれば簡単に想像出来た筈だった。先代の死は本当に急なことだった。それまで民間人として暮らしていた少女を迎え入れる準備など整っていた訳がない。まして、このアジトもファミリーにとっては急拵えの避難場所だ。彼女にとっては不便だらけの生活だっただろう。γはそれに気付くことが出来なかった。
それだけではない、何故みすみす交渉に赴かせてしまったのか。例え他の方法が何もなかったのだとしてもγだけは、命に賭けて彼女を守ると誓いを立てたγだけは賛成してはならなかった。信じてはいけなかった。
察していれば。強く止めていれば。
失われると知っていたなら。こんなことになる前に、何かしてやれることがあったのではないか。……今更だ。
不変に見えた輝きは簡単に壊れて、二度と戻らない。それを思い知ったのはほんの三ヶ月前だったにも関わらず、γはそれを教訓にしていなかった。手遅れになってから後悔するのだ、いつも。
妙な既視感を覚えながら、ぎくしゃくとした足取りでγは寝台の脇へと歩み寄る。
三ヶ月前、同じように豪華な寝台へと駆け寄った時、先代は美しい寝顔をγに向け、二度と覚めぬ眠りに就いていた。
今、膝を付き覗き込んだ寝台は綺麗にベッドメイキングがされているだけで、中には誰もいない。誰かがいた痕跡すら感じられない。しかし、γの喪失感は三ヶ月前に勝るとも劣らない。
顔を上げる。三ヶ月前、先代を喪いこの世の終わりを体験した時には、跪きシーツの端を握り締めるγの隣に彼女が現れ、小さく柔らかい手で絶望の淵から引き上げてくれた。彼女自身、本心では悲しみに暮れていたにも関わらず。
今、γの傍に彼女はいない。慰めてくれる癒しの手が再び伸ばされることはない。
今は、誰もいない。
γは、また守ることが出来なかった。
はっきりと意識すれば更に辛くなった。荷造りをするという名目で一度も入ったことのない部屋を訪ったγは、ユニの痕跡を探したかっただけなのだ。
会談が終わり唐突に変貌した、あの瞳の中に姫はいなかった。ならどこへ行ったのだ。少なくとも、この寂しい部屋にも姫はいない。認めたくないだけなのだ、あの眩しい光が既に失われてしまったのだとは。
……最後まで笑顔を見せていた。輝くばかりの光を前に目が眩むようだった。しかしそれはγの思い違いで、恐れを感じていなかった筈がないのだ、あんな幼い娘が。
首に回された腕の柔らかさを今も現実感を伴って思い出せるというのに、それは既に失われたものなのだ。
もう遅い。
誰もいない部屋で、γは一人寝台に寄りかかり蹲っている。物の少ない部屋の空気は寒々しく、硝子窓とカーテンに隔てられた外の快晴が、どこか遠い世界のように実感を伴えない。ゆっくりと夏の終わりが近付いていた。
「姫……ッ」
何も諦めてはいないのに、ひとりでに涙が溢れてくることにγは自分でも驚いた。視界が不安定に揺らぐ。ユニが戻ってこないと無意識では認めてしまっている自分に、何よりも絶望する。
涙を隠す相手も存在しないというのに、掲げた腕で顔を隠し、γは声を殺して嗚咽した。
この期に及んで、γの魂はあの少女に縛られたままだった。お願いだから、俺の魂を殺さないでくれ。
俺にもう一度チャンスをくれ。そうしたら今度こそ絶対に間違えない。
泣きながら堅く誓う、しかしその相手はここにいない。
初書きγユニですが(結構好き!)、寧ろユニγとでも言った方が実情に近いかもしれない。