――黒が夜を覆っていた。
天上で輝く月の光は木々の葉に遮られ、地表までは届かない。人の眼では顔前に翳した己の掌すら視認出来ぬような、べったりとした闇が山には存在するのだった。
現代日本でありながら原初の匂いの未だ濃厚な、常人なら日中ですら足を踏み入れぬような山奥を、その時に限って騒がせる影がある。
舗装など勿論されていない、長年にわたり足で踏み固められただけの細い獣道を、その影はかなりの速度で駈け下りている。パキパキとリズミカルに枯れ枝を踏み折る音がし、驚きに一時声を潜めた秋の虫は、それ、の通り過ぎた後、何事もなかったかのように再び羽を震わせ始めた。夜行性の獣によく似た気配だが、少し違う。
人の眼があるなら、漆黒の影と見えただろう。夜行性の小動物達は、その正体が何か判らぬままに息を殺した。並盛山には、大型の肉食生物は生息していない筈である――、と影の主である雲雀恭弥当人が考えた。
漆黒の髪に、肩に羽織った黒の学ラン。保護色のように夜に溶け込んでいるのも頷ける風体の少年である。四方八方に振り撒かれる殺気が闇と完全に同化することを拒み、山の生き物を怯えさせていたのだが、雲雀にその自覚はない。彼は、珍しくも混乱の最中にあった。
(あれは何だ?)
今し方目にしたばかりの物を脳裏に反芻しつつ、雲雀は自問自答した。その間も、見えぬ筈の山道を行く足どりは不思議と全く鈍らない。
正確には、明瞭りと目にした訳ではない。
(――山のようだった)
動く山?馬鹿馬鹿しい。しかし生き物だとすれば何だというのだろう。
最初に感じたのはズゥン…という地響きだった。足を止めた雲雀は山全体が震動していると思ったが、地震でなかった以上それは錯覚なのだろう。
ギャアギャアと不意の眠りから起こされた鳥達が不快気な声を上げた。羽音は、メキメキという木々の薙ぎ倒される音に紛れて聞こえなかった。
何物かの気配を察知していた雲雀は既にその場から飛び退いていたが、今し方まで立っていた場所へ樹木が倒れ掛かり…いや、踏み潰された。
(!?)
眼前に振り落とされた巨木の幹のような、それが震動の原因だった。樹皮には有り得ない質感を認めた雲雀が半ば無意識に顔を上げると。
…………、倒れた木々の所為で視界は遮られなかった。
中天近くに輝く月すら隠すような巨体の、生き物が存在した。逆光でディテールは判らないが、二本の後ろ足――雲雀が巨木と思ったのはそれである――で危なげなく立ち、背に甲羅のような形状のものを負っている。ほぼ真上に見上げる雲雀は、上体や顔の部分が如何なっているか視認出来なかったが。
(亀?まさか)
ぐおおおおん、とその巨大生物は大音声で雄叫びを上げた。ゆっくりともう一方の足を踏み出すと、バキバキ、と引っ掛けられた木々が新たに倒されていく。
天上天下何一つとして恐れ憚るものなど存在しない雲雀にして茫然と、その大亀がのそのそと歩み、視界から消えるまでその場に立ち尽くしていた。暫くして、遠くなった雄叫びが再び耳に届いたところで我に返り、そして立ち止まる前より猛然と、山道を駈け下り始めたのである。
この自分が、並盛の全てを司る雲雀恭弥が、完全に呑まれていた。何と腹立たしい。
(結局あれは何だったんだろう)
何度目かの自問自答を、回想がてら繰り返す。地響きは既に止んでいる。あの生き物が余程遠くに去ったのか、途中で歩みを止めたかの何れかであろう。
あの場で追いかけることも可能だったが、それは断念せざるを得なかった。委員の一人から携帯電話で報告を受け、雲雀は愛する並盛中学に急行している最中であったからだ。学校関係者以外の侵入と不法集会。突然やってきて喧嘩を売る妙な外人を叩きのめす途中ではあったが、風紀委員長として校内の風紀紊乱を見過ごす訳にはいかない。
あれの正体を探るのは、この件が一段落着いてからになるだろう。
木々の間からチラ、と瞬く光を確認し、雲雀は急遽獣道を外れた。人家が近いなら、わざわざ遠回りする必要もない。並盛町全てを己の所有物と考える雲雀に家宅侵入の概念はなく、近道になるなら民家の庭先だろうと屋根の上だろうと公道と同じである。邪魔な低木は取り出したトンファーで薙ぎ倒し、ただ明かりを目指して直進する雲雀の破壊活動は、先程の巨大生物の動きをそのまま小規模にしたが如くであった。
(あんな亀がいる筈ない)
何時か何処かで似たようなものを見た覚えがある……のは気の所為だろう。あのような生物が自然界に普通に生息する筈がない。しかし今し方雲雀が見た巨大生物は決して見間違いなどではない。だとすると、あれは超自然的な存在だということになる。
(山の主?……あれが?)
ふと思い立った雲雀は、両手にトンファーを握ったまま、器用に尻ポケットから携帯電話を取り出した。自分と同じように連絡を受けた副委員長の草壁が、今頃は校内に駆け付けているだろう。
「ねぇ草壁」
履歴ボタンを押して副委員長を電話口に呼び出せば、コール音が二度鳴る前に応答があった。
『はッ、何でしょうか委員長』
「今から図書室に行って日本の神とか妖怪の本借りてきて」
『は…ぁ、神ですか?』
「そう。特に山の神とか載ってるようなの」
注文だけを告げ、返答も聞かずに雲雀は通話を切った。理由を言わずとも、草壁ならば黙って希望に適う本を用意するだろう。
侵入者とやらを咬み殺した後に、先程見た巨大亀の正体を探る。雲雀は決意した。勿論、自分以外に存在する並盛の主など、この手で葬り去るという決意である。
結論を言うと、雲雀はこの夜は該当の本を読むことが出来なかった。
雲雀は妙な外人の言うことなど耳にも留めていなかったが、並盛中ではボンゴレリングを賭けた嵐戦の真っ最中。勝負の決した直後に現れた雲雀は問答無用でその場に集う群れに制裁を加えようとし、近頃何かと関わりのある草食動物や一目置く赤ん坊から己もまた戦いの渦中にある存在であることを告げられるが、それはこの山の主事件には直接関りない(広い意味なら関係あるが)。
肝心なのは、嵐戦の最中に校舎三階の図書室が滅茶苦茶にされ、立ち入り禁止になっていた戦中はおろか、翌日になっても草壁が本を探して来れなかったことである。
平伏する草壁を滅多打ちにしようとして外人に制止された雲雀はますます苛立ちを募らせたが、並盛中の平和と保護下にある生徒の安全を守ることの方が風紀委員長としての急務である。リング戦の事情を外人から聞き出した雲雀は、未確認生物に固執する暇など持てなかった。
チェルベッロ機関の者達によって図書室の改装が完了した後、草壁はやっと『海の神、山の神大全』という本を見付け出してきた。それを読んだ雲雀は、並盛山の主の存在も吹き飛ぶ程に、その本にハマってしまう。
十年後には世界の謎と不思議について調べる財団まで設立してしまう雲雀が初めてオカルトに出会ったのは、まさにこの時であった。問題児達が揃って欠席中の静かな並中の昼下がり、応接室でわくわくと胸躍らせてページを捲る雲雀少年の指には、雲の刻印の描かれた指輪が嵌められている。
この本の内容をあの草食動物にも教えてやろうと一人画策する雲雀は、既に同じ本を獄寺隼人が読破して十代目へと報告していたこと、沢田綱吉当人は『山の神』の正体を知っている為に部下の努力を生返事でスルーしたこと、そもそも沢田達が未来の世界で新たな戦いに巻き込まれていること……を何一つ知らない。
Vongola77、194ページより。結構鮮度が命!なネタなので慌てて書きました(^_^;)