綱吉の朝は、香ばしいパンとミルクのたっぷり入った甘いココアの匂いから始まる。
さぁっと瞼の裏が明るくなったのは、厚いカーテンが開かれたからだろう。人の気配を感じてなお眠り続けていられるほど、マフィアは気楽な商売ではない。
「……だいめ、十代目」
とはいえ、寝汚さには定評のある綱吉である。うっすらと目を開いた今も、意識の方はふわふわと半ば夢の世界を漂っている。
「おはようございます十代目。良い朝ですよ」
「………おはよ……」
焦点の定まらぬぼんやりとした瞳を見つめ、獄寺は朝陽よりも眩しい満面の笑みを浮かべた。壊れ物を扱うような慎重さで綱吉の肩に添えられた手は、揺り起こす気があるのかないのか。主がちゃんと目覚めているのだから、深く考える必要はないのかもしれないが。
ふにゃふにゃとした綱吉の挨拶を聞いて、獄寺はサイドボードに乗せた銀の盥に手を伸ばした。相変わらずのそうっとした手付きで、柔らかな羽枕とシーツの狭間に沈んだ綱吉の項に掌を差し入れ、腕の力で抱き上げるようにしてゆっくりと上体を起こす。まだ半分閉じられたままの綱吉の瞼に、濡れたタオルが当てられた。綱吉を抱くのではない方の手で顔を拭われる。二三日に一度は剃刀の出番があるのだが、悲しいかな体毛の薄い綱吉には毎日の髭剃りは必須ではない。
冷たい水のおかげで幾分か意識をしゃっきりさせた綱吉は、今度こそ目をしっかり見開いて獄寺を見つめた。腕に抱き込まれるような体勢なので、気恥ずかしいくらい近くに整った獄寺の顔がある。
綱吉と目を合わせる度に、硬質な鋭さばかりが漂うマフィアの男がどういう魔法を使ったものか、無垢な子供のような顔をして笑み崩れてみせる。年と共に凄味を増したと言われる獄寺だが、こんな表情ばかりは出会ったばかりの頃と変わらない。
獄寺に笑い返した綱吉はごそごそと布団から抜け出すと、差し出されるままスリッパに足を通す。朝食の時だけに使われる小さいテーブルには既にパンと付け合わせの果物、甘ったるいココアの用意が出来ている。
獄寺と同じテーブルで軽めの朝食を摂り、寝室の隣にある洗面所で口を濯いだ後は、見立てて貰ったシャツとスーツに袖を通す。
イタリア男らしくお洒落には煩い獄寺の眼鏡に適うネクタイを結んで貰えば、朝の支度は終わりである。
「ありがとう、獄寺君」
「いえ十代目、一つお忘れ物が」
ネクタイを結ぶ時の向かい合った立ち位置のまま、獄寺は頭を屈めて綱吉の唇に自分のそれを軽く重ねる。
「これで完璧です」
顔を離し、獄寺は昔にはしなかったような、少しだけ気取った笑みを浮かべてみせた。
綱吉の毎日は、こうやって始まるのが常である。
「ねぇ、チチズベーオって何?」
深い意図もなく口にした質問に、リボーンは唇を歪める皮肉気な笑みを見せ、獄寺は苦虫を噛み潰したような顔で眉を顰めた。超直感にわざわざ頼らずとも、これだけで自分が何やら不味い話題を上らせてしまったことは察せられる。
今更撤回するのも気まずいばかりなので、綱吉は空気を読まないふりで静かにコーヒーを啜った。この歳になってもあまり好きになれない飲み物だが、イタリアの紅茶はとてつもなく不味いのだから仕方ない。
綱吉が口を開かなかったのは、対面の元家庭教師がいきいきと瞳を輝かせているからでもある。このサド男の気質を思えば碌な話ではないだろうが、取り敢えずは教えてくれる気があるらしい。
「外国人旅行者を唖然とさせた、18〜19世紀のイタリアの奇習ってやつだな」
自分の来訪を休憩のダシにされても寛容に許してくれるようになった黒衣の家庭教師サマは、優雅な仕草で長い脚を組み換えた。カップを持つ指の先に至るまで、一々嫌味なまでに洗練された男である。とっくの昔に模倣など諦めている綱吉は、カップを両手で持つ子供っぽいポーズのまま、上げた目線だけで先を促した。
「身分の高い貴婦人が夫以外に持つ、男友達兼使用人みてーなもんだ。身の回りの世話をされ、一日中一緒に行動する。日本語に訳す時は騎士って呼び方が一般的だが、大っぴらな愛人とも解釈されているな」
カップを皿に返しつつ、リボーンはニヤリと笑ってみせた。
「なかなか洒落た言い回しじゃねーか。誰に言われた?」
視線は綱吉に合わせたままだが、その隣でむっつりと黙る獄寺へと顎を向けてみせる。大体の事情は察したのだろう。ますます眉間の皺を増やす獄寺には悪いことをしたが、綱吉のダメージだって大きい。やっぱ訊かなきゃ良かった…という心の声を読んで、リボーンがくくくと喉を震わせた。
そもそも、顔で守護者を選んだのではないかとの陰口が絶えないほど、何故だか綱吉の周囲には容姿の整った人間が多い。ちょっと考えれば、美女ならともかく自分より顔の良い男をわざわざ隣に据えて取り柄のない日本人顔を強調させる訳がないと、簡単に理解出来る筈なのだが一向に噂は消えない。どれだけ自虐的な人間だと思われているのだろうか。
愚痴を零す綱吉にリボーンは、才能ある奴も顔の良い奴も世の中にゴロゴロしてやがるんだ、天から二物も三物も与えられてこそ、ボンゴレの幹部に相応しいってもんだぞ、などと先日も宣っていたものだ。特に魅力的な女性であるクロームは綱吉の愛人だと勘違いされることが多く、あれで親馬鹿な骸が怒鳴り込んでくる前にと彼女を身の回りから遠ざければ今度は男妾の噂ときた。
「つーか、俺のどこが貴婦人なわけ……」
地位だけはべらぼうに高いが、こちとら女でもなければ気品すら持っていない。
「そうですよ!十代目の高貴さが、その辺の女どもに敵う訳がありません!!」
「いやいやいや」
やっと口を開いたと思えば相変わらずのそんな熱弁で、綱吉は頭を抱えたくなる。
「十代目への侮辱、このまま許しておく訳にはいきません!果たしてきます!」
怖い顔して考え込んでいると思っていたら、獄寺はそんな物騒な決意を固めていたらしい。
「でもさぁ……」
「間違ってねーだろ」
綱吉が言い淀んだ続きを引き取って、リボーンが真顔で断言した。
確かに、世に部下と呼ばれる立場にある者の大半が、毎朝上司と口付けを交わすような習慣を持っている筈もない。枕元に侍るだけが能の男と見做されるのは到底許容出来ないが、獄寺が嬉々として綱吉の世話を焼いているのも事実である。げんなりしたのも確かだが、上手い表現だと綱吉自身感心しなくもない。
「色々言われんのが嫌なら、まずはテメーの甘やかし癖を何とかするんだな」
「ですがリボーンさん……」
十代目の名誉が…などと、獄寺は不明瞭な発音でもごもご呟いている。
「いいじゃん別に。俺は獄寺君を騎士とも愛人とも思ってないんだから気にするだけ無駄だよ」
今もって話を読み違えている仕方ない男の注意を引くべく、綱吉はソファの隣に座る獄寺の二の腕を取り、軽く揺さ振ってみた。
「十代目?」
弾かれたように綱吉へと顔を向け直し、ちょっと腕に触れられているだけにも関わらず頬を染めてもじもじし始める。相変わらずの豹変ぶりが面白くて、思わずくすりと笑みが零れた。
目に見える部分でなくその本質において、獄寺はそのような言い換えの出来る存在ではないのだ。勿論他の守護者皆に言えることだが、何も道楽で指輪を預けている訳ではない。
「だって君は俺の右腕だろ?」
本当は右腕という名にすら拘る気はないのだが、そう言ってやれば獄寺が喜ぶのは解っている。
件の比喩に名誉を傷付けられた人間がいるとするならそれは綱吉でなく、主の身の回りの世話をするだけのヒモ男という烙印を押された獄寺の方である。その獄寺本人は自分の名誉維持について二の次で、綱吉にとっての獄寺の評価とて他人の言葉に左右されるものではないのだから、問題など一つも起こっていない。
「十代目がそう仰るなら……」
渋々であっても、綱吉の説得に獄寺が折れなかったことなど一度もない。卑怯だという自覚も自省もあるが、自分のために信念を枉げる姿に嬉しさを感じないと言っては嘘になる。
「……ハッ、甘ったるくてやってらんねーな」
「嘘付け。そのコーヒー砂糖もミルクも入ってないだろ」
「ですよねー」
目の前で腕を組んでいちゃつき始めた綱吉達から視線を外し、リボーンは教育を誤ったかと半ば本気で呟いた。
そんなリボーンが懲りもせず、珍しく二日続けて綱吉の執務室を訪れた。
「お前、仕事早いにも程があるだろ」
これまた珍しく獄寺を傍に置かず一人きりでいた綱吉は、家庭教師の来訪に苦笑しつつも肩を竦める。執務室を出ようとたまたまドア近くまで来ていた綱吉は来た道を引き返して来客用のソファに腰を落ち着け、リボーンも昨日と同じように対面に向き合って座る。
「俺ほどの腕前になりゃ、時間をかけるのなんざ怠惰以外の何でもねえだろ」
堂々と嘯く凄腕ヒットマンの言い分を溜息一つで受け流し、綱吉は最早デフォルトの表情と化した苦笑いをその童顔に浮かべた。どうせこいつのことだ、何の前触れもなく発生した同盟ファミリーのボス暗殺に本部がてんやわんやなことくらいお見通しの上でこの態度なのだろう。
「気にする必要はないんじゃなかったの?」
「獄寺の名誉はどうでもいいが、面と向かって盟主の私生活を揶揄してくるようなナメた真似は放置出来ねぇな」
ああそういうこと。納得して、綱吉は一時間後の会議で話す内容を捏ねくり始めた。この分だと幹部クラスには事実を告げても構わないだろう。
「知ってるか?」
「何を?」
上の空で相槌を打つドン・ボンゴレを、黒衣のヒットマンはいつもと変わらぬ不敵な笑みで眺め遣った。瞳の奥の不自然な鋭さは、綱吉の関知するところではない。
「18世紀の戯曲だがな、とある未亡人の台詞にこういうのがある。旦那一人ならまだしも、チチズベーオなんぞ作ってそれにまで貞淑の美徳を尽くすような窮屈な真似はごめんだってな」
「……俺には関係ないよ。夫なんていないんだから」
誰にどう接するかは俺の勝手だろ?と、家庭教師の雑談を半ば聞き流していた綱吉は、唐突なダンッという大きな音に思わず肩を縮こめた。行儀悪く長い脚を投げ出したリボーンが、革靴の踵を目の前のローテーブルへと乗せた音だ。うんざりと、綱吉は自分の膝に届く寸前の靴底を睨み付けた。
「おい……」
「一仕事終えて帰ってきた家庭教師サマに労い一つなしかよ、このダメツナが」
ドンへの無礼といえばこいつほどの無礼者はなかなかお目にかかれないが、まあ、このヒットマンだけは例外だろう。
「コーヒー一杯で勘弁してやる。俺は甘ったるいココアは嫌いだからな」
偉そうな物言いにへいへいと生返事し、綱吉は仕方なく腰を上げて電話の置いてある執務机に向かった。ゆっくりしていくつもりがあるなら丁度いい、一時間後の会議にもそのまま出席してもらおう。