簡単な打ち合わせを終えて俺が部屋に帰ってきた時、獄寺君は既に寝ているように見えた。一方の靴底が天井を向いたままのスニーカーが床に脱ぎ捨てられていて、最後に彼を見た夕食の時と同じポロシャツ姿の獄寺君が、アクセサリーも外さないままでベッドに横たわっていた。
天井の灯りは消されていて、スチール製の机に置かれたスタンドライトだけが、蛍光灯の蒼みがかった光を床に落としていた。
俺は彼を起こさないよう、出来るだけ足音を立てずに歩いたけれど、すぐにその必要がないことに気付いた。浅い呼吸を繰り返す彼は未だ眠りに落ちてはおらず、陶皿と机のぶつかる小さな衝撃音につい身動ぎした肩が、ますます俺の確信を深めた。そういえば彼は耳が良いと以前話していて、それって遺伝なんだろうかと今夜聞いたばかりの話を思い出す。
「獄寺君、まだ起きてるならおにぎり食べなよ」
万一、本当に彼が寝ていた時のことを考えて囁くくらいの声で話し掛けた。獄寺君は躊躇ったみたいに数秒硬直していて、やがてごろりと寝返りを打って俺の方を向いた。部屋は暗くて、顔色が悪いように見えたけれど正確な判断は無理だった。
「獄寺君も食事の途中で寝ちゃって、最後まで食べてないでしょ?京子ちゃんとハルがお夜食にって、余ったご飯でおにぎり握ってくれたんだ」
「……スイマセン、腹減ってないです」
どこか突き放すような調子で断りの言葉が返ってくる。夕食の時と同じ、ううん、ここ数日来の近寄り難い獄寺君の声だ。獄寺君が俺に向かって直截な不機嫌さを見せるのは、転校初日のあの日以来だった、というのは言い過ぎだけど。
獄寺君が言葉寡なになると、俺は途端にどうすれば良いのか解らなくなってしまう。常なら会話の主導権は怒濤の勢いで俺を誉めまくったり他人の悪口を言ったり自分の夢を語ったりする獄寺君にあって、元々性格も全然違うような俺達の関係は、彼の献身的な努力によって成り立っていたのだと言わざるを得ない。
俺は彼の力になりたかったし、出来る限りの力で彼を慰めたかったけど、肝腎の方法についてはさっぱり思い付かなかった。彼の過去を第三者の口から聞いたと知れば、獄寺君は今以上に傷付くような気がした。
「で……でも、一口くらいさ。夜中にお腹が空いて眠れなくなるかもしれないし」
「十代目が食べたら如何ですか。その方が女どもも喜ぶでしょうし」
刺々しく返されたことで、何が彼の癇に障ったのか、朧気ながら見えてくる。獄寺君の過剰な独占欲は彼と付き合う上で始終悩まされてきたけど、その出生に纏わる物語は更に俺の心を暗くした。
獄寺君の誠実な恋人である為には、彼だけを一生涯愛さなくてはならない。
今の俺の覚悟では不充分だ。遠い未来、獄寺君と別れて普通の結婚をする日が来る可能性を想像したり、今だって京子ちゃんの笑顔や涙に一々動揺しているような俺では、彼を落胆させ、我慢を強いることしか出来ない。それは彼にとってすごく不幸なことじゃないだろうか。
「俺は……」
お腹空いてないと言えば良いだろうか。もう食べてきたとか?何て言えば獄寺君の気分を損ねずに納得して貰えるだろう。
「獄寺君の為に持ってきたんだよ。ねぇ」
実のところ、おにぎりを食べて貰うことは口実で、俺はただ獄寺君と話がしたいだけだった。同じ部屋に寝泊まりしていて、俺の立ち入れない過去に一人苦しんでいる獄寺君を黙って見ているのが嫌なだけの、単なる我儘だ。
「……ごめん、おやすみ」
少々の自己嫌悪を感じつつ、机上のライトを消した。夜目のあんまり利かない、ついこの間まで暗い部屋で眠ることすら怖くてならなかった俺は、へっぴり腰の手探りでベッドに辿り着く。そのまま自分の寝床に潜り込もうと上段への梯子に手を掛けようとして、
「十代目……」
「え?うわっ」
獄寺君の寝ていた下段の寝台にいきなり引き摺り込まれた。び、吃驚したぁ……。
「獄寺君?」
背中に柔らかなマットレスの感触、次いでのしかかってくる骨張った体を知覚する。重い。背中とお腹、どちらも温かい。
ベッドの上、ていうか自分の体の下に俺を引き込んで、獄寺君は至近の距離から俺を覗き込んでくる。あ、俺まだ靴履いたままじゃん。
「そんなモンよりも、俺、今は十代目を食いたいんですけど」
「それは構わないけど、するんならおにぎり食べてからにしない?」
お誘いは嫌じゃないけど、連日の修業で正直そんな体力残ってない。獄寺君だって同じだろう。彼、ビアンキの話だと上手くいってないみたいだし。
「朝起きた後で、朝メシ代わりに食いますよ。それならいいでしょう?」
譲歩を告げてくるのは甘えるような猫撫で声なのに、暗闇に慣れ始めた俺の視線を縫い留める瞳がやけに真剣で切羽詰まった感じで。軽いノリに見せかけようとしているのなら、その意図は完全に失敗している。下半身を擦り付けてくるような動きは随分あからさまで、乗り気じゃなかった俺の息まで上がってくる。
雰囲気に流されるまま頷きそうになったけど、そういえば明日の朝は山本の提案で手巻き寿司を作るのだ。獄寺君が参加してくれないと意味がないのに、おにぎりで朝一番にお腹を大きくされては困る。
「駄目!朝になったらご飯が固くなっちゃうから……だったらいいよ、もう食べなくて」
山本の顔を脳裏に思い描きながら必死で抗弁すれば、熱に浮かされたようだった獄寺君の眼が、すっと冷たく細められた。
「……今、誰のことを考えてたんですか」
「え?」
「俺がここにいるのに、十代目は誰のことを考えてるんですか!?」
「誰って……」
勿論獄寺君のことだ。決まっている。けど俺は沢山の隠し事をしていて、彼に対して誠実かと問われれば、頷くのに躊躇いを感じてしまうのも確かだ。
獄寺君の慰めになるなら何でもする気でいたけど、ひょっとしたら、安易に体を差し出すなんて方法は良くなかったんじゃないだろうか。
今更ながらこの状況に躊躇いを感じて、取り敢えず距離を取ろうと僅かに背中をベッドヘッドの方にずらした。
「嫌です!」
いきなり耳元で大声を出されて、俺まで変な叫びを上げそうになった。吃驚させないでよ。文句を言おうと開いた俺の口は、文字通り獄寺君に塞がれた。
え、あれ?……えーと、今なに話してたっけ?
「…ん、ぅ……」
思い出そうにも頭は段々靄がかかったように真っ白になっていくし、離して欲しくて獄寺君の胸を押し返そうとすれば、逆に手首を掴まれてシーツの上に拘束される。なんだかのっぴきならない状況になってきた。あれ、でも合意なんだから問題ないのかな。駄目なんじゃないかって今考えてたような気もするけど……。
「十代目……」
「あ、あ、ごくでらく、」
合わせた唇が解かれた後も、獄寺君の唇や舌は匂いを嗅ぎ回る犬みたいな熱心さで項や首元ら辺を辿っている。シャツの裾を捲って俺の貧相な体を探り始めた彼の両手は、焼き鏝か何かみたいに熱く感じる。脇腹の薄い皮膚を指先で撫でられ、くすぐったさと紙一重の何かに俺の背筋は総毛立った。
鎖骨にぴりっとした痛みが走る。山本とかに痕を見られたらどうするんだよ、馬鹿。気持ち良いけど、何か忘れてる気がする。
キスされてこの方、ぎゅっと閉じたままだった眼をうっすらと開いた。……そうしたら、頭をがつんと殴られたみたいに突然思考がクリアになった。
駄目だ。絶対駄目だ。このまま流されるのは俺にとって楽だけど、獄寺君は全然嬉しそうじゃない。彼は俺を触りながら、とんでもなく辛そうな瞳をしてる。
「待って待って、たんま!」
ぐきっ。
自由になっていた両手で獄寺君の顎を押し上げれば、「ぃ痛っ!」変な音がしたけど、うん、大したことはないだろう。獄寺君てお腹以外は丈夫だし。
「言い忘れてた!」
首を押さえて痛がってる獄寺君が現状を把握する前にと、俺は焦って腕を伸ばした。
「俺は絶対死なないし君を置いていったりしないから!だから一緒に元の世界に帰ろう!?」
首根っ子に両腕を回して、彼の頭を力一杯手繰り寄せる。獄寺君はぐえっと苦しそうな呻き声を上げたが、そんなのは関係なかった。
何故俺の棒みたいな腕は十年後の人達みたいな逞しさを持ってなくて、何故俺の痩せっぽっちの体は女の人みたいな柔らかさを持っていないのか、それに勝る重大事は存在しなかった。
好きな人をぎゅうと力いっぱい抱き締めることは、俺を馬鹿みたいに幸せにした。獄寺君の為とか考えるから難しくなるだけで、俺がしたかったことはこういう単純なことで、実行はとても簡単だった。
「……はい、いいよ。後は獄寺君のしたいようにして」
充分満足した頃に胸に押し付けていた頭を解放して(女の子の胸じゃないんだから息苦しくなったりはしない筈だ)、改めて大の字に寝っ転がった。
「えっと……十代目」
見上げた獄寺君はぽかんと口を開けて、やたらと瞬きしている。格好良い顔が台無しで、でも眉間の皺が無くなっているので俺にとっては嬉しい顔だ。
「なに?」
「もう一度十代目の方から触って頂けませんか?」
「いいよー」
まだ吃驚したような間抜け顔のままで、その割には妙にはきはきとした発音の獄寺君に頼まれた。
今度は痛くしないように、そっと両頬に手を当てて。軽い力で引き寄せれば、獄寺君の方から促されるままに顔を近付けてくれた。
その眉間に、啄むように唇を落とす。それから、こめかみ、目尻、頬に、俺なんかよりずっと高い鼻の先をぺろりと舌で舐めてみる。びくっと肩を竦めるのが可愛い。
最後に額にキスして手を離せば、
「……口にはしてくれないんですか?」
ああもう可愛い!ホント可愛い人だなぁ。
拗ねたように尖らす唇に、軽く触れてあげる。
「〜〜〜……!!」
先刻は自分からもっと濃いのを仕掛けてたクセに、なんかファーストキスの乙女みたいに顔を真っ赤にして悶えている。
「十代目っ……俺!!」
そのままガバリとくるかなーと思っていたのに、獄寺君は何故だかそのまま勢い良く起き上がって、俺をベッドに放置したまま床の上に降り立った。……この人の行動原理は未だによく解らない時がある。
「俺、握り飯食います!今すぐ!!」
あぁ……そーゆーのもあったっけ……。忘れてた。
勢い良く宣言するなり、被せてたラップを外して獄寺君は猛然とおにぎりを鷲掴みにし、噛り付き始めた。
「……うん………」
仕方なく、俺も続いて立ち上がった。あ、獄寺君靴履いてない。冷たくないのかな。
ぴたりと背中にくっ付いて、お腹に手を回してみたりして。だって今まで密着してたのに、急に離れたら寒いじゃない。
「じゅじゅじゅ十代目!?」
嬉しいんですけど先刻からこれは俺の夢ですか!?口から米粒を吹き出して、獄寺君があわあわ混乱している。辛うじて手に持ったおにぎりは落としてない。……俺、そんなに日頃は自分から甘えてないのかなぁ。ここまで驚かれると、ちょっと凹む。
「うん、獄寺君の愛は偉大だなーってね」
これは本当に凄いことだ。寝たフリしていたってこの人は俺が話し掛ければ返事せずにはいられないし、点けっ放しのライトは俺の足元を照らす為に違いないし、一年半前までは誰にも好意を持たれたことのなかったダメツナが、この人だけは何があっても俺を嫌わないだなんて、馬鹿みたいに確信している。
今おにぎりを食べてるのもお腹が空いたからじゃなくて、俺が喜ぶと思ったからだよね?
俺がゆっくり息を吐き出せば、釣られたように獄寺君も大きく深呼吸する。彼の肺の動きが、重なった身体から伝わってくる。
「俺の取り柄はそれだけっスから」
卑屈な調子でなく、いつもみたいな気負いもない獄寺君の言葉は、すとんと俺の胸の中に落ちてくる。
「うん、そうだね。ありがとう」
「こちらこそ有難うございます、十代目」
獄寺君が何にお礼を言ったのかは解らなかったけど、俺はとても充足していた。
背中に張り付いたまま、獄寺君がおにぎりを咀嚼して飲み込む音を、彼が全部を食べ終わるまでずっと聞いていた。固い背中に耳を当てていると、食べ物が食道を通って、胃がそれを消化して、栄養が体の隅々に渡っていく音が聞こえるような気がした。実際に聞こえるのは心臓のどくどくいう鼓動だけで、それは彼が生きているというこの上ない証だった。
俺にとって、一番大事なことだ。
長らくお待たせしました。ラブラブな獄ツナって何?とひたすらに自問自答した一万ヒット記念SS(今更)。
完全フリーと致しますので、こんなので宜しければご自由にお持ち帰り下さい。転載・デザイン変更・文章の添削も(笑)ご自由にどうぞ。
配布期間は一応カウンタが二万過ぎるまでとさせて頂きますが、……いや、でも欲しがって下さる方が本当にいるんでしょうかね……段々不安になってきた(-_-;;)