差し込む西日が、その室に格子模様の影を落としている。
 遠くで鳴らされた梵鐘の低い音が、空気のような静けさで距離を伝う。
 それを追うように、僧達による声明の響き。鐘の音と大勢の声が距離と共に解け合い、異国の響きは聞く者に不思議な情感を与える。
 案内された本堂で見た物に比せば流石に小振りだが、それでも独特の威圧感を放った異国の真人像が、薄目を開けて二人を睥睨していた。一条の夕陽を浴びて、金色に鈍く光るそれは妙に目を引く。
 
 掃除が行き届いているのだろう、質素ながらその寺にうら寂れた雰囲気は微塵もない。でありながら、それでも何処となく物悲しい気分に襲われるのは、許都の中に居るとは思えない異国情緒によるものか、それとも……在りし日の洛陽、白馬寺の絢爛たる大伽藍を見た過去の記憶が愴ましさとして甦るからかもしれない、荀は思う。
「この度尚書令様には、大層な御布施を賜りまして……」
 鼻梁高く彫りの深い顔立ちから一目で西域人と知れる管主は、端正な発音の京兆言葉を話した。
「一同、感謝の言葉もございません」
「いえ……身に過ぎた俸禄を頂いている身、少しでもお役に立てればと差し出がましいことを致しました。浮屠の信徒でもないのに余計な真似を、と詰られるかと思っておりましたが」
「いえいえ、お心遣い痛み入ります」
 老僧は穏やかな調子で応じる。顔中が皺で出来ているような容貌は平生でも笑みを刷いているように見えようが、綻んだ口元からも機嫌の良さが窺える。皺に半ば隠された瞳は異人らしく薄い灰味を帯びて、それが身分高い寄進者を凝と見詰めていた。
 枯れ木のような肌に刻まれた年輪は、漢土で嘗めた辛酸が深く彫り込まれている証であろう。故国を離れた遠い過去、若き日の彼は心に何を期していたのか。その時の熱意もやがて訪れた失意も、全ての濯われ恬淡とした僧の境地は、荀が目指して得られないものに見える。
「……お恥ずかしながら、浮屠の神に対しても、胡国の神仙というだけの知識しか」
「大半の漢人がそうでございましょう。とはいえ元は散関より西遷した老子が天竺で釈迦となり広めたのが仏法、国の風土により形を変えてはおりますが、道を求める心は何れも同じにございます」
「初耳でした。老子がそのような長い旅を……」
「近頃では漢人の沙門も増え、……これ、この経典も支婁迦讖様が漢訳した遺書を当寺の僧が校定したもので、つい先日完成致しました」
 室の隅に積み上げられた帛の山を、手で指し示す。その一反は、管主が直々に見聞していたのか、読みかけのまま卓に半ばを広げていた。
 一時は灰燼に帰したと思えども、焼け跡から嘗てとは違った世が訪れようとしている。白馬寺には異国人の僧ばかりが集住して、漢人は殆ど浮屠の何たるかを知らない時代が続いたことを考えると、乱世もある意味では功績があったと言うべきか。
 ……新しき世は古き秩序を破壊した上からしか芽生えないのかもしれない。それはまさしく、曹操や自分達が行おうとしていること。


 都から遠く離れた戦陣に身を置く主に思いを馳せて。
「布教を許可して下さる丞相や尚書令様のご恩に報いる為、当寺でも此度の荊州攻めにおける丞相の戦勝をご祈祷させて頂く予定となっております」
 その思考を読んだかのような契機で切り出された管主の申し出を聞いた時。……何故か強い拒絶感が身を震わせた。
「お止め下さい!……それは、」
 己が声の思わぬ鋭さに、口にした荀の側がたじろぐ。少しでも先程の語気を和らげようと、慌てて繋げる言葉を探す。
「主公は……淫祠邪教を嫌っておられますから。浮屠はそれらとは違うと見込まれておられるからこそ、保護されておられるのです。……そう、決して私利など考えてはおられぬ方ですから、ご自分の為のご祈祷とは、却って浮屠を邪教の位置に貶めることになると、悲しまれましょう」
「なんと、重ね重ねのお気遣い勿体のうございます。お言葉通り祈祷は中止としましょう」
 変に疑われたろうかと様子を窺ったが、不審を感じた様子もなく老僧はゆっくり頷いた。安堵するが、知らぬ振りの気遣いをしてもらったのかもしれぬ。それも穿ち過ぎか。
 ……恐らく、曹操は喜ぶだろう。怪力乱神など欠片も信じないあの現実主義者は祈祷など気休め程度のまやかしとしか感じないだろうが、宗教の権威すら自分の前に膝を屈する、その事実をこそ喜ぼう。
 何故それを止めたのだろう。
 自分の気紛れを表沙汰にしたくなかったのか。仕官もせず、その能力もなく、親鳥が餌を運ぶのを口を広げて待つ雛の如く、郷里で自分や兄の仕送りを頼みにしている一族達に嫌気が差したが故の寄進と見破られないかと、心中懼れたからか。
 いや、それ以上は考えまい。
「とはいえ、それでは此方の節が立ちません。当寺に出来ることがございましたら何なりとお申し付けの程を」
「では………」
 元より誉められた意図ではない、狼狽の中でふと魔が差した。
「故人の鎮魂などお願い出来れば」
「尚書令様とはどういった続柄のお方でしょう?」
「いっ、…いえ、誰というのではなく、戦乱に喪われた魂魄が安らかにあれと」
 少なくとも、嘘ではない。
 自らも思うところがあるのか、僧の皺面にも沈痛な影が過ぎる。誰しも、今の世で誰かを亡くしてきたのだろう。いや、何もなくとも時が至れば去り逝く命。
「そういえば浮屠の教えでは、人の魂魄は幾度も生死を繰り返すとか」
 ふと甦った記憶を糺してみる。
「はい、人の魂はその死後、輪廻に従い六道何れかに転生すると言われております」
「……何と辛い……」
 呟けば、僧は笑った。
「珍しい。多くの漢人の方は、その話を聞くと喜ばれました。何度でも生まれ変わりたいと望む程の、この国は素晴らしい楽土ですから。
 ……仏教の育った天竺は、永年の酷暑と飢饉に喘ぐこの世の地獄。生きるのを厭い転生を逃れる為、彼らは仏法に縋るのです」
 苛酷さで言えば、今の漢土も似たようなものに思えるが。いつかやって来るであろうより良き未来が、人々に希望を与え続ける。風土の違いとはこういうものを差すのだろうが。
「………その気持ち、理解出来る気が致します」
 しかし、生きることは痛い。
 漢の尚書令ともあろう者が異なことを言うと、再度笑われるのを予想した。
 伏せた顔を上げれば、しかし、穏やかな顔をした老人は、此方を包み込むように見詰めている。薄い瞳の色が、何故だか懐かしいと思った。
「では、あの世で往く先を選択出来るとすれば、尚書令様は転生と解脱、どちらをお選びになりますか?」
 思いも寄らない問い。
 考えようとしたが………心は一つの答えから動かなかった。
「戻って参ります。再び……逢いたい人がいますから」
 鬼神として、或いは浮屠の神の前で、そんな穏やかな邂逅をする相手ではない。苦しみつつも望んでしまう、それこそがこの世の責苦たる所以。
 荀の断言に僧は驚いたように眉を上げ、……照れたように禿頭を掻いた。
「お恥ずかしながら拙僧も同じ答えで、……互いに修行が足りませンのォ」
 異国めいた訛りが僧の口から漏れたが、豊かな響きのそれは荀にとって、最前よりずっと好ましく聞こえた。




 落日の刹那。
 影絵の中で聞かされる異国の教えは、どこか懐かしい響きがして……何故か哀しい。
 
 
 
 
 
駄文の間に戻る