城壁への同行を誘った荀攸に頷いたのは、索敵や相談といった用件を一切口にせず
「ゆうやけがきれいですよ」
無害そうな微笑みを浮かべ、おっとりと彼が誘ったからだった。
とはいっても日頃の賈ならば、戦術的な目的でもない私用で他人と連むなど何よりも忌避するところであったから、気が向いた、それだけの理由だったとも思える。
わざわざ誘うだけあって、本当に夕陽は美しかった。
日頃より高みから見下すからかもしれない。
敵襲に備え、県城程の規模を持った城塞の周囲には環壕が巡らされ、壁自体も強度をもって造られている。二人の踏み締める北面の城壁も地面の堅固さを持っていたが、いざ攻城兵器を前にしてどれだけ持ち堪えられるか。不利な戦しか経験してこなかった自分でも、今回が特に楽とは思えない。
眼下から目を外し、賈は首を曲げて天を仰いだ。紫色の雲がたなびいている。
日中は雲が多くて愚図ついた天気と感じていたが、うっすらと重なる雲がそれぞれ陰影を宿して、灰色、紫、橙、違う色を反射し混じり合っている。
やや遠方に視線を転じれば正面、土の色を多分に含んだ渠水の濁りが、銅貨を磨いたように光を弾いて川面を瞬かせている最中。きらきらと一刻も留まらず黄金色の移ろう様は、ゆっくりとした流れでありながらも変化する水の性をよく表していると見える。
その対岸にはやや高台の砂丘、官渡城に比べて急造ではあるが同じような造りの砦が幾つも、間隔を空けて並んでいる。
その彼方此方、全ての軍営から白い煙が細く昇り、天空の雲とやがては混じり合って。
それらを含めて美しい風景と言えたが、賈は変わらない表情のままで細く息だけを吐き出した。
振り返れば城内、味方の陣中にもそこかしこから夕餉の支度の煙が立ち上っている。
対岸とも変わらない光景でありながら、その半分以上が食糧不足を誤魔化す為の空焚きと知っている身としては、彼我の戦力差に頭が重くなる一方。
袁家の潤沢な兵糧に負けぬ程に見栄を張るのも、戦の続きだった。
これから冬を迎えれば火を焚く薪も貴重となるのだが、近い数日を遣り繰りするので精一杯で、背に腹など代える以外に術がない。
半ば存在を忘れつつあった荀攸に顔を向けぬまま、ちらと横目で見下ろした。
意識して気配を殺している賈ほどではないが小柄で容貌の凡庸な荀攸も、良くも悪くも目立つ風貌を持つ典雅な彼の叔父と違って、口を閉じていさえすれば周囲の空気に溶け込むのは容易い。
彼らの主君は先の見えない膠着状態と慢性的な全軍の飢餓状態に弱気を隠せず、その懐刀に戦略的撤退を打診しては諫められているらしいと聞く。文面を直接見た訳ではないが。
賈としては撤退と言われれば追撃を避け決戦に有利な戦場を決定するのに力を尽くすだけで、現状維持で持ち堪えろと言われればそれまでだが、ただ手を拱くだけの状況に正直苦痛を感じなくもない。
補給は担当でないといえども、旧主を誘い膝をついて以降は命運ばかり一蓮托生である。
自分は局地的な作戦を考える種類の軍師で、己の分は弁えているが。
「きれいですねえ」
荀攸の視線を追えば地平線の彼方、辛うじて虚空に身を浮かせている夕陽はゆらゆらと深紅に、ふと血の色を連想させた。草木の少ない平原はどこか故郷の夕景を連想させる。
不吉さを感じさせる紅を荀攸はうっとりと眺めていて、意味もなく賈はぞっとするものを感じる。
「…………っっ」
背後で息を呑む気配。聞こえる沓音で角楼から出てきた見回りの兵士かと思っていた賈は、何の気なしに振り返って血塗れの武将を発見してしまい大層驚いた。
夕陽に染められたが故の錯覚と直ぐに気付いた賈と違い、同様に誤認したらしい相手は斬り付けられたかのように、文字通りその場に飛び上がった。
視線が交差した瞬間、張遼の表情にはっきりと怯えが走る。
怪訝に思った賈が眉を顰める間にも、弁解とも何ともつかない言語を不明瞭に呟きながら、獅子に追われる仔兎のように逃げて行く。
……そこそこに屈強な、ひとかどの武人が。
「おやぁ〜?文遠どの、どうしちゃったんでしょうねえ?」
賈の些細な顔面運動に気付いたか否か、隣で荀攸がおっとりと首を傾げた。
かつかつかつかつと物凄い音で階を駆け下りる音は、途中でズルゥっ!という摩擦音に変化して。
「うわあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ………」
ズドドドド。悲痛な叫びは転がり落ちる物体が最下段に辿り着くまで続いた。
続いて――――――沈黙。
「…………………………………………………さあ」
鬼でも見たような反応を返される、身に覚えも特にない。
「もおぉ、虐めちゃだめですよぉ?」
「……違います」
今まで粗野な筋肉バカの巣窟ばかりで暮らしていたことを考えると、軽んじられたことはあっても怯まれた経験など一度もなかった。
曹操軍は基本的に文高武低だが、幾ら組織的に洗練されているといっても、軍師連が常日頃からああいった扱いを受けていないだろうことは新参の賈にだって判る。
「でもぉ、董卓軍にいた頃のしりあいでしょう〜?」
辺りが暗くなってきた所為かは知らないが、顔を向けた荀攸は妙に眠たそうにしている。瞬きも億劫そうに、目がとろんと半眼になっている。
張遼の過激な反応をあまり重要視していない様子からも、或いはあれは荀攸に向けたものかとも思われたが、それにしては恐怖の視線はしっかりばっちり賈に向けられていた。
「……個人的に話したことはありませんが」
そもそも董卓の率いてきた涼州軍閥と、丁原から引き抜いた并州軍閥は頗る仲が悪かった。そういえば呂布の背後に控えているのを見かけた覚えはあるが、賈自身、李らが権力を握る以前は大した役職に就いておらず、呂布とすら直接言葉を交わした記憶はない。
「………………」
もしかすると、その呂布の下で董卓を裏切り殺害した顛末を賈が怨んでいると考えたかもしれないと思ったが、要らぬ邪推を荀攸から受けるのも億劫なので口を噤んだ。流れ流れて互いに曹操軍に落ち着いた今となっては、それこそ今更の話である。
「そういえばぁ、私も長安にいたんですよ〜?」
「……はあ」
何故か荀攸は胸を張った。董卓政権が一応中央政府としての体裁を保っていたのは、荀攸のように結構な数の廷臣が、黙々と旧来の業務を空回りしながらも運営していたからであった。
知っているが、それこそ当時から友誼など一切無い。
「李儒どのが怖かったですねえ、董卓より怖かったですぅ」
「……はあ」
確かに怖い男だった。涼州人には珍しく武人からも懼れられていたが、あれのみは別格と言うべきだろう。不健康そうな青白い顔を思い出せば、賈でも血の気が引く。
「涼州の人って過激ですもんねえ。文遠どのもあれを思い出して怖がってるんじゃないですか〜?」
「……はあ」
成程、妥当かもしれない。当時の董卓のしたことなど規模が大きいだけで、辺境出身の武人から見れば大して異様なことはしていない。張遼の立場からすれば、李儒の存在の方が余程に恐怖の対象だったろう。
「私も危うく処刑されそうになりましたから〜〜」
ああそういえば。
目の前で穏やかに微笑む荀攸が、呂布以前に董卓暗殺を計画した一味とされていたことを思い出した。その細腕を振り上げ、彼らは何をするつもりだったのだろう。
自らも頭脳を武器とする人間であるからこそ、暴力を持たぬ彼らの絶望が理解出来る気もしたし、他人を操らず自力で立ち向かおうとした無謀が理解出来なくもある。
「証拠もないのに縛られちゃいましてねぇ、じめじめ〜とした牢に入れられたんですよぉ?」
「……はあ」
「そしたら食事に毒が入ってるんです〜〜」
「……何故判ったのですか」
「ええ?口に入れたら種類わかりますよねえ?」
「……はあ、まあ」
頷けば、我が意を得たりと荀攸も頷いた。凄惨な話をしているとは思えないにこやかさである。
「牢にいたネズミが死んじゃいましたし?泡を吹いて気持ち悪かったです」
「……それは間違いないですね」
「伯求先生もそれでご飯食べられなくて餓死しちゃったんですよ〜〜」
「……はあ」
普通は自白を得る前に毒殺するなど有り得ないが、李儒なら嫌がらせでやりかねない。
一度では死なない量でも、毎食口にすれば確実に危険は増す。抵抗して食べなければ何のように餓死するしかなく、判断が付く故の恐怖心を煽って自白を引き出そうという魂胆だろう。
「……荀軍師は、それでどうやって」
自白しようが処刑は免れない。如何に沈黙を保ったまま生き延びたというのだろう。
「それはですねえ」
荀攸は胸の前で手を組み、うっとりと目を輝かせた。いい年した中年男性の筈が、童女のようなあどけない風情を醸し出す。
「元常が泣きながら差し入れ持ってきてくれたんですよ〜〜」
「……はあ」
ノロケ?賈はちょっと聞く気を無くした。
「牢番に小銭を渡して、危険を顧みず忍んできたんです。ご飯は冷めてましたけど、お腹が空いてたからおいしかったです〜〜」
「……はあ」
美談ではないか。確か鍾は当時暗殺計画の一味とは見なされていなかった筈である。
「だから、元常の口に毒入りのほうを突っ込んだんですよ〜〜」
ますますうっとりと、荀攸は物騒な内容を口にした。
「………………………はあ」
賈としては対応に困る。
「困りますよねえ?反逆罪の証拠がなかったから処刑されてないのに、庇うようなことされたら二人とも首ちょんぱですよぉ〜」
「……はあ」
顧みなかったのは自分ではなく荀攸の危険だと言いたいらしい。
「白目剥いてましたよ〜、ちょっと泡吹いてましたねえ、うふふ」
「……はあ」
「牢番の人が引きずって連れ帰ってくれて〜、それからはこっそり残り物のご飯をもらえるようになったんです」
「……はあ」
万一無事に出てきた日には、どんな目に遭うか判らないと思ったのだろう。李儒と荀攸の板挟みにされた牢番が一番不幸に違いないが、末端は直接李儒から命を下された訳でないので、身近で顔も覚えられている荀攸の方が怖かったに違いない。
「ほんと、李儒どのは怖かったです」
「………………………ですな」
いや、どっちも怖い。
少し張遼の気持ちが判った賈だが、それにしても自分にまでそんな目を向けられるのは心外である。戦で人を騙して奪って殺しても、日常的にはごく一般的な常識人だというのに!
やがて今度こそ定刻の巡回に出てきた一般兵が、荀攸ににこやかな笑顔で拱手して、賈に対してはぎこちなく笑みを強張らせた。
「ごはんは大事ですよねえ……」
荀攸が、遠い目をしたまま独白した。
要は、遠回しに現状の不満を訴えたかったらしい。そんなことは許都の叔父にでも訴えろ。というより一族内の暗闘に自分を巻き込まないで貰いたい。
これだから中原の人間は怖いのだ、と奇しくも張遼と同じことを賈は思考した。
どことなく理不尽さを感じながら、賈は無表情のまま己の頬を軽く撫でる。
愛想のなさが皆に怖がられている原因だとは気付かない。