『行雲有反期 君恩中還 慊慊仰天歎 愁心将何愬――』
その楽府の書かれた紙を、握り潰した。
読めば読む程見事な作で、それが余計に曹丕を苛立たせる。
「どうなさいました」
突然の行動に眉を顰めた側近は、主の手にしている物を認め「ああ」と頷いた。
「ご不快なら、帰さねば宜しかろうに」
言外に、その兄に対するように、と。
「黙れ」
ぴしゃりと言い放てば、己の分を弁えた男は一礼して口を閉じる。それを横目で眺め、曹丕は舌打ちをした。
「端無くも罪尤を獲たり?」
口中で小さく呟く。
――この様子では、あれは全く解っていない。
何の為に都まで呼び寄せ、叱責したのか。これでは全く意味がない。
愚かな弟。
この兄が、他者による謂われない讒言に惑わされて実の弟を冷遇しているなど、本気で思っているのだろうか。
他者も、或いは曹植自身が何をしたかすら関係ない。生きて其処に在るというだけで、己がどれ程の災厄となるのか知りもないで。
必死に機嫌を伺い、哀れを誘う文面。救ってくれる筈の兄に憎まれ、疎んじられていると知れば、あれは遂に絶望するだろうか。慨嘆するだろうか。
……案外それすら意に介さず、己の忠誠を訴え続けるような気もする。
相手がどう感じようと、あれは自分の立つ位置を変えない。
その一途さが堪らなく厭わしい。
ちらりと傍らに目を走らせると、気配を消して佇む男。黙考する主の邪魔をせぬよう、あくまで口を開かない。
部下達に自分への忠誠がないとは、決して思わないが。
中央官界への復帰を自分と弟の両方に働きかけていたあの才子。
己の弟を曹植の側近にし、密かに兄弟を天秤にかけていた目の前の男。
自分の部下でありながら弟に接近したあの男は……もう死んだか。
……皆、酷く現金で、賢明だ。
それに較べてあれは側近も一途な者揃い。その所為で今は誰もいない。
あの愚かさを厭うが為、自分は逆の気質の者達を身近に侍らせるのだろうか。
「仲達」
「は」
「何故私は、あれを生かしておくと思う?」
「…………」
無造作に問えば、何事か言い淀む気配。答えを知っているのか、或いは解らないのか、どちらにせよ分を越える危険は滅多に冒さない。その賢明さが安心を呼ぶ。
その安心とはあまりにも違う。裏切られても、あくまで己の至誠を振り翳す弟。
かつて『己が人を裏切ろうとも、他人が己を裏切ることは許さない』と言い放った父と、対照に見えてその苛烈な一途さは同じもの。
自分の血にも流れるその一途さを憎むからこそ、己の代わりにあれを憎む。
「近親憎悪とはよく言ったものだ」
司馬懿は、応えない。
曹丕は、自らの手にも流れるその血を愛おしむように、潰れた紙を弄ぶ。
どのような災厄を招こうとも、簡単に殺したりなどするものか。
愚かな弟から垂露ならぬ血の涙を絞り取り、抉り出した心臓を握り潰すその時こそ、この上ない歓喜が得られると知っている。
その血を、厭わしく、愛おしく想うがこそ。